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ドラクエとウルトラマンが教えてくれた(2017.8)

平和公園の異空間

また夏が来た。去年の夏の日を思い出す。いつものように暑い日。
元安橋。平和公園のど真ん中。
原爆資料館で沈痛な衝撃を受け、原爆慰霊で素直な気持ちで手を合わせ、
その気持ちを胸に抱いたまま、平和の灯や原爆の子の像から原爆ドームに向かう元安橋。
あの日、その下を亡くなったおびただしい人が流れていった元安橋。

その元安橋の橋の上や橋のたもと。
スマホを手にしたたくさんの人。
ある者は地べたに座り込み、ある者は車座になって、
みんなそれぞれ別々の方向を向き、物も言わずにスマホに見入っている。
原爆の日を間近に控え、この連中をどうするんだ。
平和公園でこんなことが許されるのか。
そんな異様な、場違いな光景がなくなって久しい。

ついにゲームは野外でやるものになった。それ自体はいいことだと思う。
引きこもりを外に引っ張り出し、運動不足の人に適当な運動を与え、いいことだと思う。
TPOをわきまえ、人に迷惑をかけなければ。

しかし、たかがゲームがここまで進化するとは。
ゲームの創成期が青春時代と重なる小生達の年代は、
ゲームとともに歩んだ世代と言えるかもしれない。
大学生の頃登場したのが、ブロック崩しとインベーダーゲームである。

当時の喫茶店には必ずインベーダーゲームのゲームテーブルがあった。
1人もしくは2人がけのブラウン管が埋め込まれた小さなテーブルで、
100円を入れてゲームをするのである。
今の若者は知らないだろうなあ。
熟達者がやる必殺技「ナゴヤ打ち」には目を見張った。
当時出始めた150円のポカリスエットを飲みながらやったもんだ。

そして、次に登場したのが、ファミコンである。
エンジとクリーム色の今から思えばちゃっちいゲーム機だった。
ファミコンと言えば、まず、スーパーマリオだろう。
しかし、こちらは手先の器用な子どもたちに譲って、ファミコンと言えば、
それはもう、ドラクエだ。

そして伝説へ・・・

小生は友人から勧められ、ドラクエⅢから始めたのだが、これは、はまった。
ロールプレイングというスタイルがぴったりはまった。
自分の分身である主人公と一緒に様々な街や城を訪ね、
様々な人と話をし、山や森や洞窟を冒険し、
様々な体験を通じて主人公を成長させていく。
これには、はまった。

あのテーマソングが耳に入ったり、「アリアハン」(主人公の故郷の街)と聞くだけで、
今も胸が熱くなる。
ラスボス(実は違うのだが)魔王バラモスを倒して「やったー」と思ったら穴に落ち、
別の世界が広がり本当のラスボス・ゾーマとの戦いが始まるという、
9回裏の逆転ストーリーにも感心した。

Ⅲをやった後、Ⅰ・Ⅱをやったが、落ちた穴の下の世界はⅠ・Ⅱの世界だと後から知った。
Ⅰ・Ⅱをやった人がⅢをやったら、感動することは容易に想像できる。
そして初めて「そして伝説へ・・・」というサブタイトルが腑に落ちる。
Ⅰ・Ⅱ・Ⅲは勇者ロトの伝説物語なのだ。

しかし、Ⅰ・Ⅱの「ふっかつのじゅもん」は辛かったね。
書いた紙きれをなくした経験は、やった人ならみんな持ってるんじゃないかな。
今じゃありえんね。
しかし、それがまた、ゲームを大切にすることにつながるんだよね。

攻略本は決して買わず、
落とし穴のあるタンジョンは何回も歩いて落とし穴から落ち、
すべての落とし穴の位置を自分で探し出して方眼紙に記録したり、
武器を持たず、素手でラスボスに勝てるまで成長させたりとか、
信じられないことをやる尊敬すべき猛者がわが社にはいる。

それと、主人公の名前は自分の子供の名前にし、
パーティーは自分と妻の名前にしていた人が多かったね。
懐かしいなあ。

ドラクエに惹かれるのは、戦いや謎解きだけじゃない。
そのストーリー展開やちょっとしたセリフにある。
ドラクエⅤで、主人公と妻が石にされ、10年間ほっておかれる場面がある。
石となってうち捨てられた彼の上に淡々と雪が降り積もるシーンは、
たかがゲームとはいえ、胸が張り裂けそうになった。

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ドラクエⅢ。僕の中では最高のゲーム。
CGやVR全盛の今でも、RPGの要素が詰まった原点、バイブルだ。

