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もったいない

先月はごみについての環境学習の話をしたが、ごみの話は結構重要なので、
引き続き今月もごみにまつわる話をしたい。

おーい でてこーい

ある村で台風の後がけ崩れが起き、直径1mぐらいの穴ができた。
一人の若者が穴に向かって「おーい でてこーい」と叫び、
小石を投げ込んだが、何の反響もなかった。

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どうもこの穴は底なし穴であることが分かったので、
以後、原発の核廃棄物やら、外務省の機密書類やら、浮浪者の死体やら、都会の汚物やら、
ありとあらゆるものが捨てられた。
どんなものをいくら捨てても穴は飲み込んでくれた。

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ある日、村のそばの建設中のビルの高い鉄骨の上で一休みしていた作業員が、
頭の上で「おーい でてこーい」と叫ぶ声を聞いた。
思わず見上げた空には、ただ青空が広がるだけだった。
しかし、彼は、声のした方角から小石が彼をかすめて落ちてきたのには気づかなかった。

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あまりにドンピシャのお話なので、環境学習やワークショップで教材とします。

知っている人は知っている星新一の有名なシュートショート「おーい でてこーい」である。

以前、出前授業に行って「どうしたらごみを減らせるか」
というテーマで子供たちに意見を出し合ってもらった。
その意見の中に、「ごみは燃やせばなくなる」というものがあった。
そもそも、(燃やす)ごみを減らすためにはどうしたらいいか、
というのが問いかけの趣旨であり、答えになっていないのだが、
この意見はある意味、人々の意識の現状をよく表している。

すなわち、ごみが目の前から無くなればいいのである。
その後のことは、知ったこっちゃないのである。
穴に投げ込んだごみは、結局全部自分の上に降りかかってくるのに。

リサイクルは最後の手段

この「どうしたらごみを減らせるか」で必ず出てくる意見が「リサイクルする」である。
なので、「リサイクルする」という意見が出てくるという前提で
出前授業のプログラムを作っている。

みんなが分別して出した新聞紙は、リサイクルされ、
パッとノートになるだろうか?ならないよね。
新聞紙は製紙工場に運ばれ、工場の中で一旦溶かされ、インクを抜くなどして再生紙が作られる。
再生紙は、メーカーの工場に運ばれ、工場の中でノートが作られる。

工場の機械は電気や重油で動く。
エネルギーを使うんだ。
工場だけじゃない、工場に運ぶためには車が必要だ。
ここでもエネルギーを使うんだ。リサイクルには手間とお金とエネルギーが必要なんだ。

もし、新聞紙から再生紙を作るのに必要なお金とエネルギーが、
本来の紙の作り方である木から紙を作るのに必要なお金とエネルギーを上回っていたら、
そのリサイクルは意味があるのだろうか?
そう、ライフサイクルアセスメント(ライフサイクルコスト)の考え方である。
今だけを見ていてはだめだ。
今までと、これからをあわせて見ないと、本質を見失ってしまう。
実は、リサイクルは収集・運搬のコストが大きく、
費用的にはあわないものが少なくないと言われている(特にプラスチックは)。

電気自動車はCO2を出さないって!?
走っている時はね。
充電したその電気はどうやって作ったの?
石油を燃やして作っているんじゃないの?

リサイクルは、どうにもならないときの最後の手段。
まずは、ごみを出さない「リデュース」。
出前授業の後、「リサイクルはとてもいいことで、リサイクルすればいいのかと思っていました。
とても勉強になりました」と担任の先生が言うのである。

ばかばかしく、むなしいこと

ごみについての有名なワークショップに「ごみって何?」というものがある。
これは、ファシリテーターが具体的なお題をあげ、
それはごみか、ごみではないか、なぜそう考えるのか、
参加者に話し合ってもらうというプログラムである。
具体的なお題とは、例えば以下のようなものである。

ごみ箱に入れられた新聞・ごみ箱から拾われたきれいな新聞
道路に放置されたネコの死体・道路脇のダンボールに入れられていた子ネコ
道路に落ちていた1円玉・ごみステーションに置かれていた100万円 など

このプログラムを進めていくと、
結局、その人がもういらないと思ったら、それはごみになることに行き着く。
逆にいえば、まだ使えるとか、もったいないとか、
必要だと思えば、それはごみにはならないのである。
ごみと、ごみでないものとの境界が曖昧なのは、
ごみは、ごみになる前は資源からできた必要な製品だったからである。
ごみは、資源からできているのである!

