アバターを見た。そして考えた(2023.3)
アバターを見た
「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」を見た。
相変わらずのとんでもない映像であるが、2作目なので1作目の衝撃に比べれば、
まあこんなもんだろうという感じになっているのは仕方がないか。
「スター・ウォーズ」や「インディー・ジョーンズ」を始めて見た時もそうだった。
頭上を延々と流れていく宇宙船、洞窟の中で迫りくる大石、とんでもない映像にぶっ飛んだ。
しかし、それらは続編が続く中で当たり前のようになった。
今見ると、古臭くさえ感じてしまう。申し訳ないことである。
で、思うのである。
この手のCGや最新映像を駆使した映画がある一方、
当たり前だが映像的に普通の映画もある。
もちろん普通の映画でも、アカデミー賞に撮影賞があるように、
斬新なショットや撮影手法を駆使しているのだが。
要は感動するところのありかなのである。
とんでもない映像ももちろんそのうちのひとつなのだが、
ストーリー(脚本)であったり、セリフであったり、テーマであったり・・・
映像的に普通の映画でも、心に残る映画は沢山ある。
しかしアバターは、映像とは別に、基盤を貫く思想に僕は興味を覚えるのだ。
アバターの生命観
アバターの主人公は惑星パンドラに棲むナヴィという先住民族である。
パンドラではすべての生きものの命はつながっており、
パンドラ自体が大きな一つの生命体である。
生きもの死後大地に還り、その命は循環していく。
例えば、パンドラに生息する植物は交信し合い、
それらが巨大なネットワークを形成して惑星全体を覆っている。
パンドラに生きるすべての生きもの―生態系―の生命エネルギーの総体は意思を持っており、
ナヴィを始めとするパンドラの生きものはその意思にアクセスすることができる。
ナヴィはその根源的なものを「エイワ」と呼び、畏敬している。
あらゆるものがつながっている
まず思うのは、生きもの(生命)のつながりである。
まさに生物多様性のイメージである。
生きとし生けるものはその生涯(ライフステージ)を通じ、
様々な生きものと様々に関係し合っている。
食う・食われるの関係や共生といわれる関係はその最も分かりやすいものだが、
例えばこのコラムの第1回でご紹介したように、
固い種の唯一の運搬者であるドードー(鳥)がいなくなれば(絶滅すれば)、
種の主であるタンバラコク(植物)は繁殖できない(絶滅する)。
生きもののつながりは人知をはるかに超えている。
国連環境計画の最新の報告によれば地球上の生物種は約870万種といわれる。
その一つひとつに他の生きものとの複雑なつながりがあり、
そのつながりは膨大かつ緻密なネットワークを形成している。
それを構成する最小単位の生物一個体を見てみても、
その体の中に神経細胞のつながり―シナプス―という複雑にからみあう極小のモデルがある。
命あるものだけではない。
私たちが立っているこの大地の土、私たちが呼吸しているこの大気、
私たちの体の60%以上を占めるという水など、
命なきものも様々な生きものによって形を変えながら創り出されたものだ。
この地球上のものは、あらゆるものがつながっているのだ。
全体が一つの命
次に思うのが、星自体が意志を持っているということだ。
アバターを見て、僕はすぐタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を思い出した。
惑星ソラリスは、その表面全体を覆う海が知性を持つ巨大な生命体で、
宇宙船で近づいてくる人間の心の奥にあるものを読み取り、
読み取ったものを実体をもつリアルとして宇宙船に送り込んでくるのだ。
例えば、
ソラリスを探索する宇宙船に乗る主人公の前に、忽然として自殺した妻が現れるというふうに。
星自体が一つの巨大な生命体であり、
その上で生きる生きものは星の命のひとつのあらわれなのだ。
だから、一つの生きものがたとえ死んだ、いや、星に還ったとしても、
その命は永遠で、また違ったかたちで生まれてくるのだ。
Return to Forever!永遠回帰。

