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「いただきます」と「ごちそうさま」(2015.4)

「いただきます」はすごい

さあ、メシだ。さあ、食おうぜ。「いただきまーす」・・・
「いただきます」って、いつも簡単に、何も考えずに言ってるけど、誰に言ってるんだろう。
一緒に食卓を囲んでいる周りの人?でも、一人で食べる時も言うよね。
ご飯を作ってくれたお母さん?でも、自分でご飯を作った時も言うよね。
お米を作ったお百姓さん?でも、自分で作ったカップラーメンを食べる時も言うよね。
それとも、食の恵みを与えてくれた神様かな?
でも、欧米のクリスチャンなら食事の前にお祈りをするみたいだけど、
ほとんどの日本人は無宗教だ。神も仏もないよね。

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「いただきます」って、誰に言ってるんだろう?

「いただきます」を英語で何て言うのか調べてみたら、“Let’s eat!”だって。
えらいストレートだなあ。
で、このストレート感はどこから来るのか考えてみた。
そうすると、さっきの「誰に言ってるのか」の深み、
すなわち感謝の気持ちがないことに気づいた。
“Let’s eat!”じゃあ、「さあ、食おうぜ」と周りの人に言っているだけだ。
「いただきます」という日本語に該当する英語はないのだ。
すなわち、欧米には、食事の前に「いただきます」と言う習慣・文化はないのだ。
これは、感謝の念の欠如じゃないのか。
じゃあ、いったい誰に感謝してるんだろう。

この感謝の対象が、さっきの「誰に言ってるのか」の「誰」なんだ。
「誰」は「誰」だろう?

目の前の一膳の御飯。
このお米を作るために、どれだけの人や物がかかわったのだろう。
いや、人や物だけじゃない。
お米の育った田んぼ、田んぼの水を取水する川、川の水を育む森や山。
そこにすむ生き物たち、その生き物を支えるまた別の多くの生き物。
すべてがつながっている。

生物「多様性」は、なにも生物だけの話じゃない。
山も川も海も風も、この世界、この宇宙すべてのことだ。
このつながり合ったすべてのものに「いただきます」と言っているのだ
と僕は思う。
僕たちは、当たり前のように、何も考えずに「いただきます」と言ってるが、
これは、実はすごいことじゃないのか。

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出典:コンサベーション・インターナショナル(国際NGO)と共立女子大学生による共同展示
地球環境パートナーシッププラザ(GEOC)ホームページ

そう、ボクらはみんなで生きているんだ。

させていただきたくないのだ

「いただく」といえば、僕の嫌いな言葉の「させていただく」だ。
何で、誰もかれも、何でもかんでも「させていただく」って言うんだろう。
僕がどうして「させていただく」が嫌いかというと、
そこにずるさと偽善を感じるからだ。
「させていただく」って言われたって、そんなことしろってこっちは頼んだ覚えはないのだ。

なぜずるくてと偽善かというと、「させていただく」には責任転嫁を感じるからなのだ。
何より自分の意思が「させていただく」には感じられない。
自分がやりたいから、やらねばならないと思うから「やる」のであって、
誰かに「させていただく」のでは決してないはずだ。

文法的に言うと、「させ」は「する」という動詞の使役形なのだが、
ここで使役形を使うから主体の意思があいまいになるのだ。
そもそも使役というのは、
他者(使役者)が行為を強制する、または許可するという意味なのだ。
この相手の「許可をもらう」というところが実は重要なポイントで、
許可をもらう相手がいなかったり、
許可をもらう必要のないところでこれを使うからおかしなことになるのだ。

居酒屋でビールを頼む。
しばらくしておねえさんが「ビールをお持ちさせていただきました」
おいおい、ビールを持ってくるのはおねえさんの職務だぜ、
こっちが強制したり許可したもんじゃないんだ。
逆に、(そういうつもりじゃないことはわかっているけど)
それを強制や許可ととらえられる言い方をするのは失礼じゃないか
と思うのである。

「ごちそうさま」は廃れていくのか

「いただきます」とくれば、「ごちそうさま」である。
「ごちそうさま」は「御馳走様」で、「馳走」とは、その準備のために走り回ることだ。
その走り回る行為に感謝の念をこめて、前後に「御」と「様」がついたのだ。

