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熊野紀行(その1~山ガールに日本の風景を見た)

熊野古道へ
今年のGWは、長年行きたくて行けなかった熊野古道についに行った。
去年も綿密な計画を立てて準備していたが、直前に連休中日に仕事が入り、涙を飲んで断念した。
今月号と来月号の2回は、熊野紀行にお付き合いいただきたい。

熊野古道とは、和歌山県南部にある熊野本宮大社、熊野新宮大社、熊野速玉大社の3社と京都を結ぶ古道で、世界遺産にも登録されている。
熊野古道には、伊勢を経由するルート(伊勢路)と、大阪を経て和歌山を南下するルート(紀伊路)の大きく2つのルートがある。正確には、あと、高野山から入るルートと、吉野から入るルートがあるが、これは修験道の道である。
紀伊路のうち、田辺から山に分け入り、熊野本宮大社をめざす最も古道の雰囲気が残っているといわれる「中辺路」と、
熊野本宮大社から南進して熊野速玉大社に至る難所続きの山越え「雲取越え」を今回歩いた。
熊野古道地図
田辺→熊野本宮大社→熊野速玉大社で3泊4日の行程です

難行・苦行の道
熊野古道といえば、風情のある石畳の写真をご存知の方も多いと思う。
ああ、こんなところを自然を感じながら歩いてみたいなあ。スギの巨木、苔むした石畳・・・
という場所も少なからずあるのだが、その大部分は大変な悪路である。

木の根が絡まりあっただけの道と呼べない道、石と岩のガレ場、その急坂が延々と何キロも続くのである。
まわりの自然や歴史に浸る余裕もなく、みんな下を向いて足元を見ながらあえいで登るのである。
下りは下りでまた大変である。
こけそうになりながら、登りで酷使したふくらはぎと太ももはへろへろで、膝は笑いまくり、太ももはぴくぴく痙攣する。
大門坂
風情のある石畳:大門坂(那智勝浦)

熊野詣でが最初に流行したのは、平安時代から鎌倉時代にかけての院政期である。
後白河上皇は何と34回も行幸している。
このような上皇の行幸は百人以上のパーティーで、高貴な貴族や女院も同行したのである。
宮中で優雅に詩歌・管弦の道に精進していた彼ら、彼女らは、このような道を歩けたのだろうか。

新古今和歌集の選者として有名なかの藤原定家も後鳥羽上皇の熊野詣に随行し、参詣記を遺している。
「終日険岨を超す、いまだかくの如きの事に遇わず、雲取り紫金峰は掌を立つが如し」
(一日中険しい山を延々登っては下り、登っては下り、いまだかつてこのようなひどい目にあったことはないぜ。
特に雲取り越えは、雲にそびえる手のひらを立てたような山々の連続で、もー勘弁してくれー:筆者訳)
熊野本宮大社に着いたときは腹痛にくわえ咳は止まらず尿も出ず、
「心神なきが如し、ほとんど前途遂げがたし」
(わしゃ、もうだめじゃ。もう動けん:筆者訳)という状態であった。

しかし、だ。高貴な彼らは御輿に乗っているのである。
自分で歩いているのではないのだ。(いるんだよねえ、こんなやつ)
彼らの乗った御輿を担いでいる人たちはどうするのだ。
ただ歩くだけでも大変なこの道を、人の乗った御輿を担いで歩いたとは!
歴史を支え、歴史に埋もれていった多くの人たちのことを想う。

「輿の中海の如しと嘆きたり 石を踏む丁のことは伝えず」土屋文明

渓流古道
渓流ではありません。雨の熊野古道です。雨の日はこうなります。この道を登り、下るのです。

日本のランドスケープの変遷-1
中辺路の難所に「蛭降峠」というところがある。
そう、由来はまさに文字どおり。ここは紀州の山の中である。照葉樹林真っ只中である。
昔の人は嫌だっただろうなあ。想像しただけでいやーな気持ちになる。

