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インドに架ける橋(2021.7)

ナンはインドにはない!?

相変わらず、延々と続くコロナ、コロナの毎日だ。
案の定、変異株が現れた。イギリス型、南アフリカ型、ブラジル型、インド型の4つだ。今は。
今後、もっと増えるだろう。
より強力な株が出てこないことを祈るばかりである。

しかし、失礼な話だ。
もし、わが国で変異株が発生し、日本株というふうに言われたら、どんな気持ちだろう。
さすがにWHOは変異株の名称を変更し、発生順にギリシャ文字をあてた。
英国株はアルファ、インド株はデルタか。なるほど。
などと心の中で呟きながら晩飯のビールを飲みながらテレビのチャンネルを変えると、
ちょうどインドから日本に来た旅行者にインタビューをしている録画の番組だ。

画面で彼らが一様に言うのは、
「日本に来て初めてナンというものを見た」「インド(の自分の住む地域)にはナンはない」
おいおい、ナンということだ!思わずビールのコップが止まる。
小生の最も好きな料理であるカレーに直結する、これは重要な話だ。

インド料理といえばナンではないか。
カレーといえばナンではないか(カレーならば小生はライスの方が断然好きだが)。
しかもだ、たいていのインド料理店では、ナンはプレーンだけでなく、
オニオンだの、ガーリックだの、ナッツだのいろんなバリエーションがあり、
インド料理店の厨房の目立つところには必ずナンを焼く窯「タンドール」があるものだ。

そして、インド人のコックさんがナンを伸ばしてタンドールの内側に貼り付けたり、
焼けたナンを昔あった学校の石炭ストーブの灰を掻き出す時に使うような
先の曲がった長い鉄の棒に引っ掛けてひょいと取り出したりするのは
インド料理店の定番の風景じゃないか。
インド料理店では、タンドールで作るナンやタンドリーチキンは定番中の定番ではないか。

ナンはインドにはないナンて。
ナンでや。

番組で言うには、日本でタンドールを広めたのは、
東京の下町の石窯メーカーの高橋さんという人だそうだ。
高橋さんは、インド料理ではタンドールという窯が使われるということを知り、
昭和40年代に自分で試作した窯を
当時東京に3店しかなかったインド料理に売り込みに行ったそうだ。

しかし、初めは全く相手にされなかったが、高橋さんの熱意と、
使ってみたらインド本来の物より彼が作ったものは丈夫で長く使えたことから採用されたそうだ。
その店は「アジャンタ」だというので、これまた見入ってしまった。

九段(現在は麹町)のアジャンタは、
東京では新宿の中村屋、銀座のナイルレストランと並ぶカレー(インド料理)の老舗で、
小生も首都圏にいた頃3軒とも食べに行った。
ところで、なぜ高橋さんは最初は相手にされなかったか。ここに問題を解くカギがある。

タンドールは、北インドやパキスタンで使われ、南インドでは使われなかった。
すなわち、南インドにはナンはなかった。
そして、アジャンタは南インド料理の店なのだ。
また、北インドでも、タンドールは一般家庭にあるものではなく、
ナンの原料の精白した小麦粉が贅沢品であることもあって、
ほとんどのインド人はナンを日常的に食べることはないそうである。

インド料理にはタンドールが不可欠と
強く思い込んでいた高橋さんのありがたい思い違いと努力によって、
日本では南北問わずインド料理ではインド人も知らないタンドールとナンが定着したのだ。
高橋さんが社長を務めていた(有)神田川石材商工は、
今でもわが国唯一のタンドール専業メーカーだ。

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アジャンタにも今はタンドール料理がある。
アジャンタの豪華タンドール料理の盛合せ ナーン付「タンドリー得盛ミックスグリル」
(資料:アジャンタ ホームページ)

2人のボースと1人のナイル

先にご紹介した東京のインド料理の老舗3店、
すなわち、アジャンタ、中村屋、ナイルレストランは歴史的に重要な共通点がある。
すなわち、本物のカレーの紹介と、インド独立運動との関係である。

まず、本物のカレーの紹介であるが、当時のカレーは
小麦粉とカレー粉を炒めてフォンドボーでのばして煮込むいわゆる欧風カレーをもとに、
肉汁にニンジンやジャガイモなどの野菜を入れてとろみをつけ、
軍隊の食事として簡略化されたもので、
ルーを使う現在のレシピのもとになったものである。

インド出身者にとっては、
オリジナルとは似ても似つかぬものをカレーと称して日本人が食べているのを見て、
ネイティブとして本物のカレーを紹介しようとする思いに至るのは必然のことであった。

アジャンタの創業者であるジャヤ・ムールティーの長兄のラーマは、
ネパール国王の秘書として来日した際、
通訳をしていた坂井羊子と知り合って結婚し、貿易会社を起こす。
ラーマはインド独立運動家セバス・チャンドラ・ボースが設立した自由インド仮政府の日本代表となり、
弟ジャヤも日本に呼び寄せるが、ボースは飛行機事故により死亡してしまう。

当時のインド政府はボースの遺骨の受け入れを拒み、長くムールティー兄弟が保管していたが、
平成17年にチャンドラ・ボース記念館に返還された。
一方、ジャヤはラーマ夫人の妹である淳子と結婚し、
淳子は結婚を機にスジャータとインド名に改名する。

ある日、ジャヤはインドの家で作るチキンカレーを兄夫婦とスジャータにふるまう。
スジャータはその味に衝撃を受け、
本物のチキンカレーを日本人に食べてもらいたくて昭和32年に「アジャンタ」を開くのである。

中村屋のカリーライスの創作者であるラース・ビハーリー・ボース
(セバス・チャンドラ・ボースとは別人)は、
インドで過激派として指名手配されて日本に逃れ、国外退去命令を受けていたが、
新宿は中村屋の相馬愛蔵・良夫妻によってかくまわれた。

日本にいる時、日本のカレーとインドのカレーのあまりの落差に憤慨していたボースは、
相馬夫妻に中村屋で本格的なインドカレーを出すよう強く進言し、
中村屋は昭和2年に喫茶部を新設する際、「純印度式カリーライス」を発売した。
相馬夫妻の娘の俊子と結婚したボースは日本に帰化し、
もう1人のボース、セバス・チャンドラ・ボースとも手を組み、インド独立運動に貢献した。

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新宿に行かなければ食べれなかった中村屋のカリーが・・・
インドカレーはチキンに限る。


ナイルレストランの創業者であるA.M.ナイルは、
若いころからインド独立運動やカースト差別批判運動などに参加し、日本に留学した。
ナイルは前述のビハーリー・ボースの腹心として活動し、浅見由久子と結婚した。
ナイルの提唱により、ビハーリー・ボースのインド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を
チャンドラ・ボースに移譲するなどインド独立運動で活躍した。

昭和24年に駐日インド大使の顧問に就任するとともに、銀座に「ナイルレストラン」を開店し、
その後もナイル商会を設立してインドの食材の輸入・販売に携わり、インド料理の普及に努めた。

もし自分がエセ日本料理に遭遇したら

アジャンタは、小生が関東に出て初めて行ったインド料理店だし、
中村屋はごろんと1本入った鶏肉と
今まで経験したことのないそのスパイシーな辛さは今でもよく覚えている。
ナイルレストランでは、定番の「ムルギーランチ」を食べている僕に
ナイルさんが直接、ソース入れに入ったソースは一度に全部ライスの上にかけて全部混ぜること、
小麦粉を使わず「ギー」という油で炒めてとろみを出すことなどを教えてくれた。

なんで一介の学生の客である僕にそんなことを教えてくれたのか分からないが、
言われたことだけはよく覚えている。
あのナイルさんは、多分二代目のG.M.ナイルさんだったと思う。

2人のボースと1人のナイルの大正から昭和にかけてインド独立運動に捧げたその生は、
インドから遠く離れた日本で交錯し、それぞれ日本でのインド料理の先駆けを残してくれた。
3人とも本物のインドのカレーを日本人に知ってもらいたかったのだ。

もしも自分が外国に行って、奇妙な寿司や懐石に出くわし、
それが日本料理と思っている人たちに遭遇したら、そりゃ声をあげたいよね。
そして、3人とも男ながら、ちゃんと祖国の料理ができるところが素晴らしいと思うのである。

| コラム | 10:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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