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光陰矢の如し(2017.5)

中年御三家

若い時はあまり気に留めなかったのだが、最近は訃報に目が行く。
ああ、あの人が、という想いだ。
今年に入って、1月の松方弘樹、3月のかまやつひろし。
特に昨年は、一時代を築いた人たちの訃報が相次いだ。
永六輔(7月7日)に続いて、大橋巨泉(7月12日)。
数年前まで広げれば、野坂昭如(平成27年12月)、愛川欣也(平成27年4月)、
大島渚(平成25年1月)、小沢昭一(平成24年12月)。
この人たちに共通なのは、焼け跡派ということであり、
テレビ創成期を担った人たちということである。

駅で衰弱死した戦争孤児の少年が持っていたドロップ缶を駅員が投げると、
そこから妹の小さな骨が転げ落ち、
その周りを蛍が飛びかうというシーンから始まる「火垂るの墓」は、
とてもやりきれない物語である。

焼け跡派は、多感な子供時代に、
敗戦(あえて「終戦」といわない)とその後の混乱を経験している。
焼け跡派の名付け親の野坂昭如の自伝的鎮魂小説「火垂るの墓」は、
まさにその実録である。
あのハチャメチャな野坂昭如が書いた、
持って行きようのないやるせない悲しみに満ちたリアリズムである。
この人たちが言う「どんなことがあっても戦争をしてはいけない」という言葉は、
過酷な実体験に基づく重い重い言葉である。

あれから70年。
あまりに安易に安全保障やら積極的平和主義なるものを口にする
「戦争を知らない子どもたち」の政治家は、
そのことを強く強く受け止めてほしい。

野坂昭如は、こういう胸に迫る物語を書いたかと思うと、
大島渚の結婚30周年のパーティーで、
些細な行き違いから泥酔状態で大島渚と殴り合ったり、
ハチャメチャなCMを作ったりと、
そのシュールな狂気は何物にも代えがたい。

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「火垂るの墓」のDVD(スタジオ・ジブリ)。
原作者の野坂昭如自身が、「私はこの映画を二度と見たくない」と言ったというエピソードがある。


この野坂昭如と「中年御三家」を作ったのが永六輔と小沢昭一だ。
「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか」と歌うシャンソン歌手でもあった野坂昭如に対し、
永六輔と小沢昭一は日本文化、
それも庶民の文化を継承しなければという信念に貫かれていた。

ヒューマンスケールである尺貫法の復権を訴え、
安易な動物愛護運動に対して日本の伝統文化としての捕鯨を訴えた
「男のおばさん」永六輔。
一貫して大道芸や放浪芸、見世物小屋、ストリップなどの庶民の芸能を愛し、
ライフワークとしてそれを追いかけ続けた小沢昭一。
余人をもって代えがたい人達である。

親友の永六輔が亡くなったことは、
病の床にあった大橋巨泉には知らされなかったそうだ。
永六輔死去の5日後の7月12日、大橋巨泉も亡くなるのだが、
昨年7月20日放送の徹子の部屋では、
どちらも黒柳徹子の親友だった永六輔と大橋巨泉が出演した
2月4日の放送分を放送した。

大橋巨泉は、約2年前の平成27年6月の愛川欣也の四十九日
「愛川欽也を偲ぶ会」で弔辞を述べている。
その1年後に自分の命が尽きるとは、思ってもみなかっただろう。
この世代の人のつながりの強さを思うとともに、やるせなくなる。

テレビ創成期

この人たちに加え、既に亡くなった向田邦子、渥美清、井上ひさし、森繁久彌、
まだ存命の黒柳徹子などの人達の
テレビ創成期のもろもろの話はとてつもなく面白い。
時代が自由だったのである。

高度成長期に入り、誰も経験したことのないテレビという新しいメディアに対し、
何でもありの状況の中で、
放送作家、プロデューサー、アナウンサー、司会者、タレント、
様々な新しい仕事が生まれていった。
毎日が新しいチャレンジで、未来は混沌と広がり、明日は何が起きるかわからない。
すごい時代だったんだろうなと思う。

向田邦子のエッセー「父の詫び状」を読むと、その頃の状況がよく分かる。
雑誌編集の会社勤めをしながらアルバイトで番組の台本を書き始め、
テレビの時代がやってきてアルバイトが本業になり、
やがて売れっ子作家になっていく向田。
ストレスをためた黒柳徹子の息抜きの場の向田のアパート。
何であんな飛行機に乗って死んでしまったのか。
悔しい。

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向田邦子の「父の詫び状」。昭和の香り満載である。
東京大空襲の時、一家で最後の晩餐をした話や、60秒で切れる出始めの留守番電話に連続9回ダイヤルして話し続けた黒柳徹子の話など、楽しませてくれる。