チック・コリアのリターン・ツー・フォエバー。
ぞくぞくするようなイントロのE→E#→F→E#→Eのスパニッシュのコード進行。
文脈には関係ないけど、このアルバムでフュージョンという言葉が生まれ、カモメとともに新しい風が吹いた。
物にも命がある
日本人は昔から草や木だけでなく石や水にも命を見出した。
長く使われた道具には霊魂が宿り、それを付喪神(つくもがみ)と言った。
仏教が入ってきてその思想はさらに強まった。
人間が持つ仏としての本質のことを仏性というが、
わが国では人間に限らず、草木や動物などの生きものだけでなく、
石や水、山や川など全てのものに仏性があるとする考え方が起こった。
例えば石は、その重みで物を押さえたり積みあがって垣になったりする。
しかし石は、水のように渇きを癒せないし煮炊きもできない。
石には石にしかない持って生まれた性質や役割があるのである。
そのものが本来持っている本質を「勿体(もったい)」という。
せっかく持っている貴重な本質―勿体―が失われることを「勿体無い」という。
環境活動家のワンガリ・マータイさんにより、
日本の美しい言葉として紹介された「もったいない」は、
もともとこのような仏教用語なのである。
「もったいない」と思い物を大切にする心、サスティナビリティの思想は、
日本人の心に脈々と流れていたのである。

石や水、山や川など全てのものに仏が宿る。
底流を流れるもの
話を元に戻そう。
あらゆるものに命があり、それはみんなつながっていて循環している。
そして、その根源をなすものがある。
アバターを見た時、その世界観があらゆる面であまりにも仏教的で、
「エイワ」はまさに大日如来だと思った。
大日如来は密教の本尊だが、宇宙そのもの、すべての命の根源であるとされる。

大日如来(臼杵の石仏)。
大日如来は宇宙の中心、宇宙の真理そのものとされる。
そして、監督であるジェームズ・キャメロンのことを思った。
唯一絶対の創造神、一神教のキリスト教世界でよくこんな映画が撮れたなと。
しかも、
アメリカ軍を彷彿とさせる様々な強力な武器・装備を持つスカイ・ピープル(地球人)は悪役で、
弓矢しか持たないナヴィにボコボコにされるのだ。
キリスト教原理主義やネオコンからしたら憤まんやるかたないのではないか。
しかし少し前から感じている事だが、
あらゆるものに命があること、そしてそれはみんなつながっていて循環している。
という思想がその底流を流れていると感じるものが最近多くなったと思う。
映画で言えば、エヴァンゲリオン、ジブリ作品や新海誠作品がそうだ。
環境方面に目を転じてキーワードを拾うと、生物多様性から始まって、生態系サービス、
循環・共生、サスティナビリティ、SDGs、ゼロエミッション、宇宙船地球号などなど
多くの言葉が拾える。
あらゆるものに命があり、そしてそれはみんなつながり循環しているということに、
みんなうすうす気づき始めたのだ。
「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」を見た。
相変わらずのとんでもない映像であるが、2作目なので1作目の衝撃に比べれば、
まあこんなもんだろうという感じになっているのは仕方がないか。
「スター・ウォーズ」や「インディー・ジョーンズ」を始めて見た時もそうだった。
頭上を延々と流れていく宇宙船、洞窟の中で迫りくる大石、とんでもない映像にぶっ飛んだ。
しかし、それらは続編が続く中で当たり前のようになった。
今見ると、古臭くさえ感じてしまう。申し訳ないことである。
で、思うのである。
この手のCGや最新映像を駆使した映画がある一方、
当たり前だが映像的に普通の映画もある。
もちろん普通の映画でも、アカデミー賞に撮影賞があるように、
斬新なショットや撮影手法を駆使しているのだが。
要は感動するところのありかなのである。
とんでもない映像ももちろんそのうちのひとつなのだが、
ストーリー(脚本)であったり、セリフであったり、テーマであったり・・・
映像的に普通の映画でも、心に残る映画は沢山ある。
しかしアバターは、映像とは別に、基盤を貫く思想に僕は興味を覚えるのだ。
アバターの生命観
アバターの主人公は惑星パンドラに棲むナヴィという先住民族である。
パンドラではすべての生きものの命はつながっており、
パンドラ自体が大きな一つの生命体である。
生きもの死後大地に還り、その命は循環していく。
例えば、パンドラに生息する植物は交信し合い、
それらが巨大なネットワークを形成して惑星全体を覆っている。
パンドラに生きるすべての生きもの―生態系―の生命エネルギーの総体は意思を持っており、
ナヴィを始めとするパンドラの生きものはその意思にアクセスすることができる。
ナヴィはその根源的なものを「エイワ」と呼び、畏敬している。
あらゆるものがつながっている
まず思うのは、生きもの(生命)のつながりである。
まさに生物多様性のイメージである。
生きとし生けるものはその生涯(ライフステージ)を通じ、
様々な生きものと様々に関係し合っている。
食う・食われるの関係や共生といわれる関係はその最も分かりやすいものだが、
例えばこのコラムの第1回でご紹介したように、
固い種の唯一の運搬者であるドードー(鳥)がいなくなれば(絶滅すれば)、
種の主であるタンバラコク(植物)は繁殖できない(絶滅する)。
生きもののつながりは人知をはるかに超えている。
国連環境計画の最新の報告によれば地球上の生物種は約870万種といわれる。
その一つひとつに他の生きものとの複雑なつながりがあり、
そのつながりは膨大かつ緻密なネットワークを形成している。
それを構成する最小単位の生物一個体を見てみても、
その体の中に神経細胞のつながり―シナプス―という複雑にからみあう極小のモデルがある。
命あるものだけではない。
私たちが立っているこの大地の土、私たちが呼吸しているこの大気、
私たちの体の60%以上を占めるという水など、
命なきものも様々な生きものによって形を変えながら創り出されたものだ。
この地球上のものは、あらゆるものがつながっているのだ。
全体が一つの命
次に思うのが、星自体が意志を持っているということだ。
アバターを見て、僕はすぐタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を思い出した。
惑星ソラリスは、その表面全体を覆う海が知性を持つ巨大な生命体で、
宇宙船で近づいてくる人間の心の奥にあるものを読み取り、
読み取ったものを実体をもつリアルとして宇宙船に送り込んでくるのだ。
例えば、
ソラリスを探索する宇宙船に乗る主人公の前に、忽然として自殺した妻が現れるというふうに。
星自体が一つの巨大な生命体であり、
その上で生きる生きものは星の命のひとつのあらわれなのだ。
だから、一つの生きものがたとえ死んだ、いや、星に還ったとしても、
その命は永遠で、また違ったかたちで生まれてくるのだ。
Return to Forever!永遠回帰。

チック・コリアのリターン・ツー・フォエバー。
ぞくぞくするようなイントロのE→E#→F→E#→Eのスパニッシュのコード進行。
文脈には関係ないけど、このアルバムでフュージョンという言葉が生まれ、カモメとともに新しい風が吹いた。
物にも命がある
日本人は昔から草や木だけでなく石や水にも命を見出した。
長く使われた道具には霊魂が宿り、それを付喪神(つくもがみ)と言った。
仏教が入ってきてその思想はさらに強まった。
人間が持つ仏としての本質のことを仏性というが、
わが国では人間に限らず、草木や動物などの生きものだけでなく、
石や水、山や川など全てのものに仏性があるとする考え方が起こった。
例えば石は、その重みで物を押さえたり積みあがって垣になったりする。
しかし石は、水のように渇きを癒せないし煮炊きもできない。
石には石にしかない持って生まれた性質や役割があるのである。
そのものが本来持っている本質を「勿体(もったい)」という。
せっかく持っている貴重な本質―勿体―が失われることを「勿体無い」という。
環境活動家のワンガリ・マータイさんにより、
日本の美しい言葉として紹介された「もったいない」は、
もともとこのような仏教用語なのである。
「もったいない」と思い物を大切にする心、サスティナビリティの思想は、
日本人の心に脈々と流れていたのである。

石や水、山や川など全てのものに仏が宿る。
底流を流れるもの
話を元に戻そう。
あらゆるものに命があり、それはみんなつながっていて循環している。
そして、その根源をなすものがある。
アバターを見た時、その世界観があらゆる面であまりにも仏教的で、
「エイワ」はまさに大日如来だと思った。
大日如来は密教の本尊だが、宇宙そのもの、すべての命の根源であるとされる。

大日如来(臼杵の石仏)。
大日如来は宇宙の中心、宇宙の真理そのものとされる。
そして、監督であるジェームズ・キャメロンのことを思った。
唯一絶対の創造神、一神教のキリスト教世界でよくこんな映画が撮れたなと。
しかも、
アメリカ軍を彷彿とさせる様々な強力な武器・装備を持つスカイ・ピープル(地球人)は悪役で、
弓矢しか持たないナヴィにボコボコにされるのだ。
キリスト教原理主義やネオコンからしたら憤まんやるかたないのではないか。
しかし少し前から感じている事だが、
あらゆるものに命があること、そしてそれはみんなつながっていて循環している。
という思想がその底流を流れていると感じるものが最近多くなったと思う。
映画で言えば、エヴァンゲリオン、ジブリ作品や新海誠作品がそうだ。
環境方面に目を転じてキーワードを拾うと、生物多様性から始まって、生態系サービス、
循環・共生、サスティナビリティ、SDGs、ゼロエミッション、宇宙船地球号などなど
多くの言葉が拾える。
あらゆるものに命があり、そしてそれはみんなつながり循環しているということに、
みんなうすうす気づき始めたのだ。
| コラム | 10:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