FC2ブログ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

ドレスコードについて考えた(2019.11)

ドレスコードと常識

先月は「常識と非常識の間」と題してクール・ビズをとりあげた。
先月のコラムを書いた後、ファッションと常識についていろいろ考えてみた。

「ドレスコード」という言葉がある。
日本語では、「服装規定」と訳される。
狭義には、例えば格式の高いレストランで「当店では上着着用をお願いします」などという
服装に関する決まりのことを言う。
広義には、例えば冠婚葬祭時の礼服が典型的だけど、ビジネスマンのスーツもこれにあたる。

このコラムにも何度か書いたけど、
小生は昔から特にスーツというドレスコードに少なからぬ疑問をいだいている。
昔から、そのことの意味を考え続けている。

ドレスコードの意味は、それはもうTPOだ。
その場にふさわしい服装というものがある。
特にそれが儀礼的な場であればなおさらだ。
お祝いの席で、悲しみの席で、当然かくあるべきという服装があり、
それはもう当たり前の常識というべきものだ。
この常識は、人間が社会生活の中で積上げてきたものであり、何ら異を挟むものではない。

そのTPOだけど、冠婚葬祭のような特殊な場ではなく、日常的な社会の場ではどうだろうか。
外回りや接客中心の仕事では求められる服装というものがあるだろう。
しかし、内業中心の仕事でスーツが必要なのだろうか。
上着やネクタイを取って身も心も自由に動ける状態で仕事をしたいと小生は思うのだけど。

窓口業務でも、接客の典型というべき役所の市民課などの窓口は、
思い思いの私服を着た女性ではないか。
みんなそれで良しとしているではないか。
航空機の客室乗務員や百貨店の販売員、銀行の窓口の女性たちにも#KuTooという運動が広がり、
働く女性のドレスコードの「常識」に異が唱えられるようになった。

image002_201911011424428d2.jpg

image004_201911011424459bb.jpg
ジョンソン・エンド・ジョンソンは、「#スニ活」キャンペーンを行っている。
社会動向を見極めながら、消費者を味方につけながら、そして、さりげなく自社製品をアピールしながら、ドレスコードに柔らかく切り込んでいる。
(資料:バンドエイド ホームページ)

制服(スーツを含む)というドレスコードは安寧である。
そのとおりにしていれば、その群れから排除されることはない。
なぜそうしなければならないのか、「その場」とは何なのか、いかにあるべきなのか…
という考える力を失ってしまう。
安寧な群れに埋もれ、本質を見る目や確固たる意志も持たず、ただただ異質なものを排除しようとする。

「崩す」ということ

しかし、ドレスコードは必要なのだ。
ドレスコードは正式な形だ。正式な形のないところに崩した形はない。
楷書があるから行書や草書がある。真があるから行・草がある。
「崩す」という概念は、正式な形というものがあって、初めて定義される。
だから、「崩す」ためには正式な形をきちんと理解し、わきまえていることが必要なのだ。

千利休は「真を知り、行・草に至れば、いかほど自由に崩そうと、その本性はたがわぬ」と言ったそうだ。
正式な形を知らずに崩したと言っているのは、崩したことになっていない。
「崩す」ためには、正式な形を表現できる以上の力量が必要なのだ。
だから、「崩す」ことは粋だが結構、いや、かなり難しい。
フォーマルにカジュアルな小物を合わせたり、シャツのボタンをはずしたり…
着崩すことは、珍奇さやだらしなさと紙一重なのである。

image006_201911011424480d4.jpg

image008_20191101142451b3c.jpg

image010_201911011424543d3.jpg
真・行・草はどこにでもある。庭にして然り。
延段(のべだん)の上から真・行・草 (写真:筆者撮影)


日本人は真より草が好きだ。
几帳面に書かれた楷書より、カナかと思われるぐらいに崩された草書に美を感じる。
公式行事での盛大な供花より、一輪挿しに生けられた一本の山野草に心惹かれる。
日本人には持って生まれた普遍的な「崩す」DNAがあるのかもしれない。

時という浄化・変換装置にもまれると、
崩した形や簡略化した形、特化した形が熟成されて新たな正式な形になっていく。

スーツは最初からスーツだったのではない。
スーツはそもそも、19世紀に当時の正装だった膝丈のフロックコートを、
普段着としてくつろげるよう短く崩したものが原型だ。
それが時を経てビジネスマンの正装になったのだ。

トレンチコートはもともと第一次世界大戦のイギリス軍の防寒用の軍服だったものが、
ファッション性が磨かれてコートの定番(バーバリー!)となったものだ。

ドレスコードという常識は、社会の変化を受けて変化していくものであり、
決して固定化された不変のものではないのだ。

新たなドレスコードの誕生

ドレスコードは記号である。
スーツや礼服だけがドレスコードではない。
ドレスコードにより、それをまとった人がその属性や思想を表現・主張し、
同じ属性や思想の人と集まる。
それを見る人は、そのドレスコードによりそれを読み取る。

たとえば、ある分野の特殊なファッションがそうだ。
ルーズソックス、ワンレン・ボディコン、ガングロ・ヤマンバ、ゴスロリの女の子。
特攻服、卒ラン、迷彩服、ニッカボッカのヤンキーや暴走族。
そんな大人が眉をひそめるようなドレスコードもあれば、
TシャツにジャケットとGパンは、ベンチャー企業の経営者のドレスコードだ。
主義・主張は違えど、既存の常識とよばれるドレスコードに異を唱えていることは共通している。

image011.png
ガングロ・ヤマンバという言葉は今の若者にはもう通じないだろうなあ。
ドレスコードの盛衰は激しい。


先日、京都に行った。
レンタル着物花盛りで、日本人だけでなく、着物を着た外国人がやたらと多い。
ヒジャブを被ったイスラムの人や黒人の人もいる。
日本人かと思えば、韓国語や中国語が聞こえてくる。
でも彼らの民族衣装は着物と同じ文化圏だ。

違う文化圏の西洋人が目からウロコだ。
足袋に草履や下駄もいるが、靴も結構いる。
今時、地下足袋のような指が割れたパンプスも売っている。
でかい外人の男性が膝丈ぐらいのちんちくりんの着物を着て靴下と靴が丸見え、
というのもたまにいるが、彼らは実に満足そうに見え、屈託がない。

そういう中で、着物を着て、洒落た帽子やブーツでキメている人はカッコイイ。
着物には足袋に草履というドレスコードの罠に僕たち日本人自体が陥っているのかもしれない。

奇妙キテレツな格好の女の子や品の悪いヤンキーの身なりには眉をひそめるが、
スティーブ・ジョブズやザッカーバーグがカジュアルな格好をしていれば、
そういうものかと受け入れてしまう。

ベンチャーの旗手たちは、既存のドレスコードを旧型の発想や仕組みのシンボルとして柔らかく糾弾し、
そんなものに身を包んでいたら新しい発想はできないよ、
自分たちはそういう人間ではないんだよということを発信し、
新しい記号を作っているのだ。
新しいドレスコードが生まれようとしているのだ。

| コラム | 14:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://touwakankyoukagaku.blog33.fc2.com/tb.php/123-032b0d62

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT