FC2ブログ

2017年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2017年03月

| PAGE-SELECT |

≫ EDIT

知らないことを知ること(2017.2)

フケツの極み

「人も衣服も家も害虫でいっぱいで、
不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、
ここの人々は不潔です。
夜になるとわたしの部屋では甲虫、蜘蛛、わらじ虫が宴会を繰り広げます。
それに同じ家屋に馬がいるので、馬が馬蠅を持ち込みます。
わたしの携帯用寝台には防虫剤をまきましたが、
毛布が少しでも床につくと、もう蚤にやられて眠れなくなります。」

「鶏、犬、馬、人間が薪をたいた煙で黒くなった粗末な平屋にいっしょくたに暮らしており、
山になった家畜の糞尿が井戸に流れ込んでいます。
幼い男の子で着物を着ているのはひとりもいません。
ふんどし以外になにか身につけている男性はわずかで、
女性は上半身裸のうえ、着ているものはとても汚く、
ただただ習慣で着ているにすぎません。」

とんでもない未開の地だ。不潔の極み、文化のかけらもない。
こんな不衛生な暮らしをしているかわいそうな人は、どこの国の人だ。
しかし、これは日本の話なのだ。
今から約140年前の1878年の日本の姿なのだ。
前者は栃木県日光市藤原、後者は福島県西会津町宝坂での話だ。
1878年という年は明治になってやっと10年、西南戦争の翌年である。

「イザベラ・バードの日本紀行」だ。
かの宮本常一が解説本を書き、前から気になっていた本だ。
やっと読んだ。

イザベラ・バードはイギリスの女流旅行作家にして英国地理学会特別会員で、
世界各地を旅行した。
冒頭のような悲惨で劣悪な異国の未開の地を、
地図をはじめほとんど情報もない140年前に、
外国人、しかも女性が一人で(日本人の通訳兼従者を一人連れているが)
数か月にわたってよく旅をしたもんだと思う。
学術的好奇心があったとしても、信じられない行動だ。
だから、彼女がその頃の日本でどのような体験をし、日本をどのように見、
日本のどのようなところに惹かれたのかとても興味があったのだ。

明治11年5月21日に横浜に上陸したイザベラ・バードは、
東京から日光、新潟、山形、青森を経由して北海道まで、
4か月かけて馬、徒歩、人力車、船により旅行した。

image002_2017020213312204c.jpg
「イザベラ・バードの日本紀行」講談社学術文庫(上下2巻)。
一般的には「日本奥地紀行」と呼ばれる。

貧相な日本・礼節の日本・美しい日本

「小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々」

彼女の日本人の印象である。
分かるけど、こうはっきり書かれると、気分はよくないねえ。
この紀行文は彼女が妹に宛てた日記形式の私信のかたちをとっているので、
気がねするものもなく、今でいう差別用語も含め素直に書かれているのだ。

横浜の港で見た「移動のできるレストラン」―即ち「屋台」―については、

「人形のために人形がつくったように見え、
これの持ち主である小人は身長が5フィート(約152cm)ないのです」

なるほど、でかい外人からみたらそう見えるんだ。
しかし、お人形さんかよ。

「『顔の血色』と髭がないので、男の人の年齢を推し量るのはほとんど不可能です。
わたしは鉄道員は全員が17,8歳の若者だと思っていましたが、
実は25歳から40歳のおとななのでした」

と、こんな調子である。

image004_201702021331236be.jpg
「日本紀行」の中の挿画「屋台」。
彼女に言わせれば、「人形のために人形がつくったように見える移動のできるレストラン」

彼女は行く先々で好奇の目にさらされる。
140年前の北関東以北の日本では、白い肌、青い目の外国人、
それも女性の外国人など見たこともない人ばかりなのである。
結果、彼女は行く先々で、どこでも昼夜を問わず何十人もの野次馬に取り囲まれ、
無遠慮なまなざしに晒されるのである。

さらに、当時の日本人には、日本家屋には、プライバシーという概念はない。
泊まった宿屋の部屋の障子の向こうにも一晩中野次馬が居座るのである。
障子を穴だらけにして夜通し観察しているのである。
毎晩そんな状態で、よく旅をつづけたもんだ。
旅行記には、しょうがないなと記載しつつ、これに対して怒りをぶつけた記述はない。
穴があったら入りたいぜ、日本人。
何という民度の低さ。

しかし、彼女はこう言うのである。

「ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、
女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、
危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、
値段をふっかけられたりするでしょう。
でもここではただ一度として無作法な扱いを受けたことも、
法外な値段をふっかけられたこともないのです」

