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空を泳げと天もまた胸を開く(2016.9)

昭和50年10月15日

「入った!入った!入った!」入る前からの絶叫。
今は亡き超カープ贔屓の金山次郎の実況解説。
RCCアナウンサーの上野隆紘との名コンビ。

時は、昭和50年10月15日の夕刻。
所は、秋の陽が長い影を引く後楽園。
試合を決定づけるホプキンスの3ラン。
最後は僕の大好きなピッチャー金城。
柴田のフライを水谷が捕る。
「広島カープ初優勝」のテロップ。
今ではありえないけど、内外野からどっとファンがグランドになだれ込む。
古葉ちゃんの胴上げが始まる。
ファンと選手と取材陣とでぐちゃぐちゃのグランドでコージのインタビューが始まる。
マイクを向けられたコージは両手を高くあげたまま言葉にならない雄叫びをあげる。
それを見て、テレビの前で母親と二人でもらい泣きした。

その夜、広島の街に8万人の人が繰り出したという。
現在120万都市の広島市の当時の人口は80万。
何と、10人に1人の人が街に繰り出したのだ。
これは、とんでもない数字だ。
80万は赤ちゃんやお年寄りも含めた数字だ。
巨人が優勝したからといって1,300万の東京都民のどれだけが、
新宿に、渋谷に、新橋に繰り出すというのだ。

優勝が決まった後、
行かにゃいけんとタクシーに乗って街に向かった人の話はよく聞いた。
当時、僕は広島で浪人していた。
東京や関西の大学や予備校に行っていた高校の同級生が、
翌日からただそのためだけに続々と帰ってきた。

それは、その日だけでは終わらなかった。
昭和50年10月15日は水曜日、これから週末に向かうのだ。
感動の夜が明けると、デパート、飲み屋を筆頭に、
どの店も堰を切ったように優勝記念セールだ。
僕は、とにかく、翌日のスポーツ新聞を全部買った。

夜になれば、繁華街では飲み放題0円のお酒を飲みながら、
そこらじゅうで知らない者同士が抱き合って泣いている。
商機と捉えて優勝記念セールをやってるんじゃない。
よその店がやってるからやってるんじゃない。
店をやっている誰もが、弾ける喜びを表したいのである。
それはもう、お金じゃない。
というか、お金で買えるものではない。

僕の記憶では、1週間ぐらいは広島の街はぐじゃぐじゃだったと思う。
その最初の熱い熱い熱気が冷めやらぬうちに、
選手が広島に帰ってきて優勝報告会でまたひと騒動。
わけのわからないうちに日本シリーズになだれ込み(負けはしたが)、
そして、優勝パレードでまたひと騒動。
結局、1ヶ月ぐらいは街中が熱病にかかったみたいだった。
とても素敵な熱病だった。

当時、そう、40年前の初優勝の時、撮った写真があるので、いくつか紹介したい。
ただ、まだデジカメもない40年前、
バカチョンカメラ(こういう言葉もなくなったなあ)で撮ったプリントだ。
ピントも甘く、画像も色あせているが、
初優勝の時はこうだったという素人の記録として眺めていただければと思う。

優勝の瞬間
優勝の瞬間のテレビ画像。
感動のあまり手ぶれしまくっている。
キャッチャー水沼の背中に飛びつくシェーン。

コージ
言葉にならない雄叫びをあげるコージ。若いなあ。そして、細いなあ。

市民球場
今はなき市民球場。

天満屋
こちらは今はなき天満屋。ほんま、待っとったんで。今回は25年じゃ。

金座街
本通り(金座街)もこのとおり。
アーケードは新しくなる前のもの。看板は手作り感満載。

石松
カープファンのたまり場だった新天地の焼き鳥屋「石松」。
個人経営の店でもこのとおり。

千人赤ヘル
千人針ならぬ千人赤ヘル。
街を歩く市民に呼び掛けて、一人ひとりが小さな赤いピンを布に貼り付け、優勝を祈願した。

山本・水沼
この千人赤ヘルのお披露目セレモニー。
三越前で行われた。ゲストは山本一義と水沼四朗。
例の近鉄との日本シリーズ「江夏の21球」は、僕は「水沼の21球」だと思っている。
こういうふうに、毎日街のどこかで色々なセレモニーやイベントが延々と続く。

だから、とてもとても楽しみで怖いのである。
今の広島は、あの初優勝の時のことを知らない人の方が多い。
初優勝から40年、最後の優勝から25年。
2回目の初優勝と言ってもいいんじゃないか。
もう、多くの市民にとって、初めてのことと言ってもいいんじゃないか。
その時、広島の街はどうなるんだろう。
そしてそれは、もうすぐだ。
ああ、楽しみで、怖い。

あの頃

昭和50年、1975年、カープが初優勝した時、僕は浪人生だった。
40年前のことである。
それは、僕にとって昨日のようでもあり、遠い過去のようでもある。
大学受験の時は、山陽新幹線はまだ岡山止まりで、
広島駅からブルートレインに乗って東京に行った。
母校の高校の食堂では、うどんが25円、カレーが50円だった。
百円はまだ板垣退助のお札で、聖徳太子はまぶしすぎた。
電卓は緑の蛍光管で、液晶はまだなく、当然、パソコンというものは存在しなかった。
電話は、テレホンカードさえもまだなく、10円玉を握りしめて実家に電話した。
たった40年前のことである。