以前、宮崎に旅行に行って、霧島の麓に宿をとった。外で遊んでいた愚息が真っ青になって飛び込んできた。
足に山ビルが吸い付いている。
宿でスプレー容器に入った食塩水を売っていた。
こんなもん何に使うんかいな、買う人がいるんかいな、と思っていたが、
宿の主人に山ビルを取り除くためのものとその時教えられ、即購入したのは言うまでもない。

で、蛭降峠である。下の写真をご覧いただきたい。これが現在の蛭降峠である。
昼なお暗い鬱蒼とした照葉樹林ではなく、延々と果てしなく続くスギ林である。
こんなに奥行きのあるスギ林は始めて見た。
遠近感が交錯し、なんかエッシャーの絵を見ているような不思議な感覚に包まれる。
山ビルがぽたぽた落ちてくるような森は、いつの頃からこんなスギ林になったのだろう。
今あるスギ自体は、二、三十年生の若いものである。
不思議なスギ林を眺めながら、千年前の潜在自然植生を想った。山ビルに恐れおののく平安貴族を想った。

杉林
ここが山ビルの降る照葉樹林だったなんて

日本のランドスケープの変遷-2
熊野本宮大社はB.C.33年頃に創建されたと伝えられ、以後二千年近くにわたって熊野川、音無川、岩田川の3つの川が合流する熊野川の中洲にあった。
山中の道である中辺路をずっと歩いてくると、伏拝王子で始めて展望が開け、熊野本宮大社が遠望される。
伏拝王子は、やっと熊野本宮大社が見えるところまでたどり着き、感激のあまりそれを伏し拝んだことから名付けられている。
その気持ちは当地に立てばよく分かる。
遠く望む熊野川の中洲に鬱蒼とした森と壮大な建築を認めたときの感動はいかばかりだっただろうか。
でも、それは、今は、ない。

熊野本宮大社は明治22年の大洪水でそのほとんどが流されてしまったのだ。
この洪水は、先年当地を襲った台風と一緒で、上流の十津川で降雨による土砂崩れにより川をせき止める土砂ダムができ、
それが一気に決壊して起こった鉄砲水によるものといわれている。
二千年近くの風雪に耐え、二千年近くにわたり日本人の心のよりどころとなっていたものが、
文明開化による人為により、あっけなく流されてしまったのである。
その原因は、伐開による森林の荒廃によるものであることは想像に難くない。
今は、大斎原(おおゆのはら)といって、中州に日本一の鳥居と後からできた社叢を遺すのみである。

大斎原のほとりに立ち、また、熊野古道の小高い場所から、大斎原を望む。
熊野川の蛇行により熊野の森の中に突如出現するオープンスペース。
一体誰がこの場所を神のいます場所としたのだろうか。
水に囲まれるその空間の中心には、かつて鬱蒼とした原生林があった。
そしてその原生林の中には、かつて厳かに立ち並ぶ多くの社殿があった。
川の中に浮かぶ神の森。そこにたどり着いた誰もが伏し拝む畏敬の森。神の森の中の神々しい社群。
ああ、これが日本の心象風景なんだ。
これが日本の原風景なんだ。
雨に煙る大斎原に日本のランドスケープの原像を見た。

大斎原
雨に煙る大斎原。昔の面影は、今はない

山ガール!
熊野古道ですれ違う人は、圧倒的に女性が多かった。
そう、元ガールも含め、近年流行の「山ガール」である。
どうやら「山ガール」はファッションから入るようである。判で押したように同じようなスタイルである。
おいおい、大丈夫か。カッコはいいけど。
熊野古道は結構きついぜ!御輿に乗っているだけで藤原定家は死にかけたんだぞ。
山ガール
ウェアの色は総じて鮮やかなピンクやブルーなどの原色が多い

小生の父親は地質屋で、小生は子供のときからよく山に連れて行かれた。
山に行くときは、ずっとキャラバンシューズであったが、中年になると
「しっかり土をつかめるけえ、山を歩くのはこれが一番ええ」とか言って、なんと地下足袋を履いて山に行きだした。
父はそれなりの社会的な身分であったが、移動で新幹線に乗るのも地下足袋でおかまいなしであった。

僕は父を尊敬する。
父は、あたりまえのように無言で教えてくれた。

「かたちから入るのではなく、中身から入れ」 と。

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