「わたしは日本の子どもたちが大好きです。
赤ちゃんの泣き声はまだ一度も耳にしたことがありませんし、
うるさい子供や聞き分けのない子供はひとりも見たことがありません。
子供の孝行心は日本の美徳の筆頭で、
無条件服従は何世紀もつづいてきた習慣なのです」

日本人の姿や暮らしを酷評する一方、
地理学者であり、地勢や植物に対して知識と興味を持つ彼女は日本の自然を絶賛する。

「ほかにも花をつけるさまざまな樹木がありますが、わたしにははじめて見るものでした。
それに下生えとしては赤いつつじ、梅花うつぎ、青い紫陽花―まさしく天の青―、
黄色い木苺、羊歯、クレマチス、白と黄の百合、青いアイリス。
その他50種の高木低木に藤がからまり、
その美しい葉はイギリスの黒苺の葉と同じようになじみのものです。
植物の豊富さはまさに熱帯的で、
最近降った雨のしずくを宿している天然のままの緑のすばらしさと多様さは、
斜めに差込む午後の陽光にいっそうの魅力を増していました」(日光の山中にて)。

植生の貧弱なイギリスの自生植物は数百種であるのに対して、
南北に長い国土を持つ日本のそれは4千種といわれる。
「日本紀行」を読めば、日本の自然に対する彼女の興奮が伝わってくる。
日頃、僕たちは自然の豊かさを特に感じない。
豊かさの中にいると、豊かであることに気づかない。
「日本紀行」を題材に、知らないことがあることを知ることを教えてくれたのが宮本常一なのだ。

宮本常一のまなざし

20年ぐらい前、名著「忘れられた日本人」を読んで、
僕はもうすっかり宮本常一に参ってしまった。
「宮本常一」という漢字を見るだけでハッとする。
その宮本常一がこの「日本紀行」を読んで書いたのが
「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」である。

ここで宮本常一は色々なことに注目し、言及しているのだが、
中でもなるほどと思ったのが、前に少し述べた蚤の話である。
「日本紀行」では、どこへ行ってもこれでもかというくらい蚤の話が出てくる。
まるで日本人は、いつでもどこでもすべからく大量の蚤に囲まれて生活しているように書かれており、
かなりショックである。

というのは、中国から漢字がもたらされ、仮名が生まれ、
奈良時代以降多くの記録や文芸が残されているが、
万葉集や記紀の昔から明治に至るまで、
日本の著名な文芸作品に蚤のことを語ったものは僕の知る限りほとんどない。
そして、常識的に考えて、
イザベラ・バードが日本を旅した明治11年以前の日本はもっと未開であり、
従ってもっと蚤はいたはずである。

ここで、宮本常一なのだ。
宮本常一は、こういうところに注目するのだ。
彼に言われて当たり前のことに気づく。

彼はこう言うのだ。
当時の日本人にとって、蚤のいるのは当たり前だから書かないのだと。
そうだ。朝になれば陽が昇り、夜になれば陽が沈む。
誰にとっても日常の当たり前のことだから、とりたてて書く必要はないのだ。
しかし、イザベラ・バードにとっては非日常的なこと、全く当たり前のことではなかったのだ。
宮本常一は言う。

「蚤は戦後アメリカにDDTをふりまいてもらって姿を消すまでは、どこにもすごくいたのです。(中略)
田舎へ行くほどひどくて、座敷へ上るとパッと二、三十匹とびついてくることが多かったのです。
これが日本ではごく当たり前のことだったのです」

この話に僕はとても心を動かされた。
イザベラ・バードには見えていたことが、日本人には見えていなかった。
また逆に、日本人には見えていたことが、イザベラ・バードには見えていなかった。

誰しも、これまで自分が生きてきた経験の中でしか物事を認識することができない。
今まで経験したことのないことは、知らないことなのだ。
知らないことに初めてぶつかった時、どう考え、どう行動するか。
またその時、自分が知らなかったこと、相手が知っていたことを素直に認めることができるか。
そして、そのような想定外のことを自分の世界の中に取り込むことができるか。
何でもそうだ。
自分に全く欠けていた視点から物事を見せられた時、
ちっぽけな自尊心にあらがい、それを受け入れることができるか。

自分は小さな小さなもので、
自分の周りをとりまく環境、その広がりの世界はとてつもなく大きく広いのである。

僕は、知らないことを知らせてくれることがあることを知っているものでありたい。
と思うのである。

| 未分類 | 14:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |