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日本人の忘れ物(2022.2)

花火の思い出

コロナ第6波は高止まりしたままである。
前のピークはいつだったかな?と考えてみたら、第5波は確か夏だった。
ああ、もう半年たったのか。
で、ふと夏のことを思い出したのだ。

孫と一緒にやろうとずいぶん前に買った花火が出てきた。
そういえば、近頃とんと花火というものを見なくなった。
花火と言っても、「たまや~」「かぎや~」の打ち上げ花火ではなくて、
線香花火などの家庭でやる手持ち花火である。

自分が子どもの頃、また自分の子供が小さい頃、
夏になると家の前の道路でよく花火をやったもんだ。
ロウソクに火をつけてロウを垂らし、その上にロウソクを固定する。
そして、水を汲んだバケツ。
花火を始めると近所の子供たちも親と一緒に家から出てきた。

昼間と同じ格好の子、もう寝間着を着た子、みんなでやった。
大きい子は大きそうなのを選んで、小さい子は小さいのを選んでやった。
流れ落ちる火の粉、火の粉が噴き出す音、煙の臭い。

誰かがねずみ花火に火をつけた。わっと上がる子どもの歓声。
あっちでは、ヘビ花火だ。もくもくと煙を出しながら、うねうねと黒いヘビが伸びていく。
ちっちゃい子がちっちゃい手に線香花火をもってやっている。
線香花火が出るようになると、そろそろ今日の花火はおしまいだ。

いよいよ打ち上げ花火の出番だ。
誰かが空瓶などを持って来て、打ち上げ花火を固定する。5連発とか7連発が多かったよな。
そして最後は待ちに待った「ドラゴン」だ。
誰が火をつけるかひともめした後、年長のお兄ちゃんが導火線に点火、
盛大な火花のシャワーはあっという間に終わり、而して本日の花火はこれにて打ち止めとなる。

懐かしい夏の思い出だ。
だけど、近頃とんと見なくなった。
近所に子どもはいるけど、花火をやっている人は皆無である。
どうしたんだろう。何が変わったんだろう。

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さあ、次はどれやる?

花火はどこでやればいいんだ?

間違いなく言えるのは、近隣騒音に対して人々が神経質になっていることだ。
家の前の道路で子供たちが花火をやると、
近所に住む特に高齢者から苦情が来ることは容易に想像できる。
一昔前と住宅事情が違うのはそのとおりだが、
こういうことに対して許容の範囲が必要以上に狭くなっているのではないだろうか。

バカな若者がコンビニの前でジベタリアンと化して騒いでいるのではない。
昔のお年寄りは子供がはしゃぐのを見ると頬が緩んだものだが、
今のお年寄りはクレーマーと化する人が多いように感じる。
(小生も前期初期高齢者だが)

自分はあくまでも正しく、自分の理屈だけで我を通し、
それから外れたものには容赦なく文句をつける。
許容量の狭い、世知辛い世の中になったものである。

打ち上げ花火については、広島市の場合、
公園や河川敷、港湾では条例により禁止されている。
周辺環境への配慮という大義名分で。
いったいどこで花火をして遊べばいいのだ。

行政というものは、とにかく間違いが起きないように、問題が起きないように、
「常識」という名の世間への忖度、同調圧力。
しかし、一歩引いて考えれば、
何か起こった際に、そのことの背後にあるもっと大きな、
もっと大事ないろいろなことまで思い至ることなく、
安易に責任を転嫁して批判の矛先を行政に向けるのは、
他ならぬ小市民の僕たちなのだ。

僕たちも、上っ面な「安全」よりも、
本来あるべき「遊び」はどのようなものかもう少し考えてみる必要があるんじゃないか。

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ああ、そういうことですか。

遊びはスリルだ!

「遊び」は本来スリル-安全でないもの-のあるもので、
そのスリルに挑む冒険心が「遊び」を通じて心身を成長させるのだ。
「遊び」はスリルを伴う安全でないものであるがゆえに、たまに、いや、よくケガを伴う。
ケガをするから、安全でないからいけないというのがそもそも大きな間違いである。

子供は(大人でも)危険な目にあってはじめて危険なことを学ぶのである。
痛い思いをして、痛みを分かる人間になるのである。
子供は叩き叩かれて、手加減することを学ぶのである。

僕は広島市の市街地で育った。
太田川(本川)は家から結構近かったので、一人で遊びに行くこともあった。
小学生の頃、本川にあった貯木場の丸太の上から水の中を覗いていたら、
エビがいるのを発見した。

僕は、エビを取ろうとして片方の足を別の丸太にかけた。
すると、足をかけた丸太は僕の体がのっているもう一つの丸太から離れていった。
股裂き状態となった僕は、あえなく川に沈した。
焦った。恥ずかしかった。
でも誰も見ていなかった。

何とか丸太にしがみついて復帰した。
浮いた別の丸太にそれぞれの足をかけたら丸太は離れていくこと、
川というものは、
自分の行動によって次に引き起こされることを予想しながら動かなければならないことを、
僕は身をもって学んだのだ。

僕は、それ以上やっちゃあいけない危険なこと、
手加減することを身をもって学ばずに大人になることの危うさを大いに憂う。
山に行けば「山に入るのはやめましょう」。
川に行けば「川で遊ぶのはやめましょう」。
公園に行けば「ここで遊ぶのはやめましょう」。
ちょっと、いや、かなりおかしくはないかい。

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公園は遊ぶところじゃないんかい。

日本人の忘れ物

ずっと前に書いたことがあるが、
ここ数十年、お相撲さんの四股名に「〇〇川」というのがほとんどないそうである。
例えば今時だったら、「照ノ富士」や「朝乃山」、「御嶽海」や「隠岐の海」など山や海は多いが、
川は本名と思われる西川や藤川以外に皆無である。

このことは、日本人がかつて生活や心のよりどころとしていた川から、身も心も、
そして文化も離れていっていることの証左である。
先に「背後にあるもっと大きな、もっと大事ないろいろなこと」と言ったのは、
例えばこういうことなのである。
われわれは、そうやって、
本来的に大切なほんとうのものを、じわじわと失っていると思うのである。

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