そういえば、あの頃は、夏はこんなに暑くなかった。
30℃を超えるような日はめったになく、陽が落ちれば涼しかった。
お盆を過ぎれば空は高く澄んで足早に秋の気配がし、
カナカナと響くヒグラシの声に行く夏の哀しさが募った。
お盆を過ぎたら泳いではいけないとよく言われた。
クーラーはなかったが、
子どもの頃は夕方になるとおばあちゃんが打ち水をして涼しくなった。

今といえば、クールビズは6月に始まり、9月いっぱいはその期間である。
10月になっても猛暑日がある。
いったい、いつの頃からこんなに暑くなったのだろうか。

失楽園

話は変わるが、下の図をご覧いただきたい。
これは、わが国のエネルギーの推移を表した図である。
この図からは色々なことが読み取れる。

まず、近年話題の原子力であるが、
カープが初優勝した昭和50年頃から突如登場する。
これは昭和48年と54年の2度にわたってあったオイルショックにその原因がある。
オイルショックを経験して、世界の国々は石油の社会的な脆弱性を思い知り、
それへの依存からの脱却を図ったのである。
この時、原子力に大きく舵を切ったのがフランスで、
フランスは今でも原子力大国である。

で、日本はどうしたか。
原子力にも目を向けつつ、省エネと新エネに向かったのである。
この選択は正しかった。
特に、差し迫った省エネの必要性により、日本の技術力は磨きに磨かれ、
以後、世界を席巻するのである。

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資料:原子力・エネルギー図面集2014(資源エネルギー庁「平成23年度(2011年度)エネルギー需給実績(確報)」 他)に加筆

次に、昭和60年頃からエネルギー需要が急に増えている。
これはまず、この頃からバブル期に入ったことがその原因といえるだろう。
そして、パソコンをはじめとする技術革新である。
この頃からパソコンがどっと普及したのである。
それと並行して半導体の開発が進み、
それまでにはなかった様々な新しい電化製品が登場した。
炊飯ジャー、オーブンレンジ、各種レコーダーなどなど。

そして、バブルに乗って、車も電化製品も大型化していった。
技術革新によりエネルギー効率はどんどん良くなっていったが、
それゆえ、それ以上に大型化が進んだのである。
車は3ナンバーがどっと増えた。
14インチぐらいで満足していたテレビは、あっという間に40インチになった。
冷蔵庫は2ドアの200リットルのものが、3ドア・4ドアの400リットルになった。

次から次へと便利なもの、機能の高いものが出てきた。
CO2削減のために高効率のものに買い替えることが常識となった。
CO2削減のために廃棄物が増えていくとは、なんともブラックな話である。

そのエネルギー需要が急増する前が、昭和50年なのである。
カープが初優勝したあの頃なのである。
現在、わが国のエネルギー消費は約22,000PJであるが、
カープが初優勝したあの頃は、その7割程度の約16,000PJなのである。

あの頃の暮らしは、そんな悪い暮らしじゃない。ごく普通の暮らしだ。
生活に不便は感じなかった。貧しいという感じもなかった。
あらゆるところで、あまりに便利なものが揃っている今から見れば、
テレビも冷蔵庫も小さく不便かもしれないが。

しかし、その便利さと引き換えに、
われわれにはいつまでも続く夏の暑さがもたらされた。
まさに茹で蛙であることに気づかないまま不可逆的な地球温暖化がもたらされた。
禁断の果実と引き換えに、
アダムとイブは無垢の心を失い、出産と労働の苦しみを得たのだ。
僕たちは今一度、足るを知らなければならない。
既に、楽園から追放されかかっていることに気づかなければならない。

カープがそれを教えてくれた

高校3年の時、母校のカープファンの先生がこう言った。
「うちの野球部が甲子園に出るか、カープが優勝したら、わしは坊主になる。」
カープが初優勝したのは、その翌年だった。
カープが優勝するというのは、
今まで県大会での一度のベスト16が最高の母校の野球部が、
甲子園に出るということと同等、
即ち、≒不可能ということを、誰よりも広島人が認識していたのだった。

カープの初優勝は、それだけに「ありえない」超最重大事件だったが、
後から思えばそれは決して偶然ではない。
もちろん、ルーツが意識改革をし、古葉ちゃんがそれを受け継いだのだが、
優勝するチームの土台を築いたのはその前を担った根本監督であり、
彼が呼び寄せた小森・広岡コーチだったと僕は思う。
彼らがいたから、コージが育ち、衣笠が育った。

そして、「育成」という球団方針と、
そこから生まれるスカウトの目の確かさと努力が時間をかけて実った。
フリーエージェントでお金で引き抜き、高額な外人を揃えなくても、
それに勝てることを僕たちは知っている。

僕たちにはできるんじゃないかな。
そのことを知っているから。
大きな車や電化製品を買い揃えなくても楽しく生活できること。
明日の利益を生むことより、確かに存続していくことを大切にすること。
己を知り、足るを知ること。

カープがそれを教えてくれた。
栄冠手にするその日は近いぞ。

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