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満たすべき入れ物(2018.1)

みてる

学生時代、千葉の稲毛というところに住んでいた。
夏休みや冬休みに帰省した時、高校時代の友達と会い、
今どこに住んでるの?と聞かれ、
千葉の「いなげ」というところと答えると、必ず笑われた。

「そりゃほんまに地名か。いなげなところに住んどるんじゃのう」
広島弁で「いなげ」とは、「異なげ」であって、「変な」という意味なのである。
どこに住んでいるかとたずね、変なところに住んでいると答えられたら、
そりゃ相手はどんな変なところに住んでいるのかと聞いてみたくなるよね。

方言というものは、共通語とは全く違う意味を持つものがある。
それどころか、正反対の意味を持つものもある。
広島弁の「みてる」がそうである。
広島弁の「みてる」は、「満てる」の逆で、「なくなる」という意味なのだ。
「はや、みてた」は、「もう、なくなった」という意味である。
他所から広島に来て、「みてる」で戸惑った人や失敗した人の話は多い。

満ちれば欠ける

本来の「満ちる」という言葉については、「満ちれば欠ける」という諺がある。
この出典は2つあって、
ひとつは「月と恋は満ちれば欠ける」というポルトガルの諺で、
もうひとつは中国の史記の中の「月満つれば則ち虧く」という言葉である。
洋の東西を問わず、満ち欠けの象徴は月というのは不変のようである。

「満ちれば欠ける」という諺は、栄枯盛衰、盛者必衰、生者必滅という意味である。
ここで思い出すのが、藤原道長が詠んだ歌である。
藤原道長は自分の娘を次々と天皇と入内(結婚)させ、平安時代の摂関政治の頂点に立った。

 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

なんという尊大な歌だ。
「満ちれば欠ける」という道理を完全に無視している。
沈む太陽を扇で呼び戻したという平清盛と双璧だ。
驕る平家は久しからず。
道長の晩年は、天皇に嫁がせたすべての子どもに先立たれ、自身も病に苦しんだという。

「満ちれば欠ける」ということをよくかみしめてみると、いろんなことに思い至る。
満ちた状態がピークで後は悪くなるだけなら、そこには未来はない。
「満ちる」というのは終わりの始まりなのである。こんな悲しいことはない。
また、「満ちる」という状態は、直感的に長く続きそうもない。
永遠に満ちていることなどありえないからである。

であるなら、「満ちる」手前でやめておくのが最上の策である。
そう、「満ちなければ欠けない」のである。
「満ちる」手前の状態なら、努力は必要かもしれないが、長く続けられそうである。
今以上の未来はないが、今の幸せをずっと続けることができる。

では、「満ちる」手前でやめておくためにはどうすればいいか。
それは、何より「足るを知る」ことである。
満ちても欠けない唯一の方法は、満ちてない今が十分満たされていると気づくことである。
欲望の輪廻から脱出する方法は、ただ「足るを知る」ことだけである。

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何と!楽天のネットショップで3~4万円で売っている龍安寺のつくばいのイミテーション。
真中の四角の水受けを共通の「口」という部首として漢字を読んでいくと、「吾唯知足(われ・ただ・たるを・しる)」と読める。
龍安寺のつくばいは、水戸光圀からおくられたものだという。
(出典:楽天市場)

サティスファクション

「足るを知る」とは、満足するということである。
満足・・・サティスファクションといえば、これはもうローリング・ストーンズだ。
「サティスファクション」は、かなりの懐メロロックになるが、
ストーンズの最大のヒットナンバーである。

「サティスファクション」の原題は「(I Can’t Get No)Satisfaction」である。
額面通りに直訳すると、
不満足(No Satisfaction)を得られない(Can’t Get)とおかしな二重否定になる。
ここの「No」は、俗語的なイレギューラーな強調表現で、
この文全体は「ぜんぜん全く満足できない」という意味である。
日本語でも、若者用語で「とてもきれい」というのを「ぜんぜんきれい」というのに近い。

曲ではこの「I Can’t Get No Satisfaction」という歌詞を何度も繰り返す。
いやというほど「ぜんぜん全く満足できない、ぜんぜん全く満足できない、・・・」と歌うのである。
じゃあ、何にぜんぜん全く満足できないかというと、
曲では、ラジオやテレビで話しかけてくるおっさんにぜんぜん全く満足できないのだ。
要は、世の中の仕組みやすべてのことが気に入らず、ぜんぜん全く満足できないのだ。
以前、このコラムで書いた、
ホテル・カリフォルニアでうたわれたロックの魂がまだ生きていた時のことだ。

僕は、尾崎豊の「十五の夜」と一緒だと思う。
若い時、いろいろなことに対して湧き上がってくるやり場のない怒りや、
どうしようもない苛立ちの叫びだと思う。
ミック・ジャガーにしても尾崎豊にしても、思春期の怒りや苛立ちを、
それまで誰も表現したことのない言葉で曲を作ったことが素晴らしい。

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ローリング・ストーンズといえば、このロゴ「tongue」。
キース・リチャーズとミック・ジャガーの不良老人は今も健在。
ミック・ジャガーに至っては、一昨年73歳で8人目の子どもを作った。
(出典 userdisk.webry.biglobe.ne.jp)

目の前の曠野

ミック・ジャガーや尾崎豊は、そもそも満ちてなかった。
ぜんぜん全く満ちていなかった。
だから欠けるべくもなかった。

「満ちる」ということ自体が青年時代にはありえないのだ。
「満ちる」ということがないのが青年時代の特権なのだ。
満たすべき入れ物がまだない青年時代には、ただ広い世界が広がっているだけだ。
それは曠野だが、どこへでも行けるのだ。これはとても素晴らしいことだ。
しかし、同時に、とても怖いことだ。
どこにも行かないという選択肢もあるが、誰もがどこかへ足を踏み出す。
あの頃、誰しも、果てしなく伸びしろがあり、一番輝いていたのだ。

ディープラーニングを搭載したAIがあらゆる場で作動する未来の形を、
確かだろうがまだ漠然としかイメージできない私たち。
自分たちの国の目の前のことだけをとらえ、
20,30年後のありようを描けない政治とそれを選んだ私たち。
少子高齢化とは、どういうことが起きることなのかやっと実感し始めた私たち。
私たちの前には曠野が広がっているのだ。

永遠に満ちることのないことの何たるかを知っているからこそ、今の足るを知る。
20,30年後のあるべき姿を考えて、今を生きる。
新しい年は、そういう年であってほしいと願う。

| コラム | 11:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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