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忍ぶれど、色に出にけり

ひこうき雲

高校の同級生と久しぶりに集まろうということになり、
首都圏からの3人を含め、三十数年ぶりに7人が集まった。
首都圏組を広島空港まで見送ることになり、小生の車で移動した。
このメンバーならBGMは荒井由美である。
ピアノから入るあのイントロが流れたとたん、
「ああ、いいね。荒井由美」
一瞬で、あの頃に戻る。

僕たちは「松任谷由美」とは言わない。あくまでも「荒井由美」である。
まだ、彼女が十代の頃、デビューしたての彼女を見つけてきたやつがいた。
アルバムのタイトル曲を聴いてぶっ飛んだ。
なんて曲だ。なんてきれいな曲だ。なんて叙情的な曲だ。
「ひこうき雲」
そして、「ベルベットイースター」、「海を見ていた午後」。
初めて聴いたときから心にしみこんだ。
こんな曲を作る日本人がいたんだ。しかも僕らと同じ年代だ。
荒井由美の曲は、ワンパターンではない。
彼女は多くの音楽スタイルを若くして体得していて、しかもすべてが美しい。
こんなメロディーメーカーは、ポール・マッカートニー以外僕は知らない。

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荒井由美のデビューアルバム「ひこうき雲」。センスのいいジャケットにセンスのいい曲がいっぱい。

荒井由美を初めて聴いたとき、これは蕪村だと思った。
そう、俳句の与謝蕪村である。
蕪村は画家でもあるためか、その俳句はとても絵画的で色彩感がある。

 春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉 
 ゆく春やおもたき琵琶の抱心

3月号のえこらむなので、春の句をとりあげてみた。
春のやさしい光、朦朧とした風景。
まさにパステルカラーに包まれたその風景が目に浮かぶではないか。

 牡丹散りて打かさなりぬ二三片
 朝顔や一輪深き淵の色

花を題材にしたこれらの句は、ピンクの牡丹の花びらの質感、
吸込まれそうな群青の朝顔の色が瞬時にイメージされる。
句の中には、色についての言葉は一切ない。にもかかわらずだ。

音や形には色がある

荒井由美の曲には色彩がある。
それもパステル調の淡いブルーかパープルだ。
ピアノという楽器は♭系の響きが美しい。
キーがE♭やA♭は特に美しく、彼女を含め、ピアノ弾きが好んで使う。
これが彼女の曲の色の源だ。

余談だが、これが、ギターやバイオリンなどの弦楽器になると、
♭系はフレットが飛んで非常に弾きにくい。
弦楽器は♯系なのである。
ギターでは、E♭やA♭などのコードは押さえにくいこと甚だしい。
そもそも荒井由美は、実家が呉服屋だったので、染色を志して多摩美術大学に入学したのだった。

「シェヘラザード」を作曲したリムスキー・コルサコフは音に色を感じた。
例えば、ハ長調は白などと音階と色との対応付けを行っている。
「シェヘラザード」はアラビアンナイトを題材にしためくるめくような色彩感覚の音楽である。

超絶技巧のピアニストにして作曲家、指揮者のフランツ・リストは、
オーケストラの指揮の際、「ここは紫色で」などの指示を出して団員を困らせたというし、
「オネスティー」のビリー・ジョエルも音に色があると言っているそうである。
このように、五感のある刺激に対して異なる種類の感覚も同時に感じる知覚現象を「共感覚」いう。
共感覚の中でも、音に対して色を感じる知覚を「色聴」という。

聴覚以外の五感はどうだろうか。
視覚についていえば、色は音だけでなく、形ともリンクしている。
画家のカンディンスキーや色彩学者のイッテンは、
色と形の関係について研究し、両者に特定のつながりがあるとした。
すなわち、赤は正方形(立方体)、青は円(球)、黄は正三角形(正三角錐)としたのである。

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ある色を見て連想する形がその色に最もふさわしいコーディネートだ。

さらに、味覚である。
よく考えてみると、青色や紺色の食べ物というものは、
キャンディーやアイスクリームなどの人工的なものを除いてほとんどない。
食べ物というものは、基本的に赤・橙・黄などの暖色系である。
さらにその中でも、赤は辛味、橙は甘み、黄は酸味が連想される(カレーは別だね)。
また、白は「さっぱり」系、茶は「こってり」系ではなかろうか。

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パブロフの犬でなくとも、黄色を見れば唾液が出てくるのは自然の法則。

景観と色

木の色は何色であろうか。
緑?では、木が寄せ集まった山の色は何色であろうか。
水の色は何色であろうか。
水色?では、川や、池や、海の色は何色であろうか。

木の「緑」という色は、
木というものそれ自体が持っている色だ(これを「固有色」という)。
しかし、実際には、太陽の明るさや天気の状況、
また遠近等によってものの色というのは異なって見える。
木は一概に「緑」とはいえないのだ。

このような考え方に立って絵を描けば、
そのもの自体が持っている固有色はなくなってしまう。
モネの「睡蓮」のような印象派の絵画を思い出して欲しい。
絵の具をまぜて色々な「緑」を作って木の描くのではなく、
1回の筆づかいで1色の絵具を画面に落とす。
いわば、モザイク状の点描画だ。

木の色は「緑」だけでなく、赤だって、青だってあっていいわけだ。
これらの色は混ぜないで画面の上に並べて置かれ、色彩分割される。
いや、そもそも、そのもの自体が持っている固有の色などないのだ。
そのもの自体も刻々と変化するし、それに当たる光によって色は変わる。
それを知覚する人間も感覚も千差万別だろう。

絵画というといかにも芸術家のようであるが、
このことは私たちにとって非常に身近なことである。
下の写真をご覧いただきたい。
(この写真は一昨年のえこらむでも掲載した飛鳥の写真である)
なつかしい日本の風景である。

山の色に注目していただきたい。
何色であろうか?一様ではないことはすぐ分かる。
そう、近景、中景、遠景では色彩は異なるのである。
そして、その要因は距離だけではない。
天気の状況や、雲、霞、霧、靄(もや)、露・・・
すなわち空気中の水蒸気の状況も大きな要因である。
ま、最近は黄砂だけでなく、PM2.5なる困ったものも飛んできているが。
この雨冠の漢字の豊富さが、
日本の水に恵まれた豊かで、優しくて、叙情的な風土を物語っている。
何て素晴らしい国に僕たちは生まれたんだ。

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たたなづく青垣。山は紫に水清く。

自然の「緑」は「緑」ではない

「環境」で扱う対象は広い。
大気、水質、騒音・振動などの生活環境から
自然環境、快適環境、地球環境など様々な対象がその範疇である。
その中で、我々に一番馴染みがあるのに、一番疎遠なのが「景観」である。
そして、「景観」の「色」である。
いつ、どこに行っても風景はそこにあるから、あたりまえになっているのである。

緑の自然の中に構造物を作るとき、景観的に用いてはならない色がある。
実は、それは「緑」なのである。
構造物の「緑」は、自然の「緑」とは全く異なる。
何が異なるかといえば、テクスチャー(肌理)である。
テクスチャーが一様な構造物は、テクスチャーが複雑な自然の中では非常に異質である。
構造物の「緑」は「緑」だが、自然の「緑」は「緑」ではないのだ。

春である。春は光である。
春の光の中で、もう一度心の目を開いて様々な「色」を感じて欲しい。

 菜の花や月は東に日は西に  蕪村

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