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秋晴の空から大いなる無秩序へ(2017.10)

空はなぜ青い

延々猛暑日の夏から一転、「天高く馬肥える秋」である。
実に清々しい。
が、実はこの諺のいわれは大変な話なのである。
中国版「七人の侍」なのである。

黒澤明の「七人の侍」は、
収穫の時季になると農民を襲いにやって来る野武士と戦う話だ。
同様に、昔、中国では、秋の収穫の時季になると匈奴が略奪にやって来るので、
その季節は警戒しろというのがいわれらしい。

しかし、なぜ天が高く見えるほど空は青いのだろう。
太陽光は、赤橙黄緑青藍紫の七色が集まったもので、赤が最も波長が長く、紫が最も波長が短い。
大気中には水蒸気など様々なものが含まれていて、
波長が短い光ほどこれらにあたって散乱する。
だから波長の短い青藍紫の青色系の光がわれわれの目に届き、空は青く見えるのだ。

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朝焼けや夕焼けは、太陽の位置が低いため、太陽の光が長い距離を進む。
その間に青色系の光は散乱しきってしまい、残った赤色系の光が散乱されて起きる。

逍遥遊

天高く澄んだ青い空を見るといつも思い出すのが荘子の逍遥遊(しょうようゆう)である。
荘子内篇の最初を飾る物語、「北冥に魚あり、其の名を鯤と為す」で始まる逍遥遊篇は、
荘子という書物の何たるかを語る、荘子の巻頭を飾るにふさわしい壮大で自由な物語である。
逍遥遊は、ざっと次のような話だ。

北の果ての暗い海に鯤(こん)という魚がいる。その大きさは、何千里あるのか見当もつかない。
鯤は、時を迎えると姿を変えて鵬という鳥になる。その背の広さは、幾千里あるのか見当もつかない。
鵬が飛び立てば、その翼はまるで青空を覆う雲のようだ。
鵬は、海が荒れ狂う時、風に乗って天の池である南の果ての海に飛翔する。
地上では、陽炎やごみのように生きものがひしめきあって呼吸している。
その上に広がる大空の青々とした色は、大空そのものの色なのか、
それとも遠く限りがないからそう見えるのだろうか。
鵬が下を見下ろすと、このように青々と見えているに違いない。

秋のどこまでも青い空を見ると、いつもこの逍遥遊を思い出すのである。
荘子とは、とてつもないことを考える人である。
そもそも、「鯤」とはカズノコやイクラのような魚卵を意味する漢字だ。
微小な魚卵が何千里あるのか見当もつかない大きな魚になり、
その魚がさらに変身して大きな鳥になって、天にある海に行くというのである。
なんとまあ壮大かつ支離滅裂な話だ。

このように、逍遥遊はそのひとつひとつがとんでもない話だが、
中学生か高校生の時、漢文の授業で最初にこの文章に接した時、特にハッとしたのは最後の

「大空の青々とした色は、大空そのものの色なのか、
それとも遠く限りがないからそう見えるのだろうか」
(天の蒼蒼たるは其れ正色なるか、其れ遠くして至極する所なければか)

の部分である。

秋の天高く澄んだ青い空の不思議さを言い表したもので、これ以上のものに出会ったことはない。
なぜ空は青いのか、それは空の色なのか、それでは空とは何か、空はどこまで続いているのか。
2,300年も前に書かれたものが、現代の物理学的な色彩を帯びているのは面白い。

注意しなければならないのは、
鯤は、この限りなく広がる蒼蒼たる天を見上げているのではなく、見下ろしているのである。
これはとんでもない着眼点だ。
飛行機はもとより、地球や宇宙という概念のない時代に、
大空を見下ろすという発想がとんでもないと思うのである。
逍遥遊では、鯤が空の上から空を見下ろしても、同じように青々と見えているに違いない、と言っている。

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天の蒼蒼たるは其れ正色なるか、其れ遠くして至極する所なければか。
鯤は、この大空のどこまで飛翔したのだろう。

渾沌の話

逍遥遊篇で始まる荘子内篇は、應帝王篇で終わる。
従って、應帝王篇は荘子内篇の結論ともいえる。
荘子内篇の最後を飾るこの應帝王篇がまたとんでもないのである。
鯤に続いて小生の好きな渾沌(こんとん)の話である。
渾沌の話は、ざっと次のような話だ。

南海に儵(しゅく)、北海に忽(こつ)、中央に渾沌という3人の帝王がいた。
儵と忽は、ある時渾沌の地で出会った。そこで渾沌は2人を厚くもてなした。
儵と忽は渾沌のもてなしに報いようと、次のように相談した。
人には7つの穴(目2、耳2、口1、鼻2)があり、これらによって見、聞き、食べ、呼吸をしている。
しかし渾沌にはこれらがないので穴を開けてやろうではないか。
1日に1つずつ穴を開けていくと、7日目に渾沌は死んでしまった。

なんとまあ、福笑いのような突拍子もない話だ。
いったいどんな顔だったのか、一度渾沌を見てみたかった。
逍遥遊のところで物理学的な色彩を帯びていると書いたが、
荘子が愛読書だった湯川秀樹は「本の中の世界」で次のように言っている。

「儵も忽も素粒子みたいなものだと考えてみる。
それらが、それぞれ勝手に走っているのでは何事もおこらないが、
南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になった。素粒子の衝突がおこった。
こう考えると、一種の二元論になってくるが、
そうすると渾沌というのは素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる。
(中略)今から二千三百年前の荘子が、
私などがいま考えていることと、ある意味で非常に似たことを考えていたということは、
しかし、面白いことであり、驚くべきことでもある」

一般人から見れば現実離れした一見奇妙な理論である量子物理学と渾沌のイメージは、
確かに何か共通のものがあるような気がする。

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湯川秀樹著「本の中の世界」岩波新書。
自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、
人間はただ右へ左へふり廻されているだけという真理に、
反発しつつも同時に強く惹かれると湯川秀樹は語っている。

あるがままに

渾沌、即ち混沌、カオスである。
渾沌の話は、物事に無理に道理をつけることの戒めとか、
人間の浅知恵による自然破壊とかに一般的には解されるが、
道教での解釈はもっともっと深淵なものである。

渾沌は、まさにカオスなのだが、単に無秩序という意味ではなく、
価値や分別を越えた根源的な本質、真理なのである。
人間の五感や考えなどというものは、ちっちゃな秩序でしかなく、
それによって世界や物事の真理や本質を見ることはできない。
所詮ちっちゃな人間の分別や作為が、真理や本質を見失せてしまうのである。

あるがままの形ですべてを包含したものは、大いなる無秩序だが、命がかよっている。
どこまでも青いこの大空のように。

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