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風の中に答えを探して(2017.1)

何と、あのボブ・ディランが…

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

昨年を振り返れば、カープの25年ぶりの優勝が最大の出来事だったけど、
驚いたのは、何といってもボブ・ディランのノーベル文学賞だった。
体制にあらがうカウンターカルチャーの元祖のようなボブ・ディランが、
こともあろうに体制側の世界最高の賞を受賞したのだ。
こんな真逆の世界はそうあるもんじゃない。

案の定、受賞が決まっても本人からは何の反応もない。
世界中がかたずをのんで見守った。
ノーベル財団は本人不在でも授賞式はやるという。
そしていたずらに時間は流れ、受賞発表から2週間たって
ようやくボブ・ディランは「あまりの事に、言うべき言葉が見つからなかった」と言い、
栄誉に感謝し、受賞を受け入れることを発表した。

ボブ・ディランは授賞式に出席することはなかったが、
スウェーデン駐在大使がメッセージを代読した。
その中で彼は、トーマス・マン、パール・バック、カミュ、ヘミングウェイなどの名前をあげ、
彼らの作品に親しんでいたことを明らかにした。
そんなバックボーンが彼にはあったんだ。

そして、彼はこう言った。
「50人を前に演奏する方が、5万人を前に演奏するより難しい。
5万人は一つの個性となるが、50人はそれぞれの人が別々の個性を持っている。
自分の正直さや、それがどう才能と結びついているかを試されている」

ホテル・カリフォルニアにようこそ

僕は突然、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のことを想った。
「ホテル・カリフォルニア」は、12弦ギターのイントロやツインギターのリフが効いた名曲だが、
この曲は、サウンド以上に歌詞が曲者なのである。
それは、惑星ソラリスのように、
決して脱出することのできない異次元の空間に迷い込んでしまった男の物語なのである。
そして、不可解な歌詞にはいろいろな暗喩が重ねられ、言外に多くのことを想像させる。
その歌詞のストーリーとは、概ね次のようなものである。

僕は暗い砂漠の高速道路で灯を見つけ、宿をとることにした。
そこでは「ティファニーのねじれた」心と「メルセデスベンツのラインを持った」女性が案内してくれ、
彼女が友人と呼んでいる男の子たちが
「思い出すために」また「忘れるために」ダンスを踊っている。
ボーイ長を呼んでワインを頼むと、「1969年以来、酒(スピリット)を置いていない」と言う。
彼女は「私たちはみんなここの囚人、みんな自分の意志で囚われたのよ」と言った。
僕は帰ろうと思ってドアに向かったが、夜警の男たちがいてこう言った。
「あなたは好きな時にチェックアウトできます。
しかし、あなたは決してここを発つことはできません」

なぜこの「ホテル・カリフォルニア」のことを想い出したかというと、
「1969年以来、酒(スピリット)を置いていない」という歌詞である。
この歌詞を知る人ではよく言われることなのだが、
1969年という年は、空前絶後のロックイベント「ウッドストック」が開かれた年なのだ。
「ウッドストック」は、
ベトナム戦争が泥沼化する中で頂点を極めたカウンターカルチャーの象徴であり、
そして、ボブ・ディランは、当時ウッドストックに住んでいたのだ!

「スピリット」という言葉には、「酒」の他に「精神」・「魂」という意味があり、
「1969年以来、酒を置いていない」という歌詞は、掛詞の解釈でいえば、
「ウッドストックを最後にロックの魂は失われた」ということになる。
「ロックの魂」とは、お行儀のいい表面的な既成のものに抗い、戦い、
個性と自由を求める「魂」である。
(僕は、そういう「魂」を愛する)
その「魂」が死んだというのだ。
一般的には、以降のロックはその「魂」を忘れ、商品化され、大衆化されたと解釈される。

サビのリフレインではこう歌う。
「ようこそホテル・カリフォルニアへ。なんて素敵な所。あなたのアリバイを持ってきて」
アリバイ(不在証明)を持った人は安心して楽しめる安全な場所。
でも、そこに集う人の免罪符は、本当の真実ではなく、薄っぺらなアリバイなのである。
そして、一度そのような安楽な場所になじむと、二度とそこから抜け出すことはできない。

