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京都でうどんに殴られた話(2020.5)

体で測るということ

わが社は計量証明事業所である。
そして、5月20日は世界計量記念日だそうである。
何でも、メートル条約が締結された日だそうである。

一方で、わが国では計量記念日というものもあり、記念日としてはこちらの方が有名で、
現行の計量法が施行された11月1日がその日だそうである。
なかなか紛らわしい。

メートル条約ということであるが、何で条約まで作って決める必要があったかというと、
世界中には様々な計量単位があったからだ。

ご承知のとおり、日本から昔からある計量単位は尺貫法である。
「おとこのおばさん」永六輔は尺貫法復権運動を展開したが、
小生はこれを大いに支持する立場である。
なぜなら、尺貫法は世界各地の計量単位と同様、人間の体の一部を基準にした身体尺だからだ。

人間の体を基準にした長さや面積や重さは、その発生として本来的なものであり、
何よりも人間の生活のスケールに合致している。

長さの単位でいうと、尺が基準である。
尺は、手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さが起源である。
この長さは本来約18cmなのだが、物差しとしてはだんだん伸びて、1尺は30.3cmである。
1尺は歩く歩幅の半分という説もあるそうで、小生としてはこちらの方が納得できる。

1尺の1/10が寸で3.03cm、1尺の10倍が丈で3.03mだ。
ところで、欧米で使うフィート(feet)は足(foot)の複数形で、
文字どおり足のかかとから指先の長さを語源とし、1フィートは30.48cmである。

何と、1尺と1フィートは、ほとんど同じ長さなのだ!
身体尺は世界共通なのだ。
しかし、外人の足はでかい。

とてつもなく広い方丈

さて、1尺の10倍の3.03mの丈だが、方丈という言葉がある。
これは1丈四方の四角形のことだが、建築の様式の名称でもある。
すなわち、1丈四方の簡素な草庵を指す。

方丈といえば、まず何といっても、維摩のことを思い出す。
維摩居士は、仏教の奥儀を極めた在家の仏弟子で、方丈の草庵に住んでいる。

ある時、文殊菩薩たちが大勢で病気の見舞いのため維摩の方丈を訪れた。
その時、維摩は、見舞客のための獅子座(椅子)を部屋に設置した。
椅子といっても、ひとつの獅子座の高さは340万由旬あるのだ。

由旬は古代インドの長さの単位で、様々な説があるが、仏教では1由旬は7.2kmとされる。
ということは、2,448万kmの高さの椅子ということになる。
その椅子を3万2千基、3.03m四方の部屋に入れたというのだ。
そんな、ばかな。

維摩経では、これに続いて世界の中心にそびえる須弥山を芥子粒の中に入れる話や、
須弥山の四方にあるといわれる四つの大海の水を一つの毛穴の中に注ぎ入れるという話が出てくる。
これらは狭い方丈の中に宇宙の全てが存在しているという事を表しているという。
宇宙は、ほとんどゼロのほんの一点から始まり、ビックバンで無限大に広がったのだ。

近年の物理学では、広大な宇宙の謎を解き明かすために、
究極のミクロな素粒子であるクォークの理論が不可欠とされる。
極大の世界と極小の世界は、実は表裏一体なのだ。
これは宗教ではない。科学だ。

古代インドでは、仏教では、そのことを感じとっていたのだろうか。
維摩経は大乗仏教の「空」の概念を説いた経というが、不思議なことだ。

前にも書いたことがあるが、古代インドの計量単位というものは、常識を超えている。
というか、常軌を逸している。
時間の単位に劫というものがある。
落語の寿限無でいう「五劫のすりきれ」の「劫」である。

ここに1辺の長さがこの1由旬、すなわち7.2kmの立方体の岩がある。
これを柔らかい布で100年に1度ずつ払いつづけ、
岩がようやく磨滅しても終わらない時間の単位が1劫である。

早い話が、ほとんど無限だ。
それにこのような途方もない根拠をつけることが仏教的というか、インド的というか・・・

そして、「方丈」というと、何はなくても鴨長明の方丈記である。

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし


何という分かりやすい名文だろう。
どんなところで鴨長明はこの文章を書いたのか。
鴨長明が結んだ方丈の庵とはどのようなものだったのだろう。

実は、京都にあったのだ。
昨年、京都をさまよっていた時に偶然見つけた。
京都は下鴨神社の摂社に河合神社というのがあり、
そこに復元された鴨長明の方丈があったのだ。
なぜここに鴨長明の方丈があるのか。
それは、鴨長明が河合神社の禰宜の息子だったことによるそうだ。

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鴨長明が住んだという復元された方丈

復元方丈は、ちょっと見たところは質素なたたずまいで、いい感じである。
しかし、中を覗いてみると、あたりまえだが、狭い。
方丈は四畳半よりわずかに広い大きさだ。

そこで思いを巡らしてみたのだ。
小生が学生の頃の下宿は、四畳半で流しとトイレは共同というものが少なからずあった。
しかし、部屋は四畳半一間としても、布団をしまう押し入れはあるし、
トイレや流しは別にあり、生活の全てをそこで過ごすわけではない。

しかし、方丈は生活の全てをそこで過ごすのだ。
トイレは別としても、当然ながら冷蔵庫や洗濯機はないし、
寝具や衣服、調理器具や食器、生活に必要なもろもろのものの収納スペースはない。
何もかもを3.03m四方のスペースで完結させなければならない。

庵を結び、虚飾を排し、質素に暮らすとは聞こえがいいが、
実質的には弥生時代の竪穴式住居と何ら変わりはない。
と、興ざめな現実主義に意識が占領されることが情けないが、仕方ない。
「虚飾を排し、質素に」はもう死語なのだろう。

うどんの一撃

ところがである。
この京都で北野天満宮あたりをさまよっていた時に、とんでもないものに出くわした。
老舗のうどん屋「たわらや」の「たわらやうどん」である。

「たわらやうどん」は、具は何もない(別におろしショウガがのった小皿がついている)
素うどんといえば素うどんであるが、ただの素うどんではない。
別名、「一本うどん」という。

京都にしては色の濃い出汁の効いた丼の中に超極太のうどんが入っている。
太いうどんというとなんといっても「伊勢うどん」だが、
「伊勢うどん」はいわゆるぶっかけで、濃い黒い甘めのタレがかかり、ネギがのっている。
そして一番の特徴は、麺が柔らかくコシがないことである。

しかし、この「たわらやうどん」はしっかりコシがあり、
太いうどんを噛み切りながら、モチモチとしたうどんの味というか小麦の味を、
ショウガが香るカツオ出汁と共に味わうという事になる。

関西のうどんというと、のど越しのいいつややかな麺とカツオ出汁が信条で、
きつねうどんにとどめを刺す。
京都の場合は、加えてあんかけうどんとカレーうどんが重要だ。

しかし、この「たわらやうどん」のたたずまいはどうだ。
一切の虚飾を排し、うどんに必要な最低の要素だけの質素の極みだ。
質素ここに極まれり。

鴨長明の復元方丈を見て複雑な雑念をいだいていた小生は、
まさに脳天にうどんの一撃をくらったのだ。
吾唯足るを知る。

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「たわらや」の「たわらやうどん」。
この太さ、虚飾を排した質素の極みのこのたたずまいを見よ!

| コラム | 16:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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