平成25年版環境・循環型社会・生物多様性白書(環境省)によれば、
平成23年度におけるごみ処理に係る経費の総額は、1兆7,904億円であり、
国民1人当たりに換算すると、1万4,100円となっている。
人口120万の広島市であれば、年間168億円もごみ処理に費やしていることになる。

考えてもみてほしい。
お金をかけて資源(からできているごみ)を処理しているのである。
こんな馬鹿な話はない。

何十億、場合によっては百億を超えるお金でごみ焼却場や最終処分場を建設し、
それを年間何十億もかけて維持管理している。
そして、それらのお金はみんな私たちの税金である。
私たちは何と無駄で、ばかげたことをしているのだろう。
お金をかけて作ったものを、お金をかけて処理している。

昔の刑罰で、今日は穴を掘って、明日はその穴を埋めるということを
毎日毎日続けるというものがあったそうである。
肉体的にもつらいけど、精神的にとてもつらいだろうなあ。
自分のやっていることは何の役にも立たず、何の意味もない。
私たちのやっていることは、まさにそれと同じじゃないか。

誰のお金で誰のごみを処理しているのか、そもそもそれは必要なことなのか、
などと考えると、ばかばかしくなり、むなしさがこみあげてくる。

余談だが、排出抑制につなげるために、
ごみ処理を有料化して手数料を徴収する自治体もある。
一見、誘導施策としてよいことのように思われるが、冷静に考えてほしい。
上に述べたように、私たちは地方税(住民税)と国税(補助金、交付金)として、
ごみ処理に1人年間1万4,100円既に払っているのである。
手数料の徴収は税の二重取りではないか。

もったいない

小生が子供の頃、いろいろなパックやトレイはなかった。
そもそも買い物に行くときは買い物かごをさげて行き、
全てばら売りで物を買い、買い物かごに入れた。
肉屋では買った肉は竹の皮に包んでくれた。
魚屋では、今のように切り身というものはなく、
従ってトレイに入れる必要がなく、基本的に丸のまま買ってきた。
豆腐は豆腐屋にどんぶりを持って買いに行ったし、
お好み焼きはお好み焼き屋に皿を持って買いに行った。
行商のワラビもちは、竹の皮を丸めた容器に入れてくれた。
卵だけは、どうやって売っていて、どうやって持って帰ったか覚えていない。

容器包装がないから、ごみが出ないんだ。
昔から日本では、周りにある木や草で物を包んでいたんだ。
竹の皮や笹の葉、竹や藁で編んだもの。

そうことからいえば、俵というものは最高にすごい。
なにせ、稲の実を稲の茎と葉で編んだもので包んであるんだから。
稲は捨てるところはない。
これぞまさにゼロエミッションではないか。

たとえば、藁を編んで俵を作る。竹を割ってかごを作る。
それを作るのに一体どのくらいの時間と手間がかかったのだろう。
農閑期の夜なべ仕事とはいえ、
俵一俵作るのにどのくらい多くの時間を費やしたことだろう。

であるならば、作られたものは粗末にはできない。
作った人の時間と手間と思いが詰まっているからだ。
捨てるなどということは、及びもつかない。
形がなくなり使えなくなるまで使い切る。

「もったいない」とは「勿体ない」であり、
「勿体」とは「物体」すなわち「物が本来持っている姿」である。
而して「もったいない」とは「物が本来持っている姿が失われた」ことであり、
それはすなわち、それを惜しみ、嘆く気持ちである。

作った人の時間と手間と思いが詰まったものを捨てることは、「もったいない」のである。
軽い気持ちではない。
想いをめぐらし、惜しみ、嘆いているのである。

もう一度想いおこそう、もったいないという想いを。

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これぞ究極の藁のパッケージ「卵つと」。
なんて美しい造形だ。日本の文化はなんて優しいんだ。
(山形まなび館ホームページより)

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