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ものの名前(2020.02)

難読地名にも格がある

仕事柄あちこちに行くが、読めないというか、何でそう読むのか分からない地名に多々出くわす。
わが広島県でも、例えば三次とか、吉舎とか、温品とか、
地元の人は普通に読めるが、知らない人には読めない地名がある。
しかし、これらの地名は個々の漢字の読みからは大きくは外れてはいない。
ほんとうに読めないのは、漢字の読みにない読み方をするものである。

最初に沖縄に行った時、「今帰仁」(なきじん)が読めなかった。
「帰仁」は「きじん」と読めるが、どうして「今」を「なき」と読むのだろう。不思議だ。
しかし、「今帰仁」で読めないのは「今」だけだ。

山口は下関市に「特牛」という地名がある。
これは「こっとい」と読むのだが、どうして「特牛」が「こっとい」と読めるんだ?
「こっとい」には、「特」のかけらも「牛」のかけらも残っていない。
漢字と読みが全く合っていないではないか。こういうのが難しい。

これは、もともと大きな牡牛のことを「こというし」といい、
「特牛」―特別(大きな)牛―の漢字をあてたが、それが変形して「こっとい」となったそうだ。
今では「こというし」という言葉もないが、説明されれば一応納得はできる。

出雲郷の不思議

分からないことが多いのは島根だ。
古くからの大和に対する出雲の文化などの影響を受け、昔から特殊な地域だからだろうが、
「どうしてこれがそう読めるの?」というものが少なくない。

出雲だから出雲のことから言うと、何はなくとも「出雲郷」である。
地元の人や知っている人は知っているが、普通の人にはまず読めない。
小生も仕事でこの地域に関わるようになって初めて知った。

「出雲郷」は「いずもごう」ではない。
何と!「あだかえ」と読むのである。

ワープロで「あだかえ」と打ち込み、変換すればこの漢字だけが一発で出てくる。
「出雲郷」は東出雲(ひがしいずも)町にあるのがまたややこしい。

しかし、何で「出雲郷」が「あだかえ」と読めるんだ。
それは、この地に阿太加夜(あだかや)神社という古いいわれのある神社があり、
その名に由来するそうだ。
でも、「なるほど~」とは納得できない。
名前のいわれは分かったが、だがどうして「出雲郷」の字を当てるのだ。

古くは大宝律令で、地方の構成単位である国・郡・郷が定められた。
出雲国風土記によれば、出雲国には9つの郡があり、そのうちの一つが出雲郡で、
出雲郡は概ね今の旧大社町、旧斐川町にあたる。
まさに出雲大社が位置する場所なので、至極もっともなことである。

しかし、問題の「出雲郷」は先に述べたように松江市東出雲町にあり、
そこは郡でいうと意宇郡(おうのこおり)なのだ。
郡の下の単位の郷を見てみると、「出雲郷」は山代郷に位置する。
山代郷なのに、なんで「出雲郷」なんだ?わからん。

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出雲国の図。出雲郡は今の旧大社町、旧斐川町あたりだ。「出雲郷」は意宇郡に位置する。
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意宇郡の図。「出雲郷」は山代郷に位置する。
(資料:両図とも島根県ホームページより)


島根で訳の分からない地名と言えば、これはもう「十六島」にとどめを刺す。
「十六島」は島根半島の日本海に面する北側、旧平田町にある。
近年は名産の岩海苔で有名になったから知っている人も少なくないと思うが、
「十六島」は「うっぷるい」と読むのだ。

どうしてこれが「うっぷるい」と読めるんだ。
分からないことを整理すると2つある。
まず、「十六島」という漢字表記の由来、次に、「うっぷるい」と発音する由来だ。

前者については、
仏教の四天王と十二神将を加えた十六善神がこの地を訪れたことが由来だと言われるが、
ちょっとこじつけがましい気がする。
「十六島」という表記は、海沿いの地域ではいかにもありそうな地名だが、
問題は後者の発音だ。

日本語離れした発音から、アイヌ語や朝鮮語由来という説もあるようだが、
それらの言語に「うっぷるい」と発音する言葉は今ではないようだ。

出雲国風土記には、このあたりの地名に「於豆振(おつふるひ)」という記述があるそうで、
「おつふるひ」が「うっぷるい」に変化したのが由来の最有力ではないかと小生は思っている。
「おつふるひ」が「うっぷるい」に変化する感じに、あの何とも形容しがたい出雲弁のタッチを感じるのでゃ。

鳥取に八頭(やず)という地名がある。
知り合いがこれを「やまたのおろち」と真面目な顔をして読んだそうだ。
かなりウケたけど、残念ながら八岐大蛇は斐伊川、すなわち島根の話なのでゃ。

名前を失うということ

名前で思い出されるのが「千と千尋の神隠し」だ。
両親とともに異界に迷い込んだ荻野千尋は、
その世界を支配するユバーバ(湯婆婆)に名前を奪われ「千」と名付けられる。
この異界では、奪われた本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなるのだ。

千の周りでいろんな事件が起こり、千は異界で大活躍し、結局、元の世界に戻るのだが、
その伏線となるのが、細かい話だが、
ユバーバの下で働くために千がユバーバと結んだ契約書なのである。
契約書で千は荻野千尋という自分の名前の「荻」の字をわざと間違えて書く。
そのことにより、ユバーバとの契約は、実は成立していなかったのである。

名前を失ってはいけない・・・この映画で宮崎駿が最も言いたかったことじゃないかと僕は思う。
「名前」とは、すなわち、その人がその人たる所以、唯一無二のその人のアイデンティティである。
名前を失うという事は、その人がその人でなくなるということだ。
その人が生きているという意味が失われてしまうのだ。
生きているが死んでいる。
とても悲しいことだ。
だから、絶対に名前を失ってはいけない。

カオナシのこと

そこで思い出されるのがこの映画の「カオナシ」というキャラクターである。
カオナシは、表情も無く話すこともできないが、千のことが好きで何とか気を引こうとする。
カオナシは、相手が欲しい物を何でも出すことができるが、それは実はただの土くれにしか過ぎない。
カオナシは、相手がそれに触った瞬間、相手を呑み込んでしまうのだ。

カオナシは物欲にとらわれた者どもをどんどん飲み込み、どんどん肥大化し、ついには暴走し始める。
カオナシは千にニガダンゴを食べさせられて呑み込んだものをすべて吐き出し、
元の大きさに戻り静かになる。

カオナシは、文字どおり(表情のある)顔もないが、それ以上に自分がないのである。
その人がその人たるものがないのである。
カオナシはとっくに名前を失っているのだ。

カオナシは悲しい存在だ。
自分の考えはなく、人の気を引くだけ。
自分の居場所はなく、何となく人についていくだけ。
映画だから「顔」という画像がないと話にならないが、カオナシこそ生粋の「ナマエナシ」なのではないか。
「名前」を失ったものの象徴として描かれているのではないか、と僕は思う。

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カオナシ。「名前」を失ったものの末路。

モノやコトには必ず名前がある。
名前がないものは概念の外にある。
概念の外にあるものは、表現することも意思疎通することもできない。
そして、名前には必ず訳がある。由来がある。
名前の背後には、その地域の風土と、その中でそれまで積み上げてきた人の営みがある。
だから名前は大切なのだ。

名付けることを「命名」という。
名に命を与えるのだ。
「名前」とは、すなわち、そのものがそのものたる所以、生きている証なのだ。
だから、絶対に名前を失ってはいけない。

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