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梅雨の後先(2018.7)

お滝さん

梅雨である。
梅雨の絵といえば、これはもう、アジサイとカタツムリである。

まず、そのアジサイであるが、
アジサイは、いろいろとそれにまつわる話が多い花である。
アジサイと聞いて、小生が一番最初に思うのは、「オタクサ」である。

「オタクサ」は、シーボルトがつけたアジサイの学名である。
但し、それは、既に記載されている種と同一種とみなされ、植物学上有効名ではない。
シーボルトは長崎にいる時、「お滝さん」という愛妾がいた。
彼は、自分が愛した「オタキサン」と、好きだった日本の美しい花を重ね合わせ、
その花を「Hydrangea otaksa」と命名したのだ。

二人の間に生まれた娘イネは、テレビドラマ「オランダおいね」の主人公であり、
日本人初の女医として知られている。
余談だが、長崎には「オタクサ」というお菓子がある。

アジサイの花言葉は「移り気」である。
それは、アジサイの花の色が一定でなく、青、紫、赤などに変化するからだ。
アジサイは、土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤になる。

しかし、色の変化の根本原因は、pHではなく、アルミニウムイオンである。
土壌が酸性だと、アルミニウムイオンが土中に溶出し、
アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合して青色なるそうだ。
アントシアニンといえば、ブルーベーリーに多く含まれるとよく聞く有効成分だ。

青と赤、酸性とアルカリ性といえば、リトマス試験紙だ。
しかし、リトマス試験紙は、酸性なら赤、アルカリ性なら青で、アジサイと逆だ。
一緒なら、分かりやすいのに。

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わが家のアジサイ。もう終わりに近づいているが、土壌はどうやら酸性のようだ。

カタツムリはどこへ行った

小学生の頃、学校への行き帰り、梅雨時にはよくカタツムリを見た。
小生は広島市中区の小学校に通っていたが、
その頃の広島市は、まさに「三丁目の夕日」そのものの昭和の風景だった。
家の周りには、土管が置いてあるような空き地がたくさんあったし、
近所の塀には穴が開いていて、そこをくぐり、家と家との隙間を抜け、
近道をして遊びながら学校に通った。
そこには草や木も普通にたくさん生えていて、
カタツムリも塀や葉っぱの上に普通に見つけられた。

今、市街地でカタツムリを見ることはほとんどない。
今住んでいる比較的緑の多い郊外の住宅地にしても、庭のあるわが家にしても然りである。
しかし、ナメクジはよく見る。
これだけナメクジがいるのに、なぜカタツムリはいないのだろう。

そういえば、ダンゴムシはたくさんいるが、ハサミムシはここ数十年、とんと見たことがない。
子供の頃は、植木鉢をひっくり返せば、ダンゴムシと同じくらいハサミムシもいたのだが。
カタツムリやハサミムシは、どこでも見られるごく身近な生き物だったのだけど。

梅雨というか、雨のもうひとつの風物詩は、てるてる坊主である。
子供の頃は、楽しみなイベントを前に、雲行きが怪しい時はてるてる坊主を作り、
軒先にぶら下げたものである。
遠足の前の日には、軒先にてるてる坊主がぶら下がっている家をよく見たものだ。
でも、そういう時は、往々にして晴れた事がなかったように子ども心に記憶している。
てるてる坊主もここ数十年見たことがない。

image003_201807020911523b3.png
てるてる坊主。今の子どもたちは知らないだろうなあ。
ティッシュ…ではなく、ちり紙(この言葉も知らないだろうなあ)を丸めて作るんだ。

低温やけど

昔は、天気予報というと、当たらないものの代名詞だった。
晴れの予報なのに、よく雨が降ったものだ。
そりゃそうだ。気象観測衛星も、アメダスも、スーパーコンピューターもない時代に、
予報官の知識と経験だけで予報していたのだから。

今の天気予報はもう、当たる・当たらないの範疇は超えている。
レーダー画面は誰でも見れ、雨が降る・降らないの予測は時間刻みである。
てるてる坊主が生きる場所はそこにはもうないのである。

では、カタツムリやハサミムシはどうしていなくなったのだろう。
僕たちの目に留まらないだけで、どこかでひっそり暮らしているのだろうか。
生きものの保全というと貴重種と言われるものばかりに目が行きがちだが、
このようなごく身近で身の周りにいた生きものにも目を向けたい。
それは、人々の生活とともにあったからだ。
人々の暮らしを写すものだったからだ。

声高ではないが、じわっとしみる
(これを小生の友人は「低温やけど」と称した)映画「この世界の片隅に」で、
主人公のすずが砂糖壺に寄ってくるアリを「アリコさん」と言っていた。
僕が子供の頃、確かに母も祖母もアリのことを「アリコ」と呼んでいた。
今では「アリコ」という広島弁を聞いたことがない。

身近な生きものの、ひたむきな無邪気さやかわいさに親しみを込める気持ち。
「アリ」という言葉にはそれはない。
逆に、害虫としての嫌悪感、忌避感を感じる。

僕たちは、
身近な生き物に対する親しみの気持ちや愛情を知らず知らずのうちに失い、
その代償として、身近だった生きものはいつの間にかいなくなってしまった。

移り気な僕たちは、少しずつ大切なものを失っていることに気づかず、
低温やけどは、気づかないまま進行しているのかもしれない。

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