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緑に眠る桜と岩(2021.6)

ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメ

今年度になって宮崎県内の自治体の仕事をしている。
宮崎、すなわち日向の国は、
高千穂の天岩戸に象徴される神話の世界があることは知っていたが、
宮崎平野の北部にある国の特別史跡で日本遺産の西都原古墳群の
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメにまつわる神話を初めて知った。

ニニギノミコトは、先に述べた高千穂に天孫降臨した神だ。
一方のコノハナサクヤヒメだが、
まず、「咲くやこの花」というのは古今和歌集や百人一首にある有名な難波津の歌を指し、
「咲くやこの花館」は、
この歌に因んで名づけられた花博記念公園鶴見緑地内の植物園の施設である。
その元々のいわれはコノハナサクヤヒメであることは知っていたのだが、
コノハナサクヤヒメがどういう神なのかはよく知らなかった。

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都萬(つま)神社はコノハナサクヤヒメを祀る神社だ。なんと、日本清酒発祥の地だそうだ。
コノハナサクヤヒメが3人の皇子を育てるのにお乳の代わりに甘酒を与えたのがそのいわれだという。
お母さんのお乳がお酒とはすごいね。僕もご相伴にあずかりたかったなあ。


ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの話とは、こういう話である。
高千穗に天降ったニニギノミコトが日向の国を巡っている時、
小川で水汲みをしていたコノハナサクヤヒメを見初め、名前を聞いた。
古代の日本では、名前を聞く・それに答えることは、結婚の申し込み・了承を意味した。

ニニギノミコトは一夜の契の後すぐに戦いに出かけて行った。
コノハナサクヤヒメは身ごもり、そのことを戦いから帰ったニニギノミコトに告げたが、
たった一夜の契で身ごもったことに疑いを持たれた。

コノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトが神の子孫であるならば、
火の中でも子どもは無事に生まれるだろうと言って、
出口のない小屋を建てて籠り、小屋に火を放った。
火に包まれた小屋の中でコノハナサクヤヒメは無事3人の皇子を産んだ。

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ここがニニギノミコトがコノハナサクヤヒメと初めて出会い、名前を聞いた(求婚した)場所。
その名も「逢初川(あいそめがわ)」という。

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ここが炎の中で3人の皇子を出産した産屋跡「無戸室(うつむろ)」。

コノハナサクヤヒメが生んだ3人の皇子とは、生まれた順に、
ホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、ホオリノミコト(火遠理命)である。
この長男のホデリノミコトがいわゆる海幸彦で、三男のホオリノミコトが山幸彦である。
山幸彦は海神の宮殿で暮らし、海神の娘トヨタマヒメ(豊玉姫)と結婚するのだが、
この二人の孫が神武天皇である。

もう一人の娘のこと

コノハナサクヤヒメはその名のとおり、咲き誇る美しい花-サクラ-を象徴しており、
ニニギノミコトが一目ぼれしたことと合わせ、昔から絶世の美女だと言われてきた。

ところでコノハナサクヤヒメにはイワナガヒメという姉がいた。
ニニギノミコトと結婚する時、
彼女の父であるオオヤマツミノカミは娘二人を一緒に嫁がせたのである。
しかし、姉は妹と正反対で大変醜く、
ニニギノミコトは即座に姉をオオヤマツミノカミのもとに送り返してしまった。

西都原古墳群から車で1時間弱行った山中に銀鏡(しろみ)神社という神社がある。
イワナガヒメが鏡に映った自分のあまりに醜い容姿を嘆き、
その鏡を遠くに投げ捨てたと伝えられる鏡がこの神社のご神体である。
かわいそうなイワナガヒメ。

実は、オオヤマツミノカミが二人の娘を送ったのは訳があった。
コノハナノサクヤヒメを送ったのは、天孫が花のように繁栄するように、
イワナガヒメを送ったのは、天孫が岩のように永遠のものとなるようにと、
誓約を立てたからだったのだ。

イワナガヒメが送り返されたことに激怒したオオヤマツミノカミは、
イワナガヒメを送り返したことで、天孫の命は短く限りあるものになるだろうと告げた。
これにより、天孫に通じる人の命も限りあるものになったという。
また、3皇子を妊娠したコノハナノサクヤビメにイワナガヒメが呪いをかけ、
そのことも人の命が限りあるものになったいわれという。

「コノハナノサク」すなわち咲いた花(サクラ)はすぐ散る運命である。
「イワナガ」とは「岩永」で、岩は固く永遠なものである。
ここで思い出されるのが「君が代」である。

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで

これはまさに「イワナガ」そのものではないか。
天皇家の始祖である神武天皇の3代前に、
天孫は巌とならぬ限りある短い命となったのである。

神々が去ったあと

西都原古墳群の素晴らしさは、周りに何もないことである。
一ツ瀬川が刻んだ河岸段丘の洪積層の台地上に古墳群と畑だけが広がる。

古墳というものは、だいたいが市街地や田畑などのその後の人間の営みに浸食され、
ぽつんと残されているものだが、ここは平坦な台地の上に古墳と畑しかない。
しかも何百という数えきれないほどの古墳だ。
まさにここだけの景観だ。

古墳群は台地の縁に沿うように連なっている。
下から見上げられることを意識して造られているのである。
この台地は、この地の族長たちの聖地だったのだ。

古墳群の中には、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの陵墓といわれ、
九州最大規模の古墳、男狭穂塚・女狭穂塚(おさほづか・めさほづか)をはじめ、
コノハナサクヤヒメの父オオヤマツミノカミの墳墓といわれる大山祇塚(おおやまつみづか)もある。
日向神話の一族がここに眠っているのである。

縄文海進と弥生海退がありありと想像できる。
こんな風景はここでしか見ることができない。

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遠く九州山地の山並みを望む河岸段丘の台地の上には、古墳群と畑しかない。

ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨し、
コノハナノサクヤビメとイワナガヒメのドラマがあり、
その子たちにもまた海幸彦・山幸彦のドラマがあり、
山幸彦の孫の神武天皇の東征まで、日向の国は神々であふれていた。

西都原での古墳の築造も7世紀前半には終わりをつげ、
聖徳太子が摂政になった593年頃から飛鳥時代が始まり、
歴史の中心は日向から大和に移る。

日向は古墳だけが眠る静かな地になったのである。

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