これも英語にはない言葉で、
調べてみると“Let’s eat!”(いただきます)と異なり、
シーンに応じて様々な英訳があるようだ。
僕が一番フィトするんじゃないかなと思ったのは、“That was delicious!”かな。

しかし、食事の準備のために東奔西走したということを、どのように考えればいいのだろう。
食事の度に走り回らなければならないというのは、ちょっと誇張じゃないか。
これは毎日の食事ではなく、
「ごちそう」というように、庶民からいえばハレの日の特別な食事のことだったんだろう。

しかしだ、今の僕たちの食事を考えてみてほしい。
今日の昼、コンビニ弁当だった人、手を挙げて。
そりゃコンビニまで走って行くかもしれないが、とても「馳走」じゃないよね。
食事の準備もへったくれもなく、準備もないし、食事自体もあっという間に終わってしまう。
而して、僕たちの食事は「御馳走様」からどんどんかけ離れていく。
日本にしかない言葉が、習慣が、文化が、どんどん廃れていく、ような気がしてならない。

ここで思い出すのが「スローフード」である。
「スローフード」とは、その土地の伝統的な食文化や食材を見直すことで、
イタリアで提唱された言葉である。
「スローフード」の逆が「ファーストフード」で、
そもそもイタリアで「スローフード」がまきおこったのは、
ローマのスペイン広場にマクドナルドが開店したことがきっかけなのだ。

「スローフード」はやがて「スローライフ」につながり、
さらに「LOHAS(ロハス)」につながっていくのだが、
「スローフード」が「御馳走様」の文化を持つ日本ではなく、
イタリアでおこったことがちょっと残念で、かなり悔しい。

古くは漢字や仏教や建築、近くではラーメンやトンカツやアンパンがそうであるように、
どんな外国の文化でも貪欲に吸収し、消化して、
新たな文化を創りあげていくのが日本の文化の特徴ではあるが、
ファーストフードやコンビニをかくもあっさり受け入れたことには、
僕には多少の失望がある。いや、かなりの危惧がある。

コンビニにより失うもの

僕はとても危惧している。
僕はとても恐れている。
コンビニの進化と侵食を。

コンビニは、とてつもない速度で進化している。
以前は、色々なものが置いてあって、生活でちょっと足らない時に買いに行く店、
お酒を置いてないのが難点かな、という店だった。
ところが、コピーやファックス、宅急便の受付ぐらいまではよかったが、
あっという間に各種チケットの申し込みや支払い、
各種公共料金の支払い、通販代金収納代行、銀行ATMが導入され、
最近では住民票が取れるところもあると聞く。
また、プライベートブランド、特に食品の進化はめざましく、
確かにおでんや弁当はおいしいし、最近はイートインも備わり、軽飲食もできるのである。

で、どうなるか。
コンビニに行けばすべて事足りるのである。
銀行にも、役所にも行かなくていいのである。
街に買い物に出かけていかなくてもいいのである。
酒屋、八百屋、パン屋、弁当屋、本屋、薬局、スーパー、喫茶店、食堂・・・
ありとあらゆる店舗がのみこまれていく。

そのあとに来るものは、シャッター通りと化した地域の商店街、
個性を失ったどこもいっしょの繁華街・・・
わが街広島でも、あんな街中にあるのに、鷹野橋商店街はどうだ。
本通りのコンビニとドラッグストアの隆盛はどうだ。
紙屋町の地下街でいつもお客さんがいるのはコンビニだけだ。

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地下街でいつもお客さんがいるのはこの店だけだ。

「コンビニエンス」は「利便性」と訳される。
僕たちは、利便性に目くらましされて、
知らないうちにどんどん大切なものを失っているような気がしてならない。

僕は、日本人が長い間培ってきた「いただきます」と「ごちそうさま」の後ろにある大きく深いものが、
どんどん色あせていくような気がしてならない。
それらを失うことは、街の賑わいや街の個性を失うことよりも、もっともっと大きく深いことなのだ。


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