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みちのく一人旅(その3):遠野で考えたこと(2019.8)

遠野物語

「みちのく一人旅」の3回目は、
もうひとつの旅の目的である民俗学のふるさと遠野を訪ねる旅だ。

花巻を後にして、釜石線に乗る。
東北本線の平泉とは異なり、乗客は少ない。
どうやら渋滞や行列には巻き込まれなくて済むようだ。
この電車でこのまま行けば三陸まで行くんだなと思いながら花巻から約1時間。
遠野駅に着き、駅前でレンタルサイクルを借りる。

カッパ淵と伝承園が多分定番のサイクリングコースだが、
僕が目指すのは、「遠野物語」の舞台の心臓部、約10km先の土淵の山口地区だ。

柳田國男が書いた遠野物語は、遠野地方に伝わる伝承を記した説話集である。
カッパやザシキワラシやオシラサマは、この遠野物語で広く人々に知られるものとなった。
柳田國男は、遠野の山口出身の民話蒐集家・文学研究家の佐々木喜善を知り、遠野を訪れ、
彼が話す遠野地方に伝わる数々の伝承を記録・編集して出版したのが遠野物語なのである。

花巻と遠野を訪ねて初めて知ったのは、この佐々木喜善と宮沢賢治の関わりである。
その仲立ちとなったのがザシキワラシだ。
賢治の童話に「ざしき童子のはなし」という話があるが、
喜善はその内容を自著で引用しようとして賢治に手紙を送ったのが始まりで、
二人は何回か実際に会っていたようだ。

二人の生涯年表を見ていてハッと気づいた。
年は喜善がちょうど10歳上だが、
二人が亡くなったのは同じ年の同じ月、たった8日しか違わないのだ。
二人はほぼ同じ時を生きたのだ。

悲しい掟・「ダンノハナ」と「デンデラノ」

山口集落には佐々木喜善の生家も墓も残っている。
生家はいわゆる南部の曲屋で、
近くにある共同墓所は「ダンノハナ」といい、遠野物語にも出てくる。
山口集落のダンノハナは、集落を見下す斜面にあり、喜善の墓もある。
喜善の墓は、建立にあたって柳田國男が遠野物語の印税の一部をあて、
折口信夫が墓碑を揮毫したそうだ。

そして、山口集落を挟んでこのダンノハナの反対側にあるのが「デンデラノ」である。
デンデラノは、早い話が姥捨て山である。
昔、60歳となった老人は自主的に家を出てデンデラノに向かい、
そこで共同生活を送りながら寿命を待ったという。

深沢七郎の楢山節考のようなものだと思っていたが、かなり違っていた。
まず、里から遠く離れた奥山ではない。里のすぐ横の丘陵地だ。
そして老人たちは捨てられるのではなく、
朝、里へ出て農作業などを手伝い、夕方、デンデラノに帰ったという。
前者のことをハカダチといい、後者のことをハカアガリというのだそうだ。

デンデラノには茅葺の小さな小屋が建っていた。
「アガリの家」と言うそうだ。
そう、前述のハカアガリの「アガリ」である。
今あるアガリの家は忠実な再現ではないかもしれないが、
いずれにしても粗末なものだったのだろう。
こんなところで老人たちはどうやって冬を越したのだろう。
ここは岩手の山奥だ。
一冬越すたびに、何人も死んでいったのだろう。

そこで気がついた。
ダンノハナとデンデラノはセットなのだ。
デンデラノで死んだ人が、里をまたいでダンノハナに還っていったのだ。

ヤマセが吹き、凶作になった時、
里人が共倒れにならないように老人たちは自ら口減らしを行ったのだ。
しかしそれは、座して死を待つのではなく、
ましてや自殺などではなく、可能な限り生き延びようとする挑戦だったのだ。
残された里人も老人を捨てたのではない。
デンデラノに向かう肉親に、慙愧と尊敬の念を持ったに違いない。
そしてその運命は、遠くない将来の自分の姿なのだから。

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デンデラノ。茅場の隅に茅葺の小さな小屋「アガリの家」が建つ。

デンデラノの松蔭のアガリの家を見て、賢治の「雨ニモマケズ」を思い出した。
まさに、賢治が立っていたのは、こんな風景の中だったんだ。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 (中略)
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 (中略)
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 (中略)
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ


小麦団子はどう伝わったか

やはり最後に少し食べ物の話をしておかなきゃならない。
初めて知ったのだが、遠野はジンギスカンが名物なのだそうだ。
なので、ジンギスカンを食べようと思ったのだけど、時間と場所が折り合わない。
それで郷土料理を探してみると、どうやら「ひっつみ」というものが名物だということが分かった。

「ひっつみ」は岩手県北上地方の郷土料理で、早い話が「すいとん」である。
(と言っても、「すいとん」を知らない人が多いのではないかと思うけど)
「ひっつみ」は、小麦粉を練って団子にしてものを「ひっつめ」て(つまんで)薄く伸ばしたものと
鶏肉や野菜を煮た汁物である。

汁の中身のコナモンについてざっくりいうと、
小麦粉を練ったものが団子状のものが「すいとん」、
太い麺状のものが「ほうとう」、薄い皮状のものが「ひっつみ」である。

「ほうとう」は山梨(甲斐)の郷土料理だけど、「ひっつみ」と関係あるのかな?
盛岡藩(南部藩)の城主だった南部氏は、もともと甲斐出身なので、
同様の料理が伝わったんじゃないのかな。

「南部」が出たところでもう一つ言えば、岩手名物に南部煎餅というものがある。
南部煎餅は、よく考えてみれば小麦団子を焼いたものだ。
小麦団子を焼いたもの(南部煎餅)を、
上に列挙した「すいとん」系の小麦団子に置き換えれないだろうか。
この置き換え料理があるのである。
青森は八戸の「せんべい汁」である。

しかし、八戸は青森で、岩手ではない。
実は、盛岡藩(南部藩)から後に八戸藩が分かれ、八戸藩も南部氏が治めていたのである。
小麦団子を焼いて煎餅にしておけば、日持ちがし、非常食になっただろう。
ヤマセ吹く凶作への備えとして、より気候の厳しい青森で生まれた郷土料理だ。
郷土料理をひもといていき、
その後ろにある風土とそれに培われていった文化がどう伝わっていったか考えることが、
僕は好きだ。

image004_20190802084819cb5.png
ひっつみ定食。右下が「ひっつみ」、右上が「けいらん」。(伝承園にて)
「けいらん」は「鶏卵」である。その色形からこう呼ばれる。
こしあんを餅粉の皮で包んで茹でて冷やしたもの。つるっと甘いデザートだ。


デンデラノとひっつみ。
雪や地震や台風が少なく、ヤマセの吹かない暖かな瀬戸内で育った僕たちにはなじみのない事々だ。
賢治と啄木。
どちらもこの厳しい風土で一生懸命生き、若くして結核で亡くなった。
瀬戸内とはまったく風土の異なる東北で、いろいろなことを見て、いろいろなことを考えた。

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