ドラクエだけでなくFF(ファイナルファンタジー)はもちろん、
当時はいろいろなRPGをやったけど、
特に心に残っているのは「MOTHER」である。
「MOTHER」は糸井重里の作品で、
アメリカの田舎町を舞台にした宇宙人襲来という異色のストーリーだ。
随所に糸井重里流のウィットに富んだ社会批評や言い回しがある。

各家庭に置かれたテレビ風の侵略者の配布物を「幸せの箱」といったり、
戦闘でモンスターに勝利すると、
「○○はわれにかえった」とか「○○はおとなしくなった」など表示され、
敵を殺したわけではないことを示唆するのも心憎い。
「MOTHER」は、ずいぶん前に「MOTHER3」が出た後続編はなく、
ぜひ続編を作ってもらいたいシリーズだ。

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「MOTHER」1・2・3。
「指輪物語」をその源流とするような勇者や魔法が活躍するファンタジーではなく、
現代社会に宇宙人が襲来するというストーリーは、斬新である。
さすが、糸井重里。


ウルトラマンの苦悩

RPGにせよ、シューティングにせよ、アドベンチャーにせよ、
モンスターが登場する映像の原点を遡ると、ウルトラQとウルトラマンにたどり着く。
ウルトラQやウルトラマンには、一筋縄ではいかないいくつかの物語がある。

そもそもウルトラマンは、地球を救うためにやってきたのではなく、
宇宙の正義を守るためにやってきたのだ。
従って、もし、人類が結果としてこれらに反するような行動をとれば、
ウルトラマンは自分の行動と宇宙の正義の狭間で苦悩するのである。
だからウルトラシリーズは、単純な勧善懲悪の物語ではなく、
怪獣を含む他の生物や環境問題に対する人間のエゴのありようをにじませるのである。

最も心に残る話が「故郷は地球」のジャミラである。
ジャミラは元々人間の宇宙飛行士だった。
宇宙飛行士はある惑星に不時着するが、
宇宙開発競争にしのぎを削る祖国に見捨てられ、
水のない惑星に順応するうちジャミラという怪獣に変身し、
復讐のために地球にやってくるのだ。
ジャミラは、科学特捜隊本部の指令により、
元人間だったということは秘され、怪獣として葬り去られる。

ウルトラマンシリーズに登場する様々なウルトラマンは、
時に怪獣との戦いを後悔したり、戦いの中で大切なものを失ったりして苦悩する。
ひとつの命の中に、人間とウルトラマンの二つの命を有するウルトラマンは、
二つの体と心のギャップに苦悩するのだ。
ウルトラマンは、地球では孤独だったろうと思う。

自立と自由

日本語では単に「孤独」だが、英語では「loneliness」と「solitude」がある。
この2つは明らかに違う。
「loneliness」は、疎外され、孤立して、友達や仲間がおらず、
「一人ぼっち」なのであるが、
「solitude」は「solo」、つまり「一人」なのである。

「一人ぼっち」は自分でその状況を改善することはなかなか難しいが、
「一人」は自分が希望すれば二人にも大勢にもなることができる。
逆に言えば、一人でいたいから「一人」なのだ。

「一人」とは即ち「群れない」ということである。
自分のやりたいことを自分の意志と自分の責任でやるということだ。
すなわち、自立と自由ということである。
自立した自由な人とはなんと素晴らしいことだろう。
だから僕は「孤独(solitude)」を愛する。
それは決して一人ぼっちじゃない。

「おひとりさまの〇〇」・・・最近よく聞く言葉である。
晩婚化の中で、シングルの人だけが「おひとりさま」のように言われるが、それは違う。
人は誰も自分の意志で生まれてはこれない。
自殺以外は自分の意志で死ねない。
そして、どんなに多くの家族に囲まれていても、生まれてくる時と死ぬ時は一人である。
「おひとりさま」で生まれ、「おひとりさま」で死ぬのだ。
だったら、せっかく生まれてきて生きている時は自立した自由人として生きたい。
「孤独(solitude)」な人間で生きていたい。

大丈夫だ、ウルトラマン。
君は誉れ高き「孤独(solitude)」にあったのだ。
決して「一人ぼっち」なんかじゃなかった。
ゼットンとの戦いの後、君は、そして伝説になったのだ。
ドラクエとウルトラマンは、僕に自立と自由、そして「孤独(solitude)」を教えてくれた。

もちろん、7月29日発売のドラクエⅪは発売日に買い、
一人「孤独」な楽しみに浸っている。

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