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ALWAYS 舟入の夕日(2020.7)

包むものは石油からできている

この7月1日からレジ袋が有料化される。
小中学校での出前授業で、ごみやエネルギーをテーマに行う場合、
われわれの身の回りにはいかにプラスチックがあふれているかを子どもたちにまず見せる。
いわゆる容器包装の実物を見せるのである。

プラスチックは、
可採年数50年といわれる石油というエネルギー源としても重要な枯渇資源を原料としながら、
消費者の手に渡れば、即、ごみとして捨てられてしまう。

どの家庭でも日常的に買う食品である納豆、豆腐、卵、肉や魚、飲み物・・・
これらを包む容器包装はすべてプラスチック、すなわち石油から作られている。
そして、中身を取り出した後は、ごみ箱へ直行・・・ということを再認識してもらう。
貴重な資源は、一瞬にして、何のためらいもなくごみになるのだ。

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もしもあと50年して石油がなくなったら、これらの食品は何で包むのだろう・・・

みんなが大人になった頃、もしかして石油がなくなっているかもしれない。
そうしたら、納豆や豆腐や卵や肉や魚や飲み物は何に入れたらいいんだろう?
みんなを包んでいる服だって、化学繊維といって石油からできているんだよ。
(本当はそれより電気がない事の方がずっと深刻なのだけど)

そこで、昔は、小生が小さい頃は、何に包んでいたんだろう、どんな生活だったっけ、
と少し考えてみたのだ。
齢がわかって切ないが、
小生が小学生の頃、今から半世紀前、すなわち昭和40年頃(1960年代)、
そう、前の東京オリンピック(昭和39年(1964年))の頃の話である。
場所は広島市の舟入だ。

余談だけど、前の東京オリンピックの聖火は赤いアーチの住吉橋を渡っていったんだよ。
(今の国道2号線はまだできていなかった)
住吉橋のたもとまで聖火を見に行って、鮮明に覚えている。
今度の聖火はコロナさえなければ5月18日に広島市を通る予定だったけど。

「もはや戦後ではない」頃の生活

あの頃、まず、日常的な食品だが、納豆というものは残念ながら当時の広島にはなかった。
小生は、納豆は大学生になって関東に行くまで食べた事がなかった。
小生の妹は子どもの頃から食べ慣れていないので、未だに納豆が食べられない。

豆腐は豆腐屋さんに鍋を持って買いに行った。
豆腐屋さんでは水に入った豆腐を切り分け、鍋に入れてくれた。

卵は近所に養鶏業者がいて、豆腐と同様に鍋などの入れ物を持って買いに行った。
ちなみに、お好み焼き屋に行く時は、家から卵だけ持って行って入れてもらった。
今じゃ考えられん。

当たり前だが、肉は肉屋、魚は魚屋に買いに行った。(今ではスーパーにいくのが当たり前だ)
肉は、竹の皮やごく薄い木の板(これを経木(きょうぎ)という)に包んでくれた。
経木というのは、タコ焼きの入れ物のあの薄い木のやつだ。
魚は魚屋で新聞紙に包んでくれた。

飲み物は当時、ベットボトルはもとより缶や紙パックもなかった。
飲み物は毎朝配達される瓶に入った牛乳に代表されるように今でいうデポジットで、
唯一、小遣いで駄菓子屋でラムネを飲むのが、
いや、ラムネの栓を開けるのが楽しみだった。

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タコ焼きが入っている入れ物が船形にした経木。

エネルギーに目をやると、そもそも家電製品が少なかった。
最も電力を消費するクーラーなどの空調機器はもとよりなく、
夏は扇風機、冬は石油ストーブとこたつだ。
こたつ自体も最初は電気ではなく、炭団(たどん)や豆炭だった。

炭団や豆炭といっても、みんな知らないだろうなあ。
炭団や豆炭は、木炭などの粉を結着剤で固めて成形した固形燃料で、
火を起こして専用の容器に入れ、こたつの火種とした。

冷蔵庫も最初は電気ではなく、いちばん上に大きな氷の塊を置く箱だった。
近所には氷屋さんというものがあって、大きな氷を大きなノコギリでじゃりじゃり切ってもらい、
塊を買ってきて冷蔵庫に入れたものだ。

洗濯機はかろうじて電化されていた。
しかし、一槽式で、洗った後は洗濯物を一旦取り出して再度水を張ってすすぎをし、
洗濯機の横に取り付けられた手回しのローラーで洗濯物を挟んで絞った。
今の洗濯機からは想像もできない手間がかかるものだったが、
それでも洗濯板から解放された主婦にとっては革命的だった。

風呂は五右衛門風呂で、屋外の焚口で薪を焚いて沸かした。
なので、当然、薪は一般家庭でも必需品だった。
ほんの50数年前のことである。

白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と言われたのは、
小生の生れた昭和30年代(1960年頃)で、「神器」とはイコール夢ということである。
その頃の人は、夢を追いかけて少しずつそれらを手に入れていったのだ。
一気にすべて手に入ったものではないのだ。

日本政府が「もはや戦後ではない」と経済白書に記したのは昭和31年(1956年)。
それから昭和39年(1964年)の東京オリンピックに向かって、
日本は高度成長の坂道をひたすら登っていくのだ。

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これが豆炭。底に穴の開いた専用の器具で火にかけ、火を起こしてからこたつに入れた。

エネルギー消費の未来

わが国のエネルギー消費の変遷を見てみると、
上に書いた生活をしていた頃、すなわち昭和40年(1965年)の一次エネルギー消費量は、
石油換算で40億tに満たなかった。
それが20年後の昭和から平成に移るバブル景気の頃に倍、
40年後のリーマンショックの平成20年頃に3倍になり、現在(2018年)は138.6億tになっている。

わが国のエネルギー消費の変遷をたどれば、
まず昭和48年と昭和54年のオイルショックが重要なターニングポイントと言える。
この2度にわたるオイルショックにより石油に依存するわが国のエネルギー構造に目が向けられ、
非石油エネルギー、すなわち原子力への転換が始まったのだ。

そして、バブル景気の昭和60年頃からエネルギー消費量が増大していき、
現在はその頃(昭和60年頃)の倍となっている。
このままいけば、それはちょっとまずいんじゃないかな。

実に不都合な真実だ。
約半世紀前の1972年に警鐘が鳴らされた「成長の限界」を何ら「わがこと」としていない。
「ひとごと」の茹で蛙は、責任を他に転嫁したまま茹だっていくのだろうか。

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わが国のエネルギー消費の変遷。
出典:原子力・エネルギー図面集((一財)日本原子力文化財団 BP統計 2019)に加筆


昭和から平成に移る頃の生活をおくれば、エネルギー消費は今の半分で済むということだ。
あの頃の生活は、スマホもネットもなく、今のような便利な情報化社会ではないが、
そんなに悪い生活ではなかったと思う。

その頃と比べ、今は情報通信機器をはじめ身の回りの多くの機器が進歩し、
また多くの便利な機器が新しく生まれ、新たなエネルギー消費源となっている。
しかしその一方で、技術革新は進み、省エネ性能は向上し、
再生可能エネルギーも徐々に拡大している。
あとは、人の心の持ちようだけだ。

各家庭には高性能のソーラーパネルと蓄電池が設置され、
レジ袋の代わりにふろしきを持ってちょっとのところなら歩いて買い物に行き、
旬の野菜や魚を食べ、足るを知って生活する。

そんな暮らしが、いつでも、いつまでも・・・always。
子どもの頃に見た聖火ランナーの背景の舟入の夕日のように。

| コラム | 10:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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