最後の歌詞「しかし、あなたは決してここを発つことはできません」と言いきった後、
じりじりとこの時を待っていたように、ドン・フェルダーがギターソロになだれ込む。
歌詞を知れば、この拒絶と孤独、絶望感と無力感、そして怒りがソロに沁みる。

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イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」。
12弦ギターのイントロ、5度・3度のコード進行、反復するベースライン。
ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュのくねくねと絡みつくようなギターソロ。
ああ、たまらんねえ。

風に吹かれて

「ロックの魂」が死ぬ前、
ボブ・ディランは、音楽面でのカウンターカルチャー、プロテストソングの雄であった。
しかし、「ロックの魂」が死ぬ頃、ボブ・ディランも変貌していった。
アコースティックからエレクトリックへの転換である。
この変貌は、フォークに対する裏切り行為として大きな批判にさらされた。
だが彼は、それ以降も時代とともにさらに様々に変貌していく。
ローリングストーン・・・転がる石のように。

しかし、今もって最も彼を代表する曲は、
「ロックの魂」がまだ生きていた1963年の作品「風に吹かれて」なのである。
僕は高校生の頃、PPM(ピーター・ポール&マリー)でこの曲を知った。
この曲はボブ・ディランのカバー曲であることは、後から知った。

「風に吹かれて」は、
「人はどれぐらい道を歩めば、人として認められるのか」
などという理念的で抽象的な問いかけと、
「どれだけの砲弾を発射すれば、永久に禁止されるのか」
などというプロテストで具体的な問いかけとを繰り返し、
いずれも「答えは風に吹かれている」(The answer is blowin’ in the wind.)と返すのである。

今思えば、あの頃の日本のフォークは、
「木枯し紋次郎」の主題歌で上條恒彦が歌った「誰かが風の中で」とか、
はしだのりひことシューベルツの「風」とか、
「風に吹かれて」のイメージを反映したものが少なからずあった。
昔はそう思わなかったのだが、改めて今考えてみるとそう思うのである。

ボブ・ディランとシェークスピア

「答えは風に吹かれている」とは実に文学的な表現で、
聴き手によっていかようにも解釈できる。
「風」は、「風」という「もの」があるのではなく、移り変わるその状況を指すものである。
風まかせ・風の便り・風を切る・風当り・風の子・風を捕まえる・風薫る等々、
日本語でも風にまつわる言葉は多い。
何が、なぜ、どのように「風に吹かれて」、そのあとどうなるのか。
「風に吹かれて」は、解釈、想像の幅が大きく、自由なのである。
それは、実に文学的な表現なのである。

先のノーベル賞の授賞式のメッセージで、
ボブ・ディランはなんとシェークスピアを引合いに出して次のようなことを言っている。
「シェークスピアは、自分は劇作家として演劇のための言葉を書いているのであって、
文学を書いているという意識は全くなかったのではないでしょうか。
同様に、私の書くものは、コーヒー・ハウスやバーで聴かれるものであり、
文学を書いているという意識は全くありませんでした。
自分の曲は文学なのか?と問いかけたことはこれまでありませんでしたが、
その大きな問いについて考える時間を与えてくれたこと
そして最終的にこんなにも素晴らしい答えをくれたこと、その両方に感謝したいと思います」

僕は、50人を前に話せることができるだろうか。
自分とは違う多種多様な考え方を持つ50人の前で。

僕は、安楽な牢獄を見極めることができるだろうか。
一度入ってしまうと二度と抜け出すことのできない牢獄を。

僕は、風に吹かれながら流されることなく自分を保つことができるだろうか。
そして、風の中で本当の答えを見出すことができるだろうか。

暦が廻るこの年に、ちょっと立ち止まり、これまでの道程を振り返り、
また、前に進んでいきたい。
と思うのである。

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