渥美清が最初にブレイクしたNHKのテレビ番組「夢であいましょう」の司会は黒柳徹子で、
「上を向いて歩こう」などの名曲を生んだ「今月の歌」は作詞を永六輔が担当し、
テレビの創成期を担う人たちが集結してバラエティ番組の走りとなった。

僕たちが子供の頃のNHKといえば、「ひょっこりひょうたん島」である。
「ひょっこりひょうたん島」の作者は井上ひさしであることを大きくなってから知った。
あのぶっとんだキャラクターの発想やストーリーの展開は、
僕の敬愛する赤塚不二夫に通じるものがある。
「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」という井上ひさしの言葉は、
僕が常に心掛けていることであり、
また人の技量を見極める僕の重要な判断基準となっている。

森繁久彌は、戦前からNHKのアナウンサーなどとして活躍していたそうだが、
僕が知っている森繁は、
何といっても「七人の孫」や「だいこんの花」などのテレビのホームドラマだ。
これらのドラマの脚本を書いたのが向田邦子である。

よく知られている逸話だが、
「徹子の部屋」の第1回のゲストは森繁で、
この時、黒柳徹子の胸を触ったハプニングは有名である。

向田邦子、渥美清、井上ひさし、森繁久彌、黒柳徹子、みんなつながっている。
やっている方も楽しかっただろうな、あの頃は。
テレビに出る人間が楽しがってやっているのは最近じゃあタモリぐらいかな。

余談だが、
芸能界には「早稲田を中退したタレントは出世する」というジンクスがあるそうだ。
上に揚げた人たちのうち、中退はともかく、早稲田の出身者は「中年御三家」のほか、
大橋巨泉(中退)、森繁久彌(中退)、である。
こんなキャラが揃う当時の早稲田は、
活気があって混沌として、きっとすごかったんだろうな。

誰がテレビをつまらなくしたか

どのチャンネルを回しても、どれもこれもひな壇に芸人が並び、
わあわあ、ぎゃーぎゃーのバラエティ番組。
楽屋落ちや仲間内のバカ騒ぎ。
のべつ間もなく流れるうっとうしい擬音語・擬態語・解説のテロップ。
大げさな効果音。
スタジオ観客の強制拍手。
番組制作があまりにも安易ではないか。
あまりにも安っぽくないか。

タモリが「ブラタモリ」を除いてテレビから離れて行ったのは、
彼の認識と意志であったと思いたい。

ICTの発達とともに娯楽も多様化し、
テレビは自分で自分の首を絞めているのではないか。
このままでは、自らテレビ離れを促進していくことにならないか。
僕自体、時間がないのもあるが、
テレビは基本的にニュースとカープの試合しか見ない。

「今のバラエティは芸能界の内幕ネタばかりで、
芸能人が使い捨ての状態になっている」とは、
テレビ創生期の真っただ中を生き、「11PM」や「クイズダービー」など
既成概念にとらわれない番組を作ってきた大橋巨泉の言葉である。

漫才、コントといえども台本がある。
台本に技能としてのアドリブが加わって、
初めて心からの笑い、感動する笑いが生まれる。
ヤスキヨの「甲子園」や笑い飯の「鳥人」は、
台本とアドリブが融合し、狂気(とみせる)との狭間から生まれた傑作である。
僕は、何とか向上委員会が眉を顰めるような下ネタやハチャメチャが大好きである。
バラエティ番組でも、革新的なハチャメチャさが際立った「おれたちひょうきん族」や
「笑っていいとも」には新しいスタイルの展開や斬新な笑いが常にあった。

そして、光陰如箭

既に歌謡曲というジャンルは自然消滅し、演歌を除けば最近はJ-POPという。
フランチャイズ制が進行し、
テレビでジャイアンツ戦が放映されなくなるのと期を同じくして
ジャイアンツは全国区ではなくなった。
NHKがテレビ放送を開始して64年、
テレビの創成期を担った人たちが次々といなくなる中で、
衛星放送やCATVなどの新しいメディアも定着した。
ゲームもあっという間に通信機能が定番になってスマホでやるものとなり、
据え置き型のゲーム機は衰退している。
10年、20年前はどうだったか考えてみてほしい。
あっという間である。

COP21で決まったように2050年にCO2を80%削減するのであれば、
ほんの三十数年後にはガソリンや軽油で走る車は皆無となる。
わが国で現在90%以上を占める化石燃料による発電は不可能になる。
もしほんとにそうなら、あっという間である。
その時、どうなるのか、どうするのか、まだ誰も考えることができない。

ほんの三十数年後のことである。
光陰矢の如し。

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