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信念のある桃太郎になろう

鬼は外?内?

2月といえば、節分である。
節分とは、文字どおり「季節を分ける」ものである。
季節とは、春夏秋冬であり、季節の始まりは、立春、立夏、立秋、立冬である。
最初の季節の始まり、すなわち立春は、一年の始まりであるので、その前日は大晦日である。
すなわち、立春の前日は旧暦の大晦日であり、これがいわゆる「節分」である。

季節の変わり目には邪気が生じる。
一年の最初の季節の変わり目にこの邪気を払う必要がある。
邪気がかたちをもったものが鬼である。
節分に豆をまくのは、「魔滅」である豆で鬼(邪気)を払うためである。

筆者が子供の頃には、節分はどの家でも必ず豆まきをした。
2月3日の夜には、近所のあちこちの家で「おには~そと~、ふくは~うち~」の
子供の声が聞こえたものであるが、近年はとんと聞いたことがない。
もう、そんな風習はなくなったのだろうか
(かく言う我が家でも、小生が世帯主になってから豆まきをやったことがないが)。
九州のある地域では、豆まきに落花生をまくそうである。
これは名案だ。
殻付なので、まいた後、回収して食べることができるではないか。
しかし、年の数ほど食べなきゃいけないから、食べでがあるなあ。
ビールがすすむなあ。
痛風に悪いなあ。

高校時代、学校では有名な鬼塚先生という名物教師がいた。
鬼塚先生のお宅でも「鬼は外・・・」とやったのだろうか。
鬼に関係する社寺では、「鬼は内、福は内」と言うそうである。文字色
黄檗山の高僧の歌に次のようなものがある。

鬼は外 福は内なる 外の鬼 つかまえてみたら 内の鬼なり

鬼は、実は自分の中にいる。
そして鬼は強力である。
もし、自分の中にいる鬼をつかまえ、それを克服して自分のものとしたら、
こんなに強いことはない。
東京雑司が谷の「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な鬼子母神は、
自身は多くの子供をもちながら、他人の子供を食べる夜叉であったが、
釈迦が彼女の最愛の末子を隠し、子を失った母の苦しみを悟らせて帰依させ、
以後は子供と安産の守護神となった。
鬼を取り込み、強力な守護神としたのである。
この入谷の鬼子母神(真源寺)の節分の豆まきでは、「福は内、悪魔外」と言うそうである。
「鬼は内、福は内」。
鬼もどんどんやって来い。
自分のものとしてやるぜ・・・と、いつも強い気持ちでいたい。

20120201-01鬼子母神像
鬼子母神像(鎌倉時代)。
一般的に、鬼子母神像は天女の姿で表され、愛する末子を抱き、ザクロを持つ。
ザクロは見た目から人肉に比喩され、他人の子供を食べるのを止めさせるために
釈迦が代わりに与えたといわれる。


ひどいぜ!桃太郎

で、その鬼についてである。
鬼は昔話の定番である。
一寸法師、大江山の酒呑童子、瘤取り爺さんなど、
鬼が出てくる昔話はたくさんあるが、
鬼の話といえばやはり桃太郎に止めをさすだろう。
桃太郎の話については、
柳田国男の民俗学的解釈や、
吉備の温羅(ウラ)伝説との関連性、
世界に一般的な英雄伝説との共通性など様々な解説があるが、
ポイントはただ一点、
「桃太郎はなぜ鬼を退治しに鬼が島に行ったか」である。
桃太郎の話には、話にもよるが(様々な伝承がある)、
なぜ鬼退治に行くのかがはっきりしていないのである。

福沢諭吉が息子のために毎日一つの話を書き記した「ひゞのをしへ」には、
有名な桃太郎論がある。

「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。
けしからぬことならずや。
たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、
たからのぬしはおになり。
ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、
もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。
もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、
よのなかのさまたげをなせしことあらば、
もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、
はなはだよきことなれども、
たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、
たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。」


桃太郎が鬼が島に行ったのは、宝を奪うためだ。
宝は、鬼が大事にしまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。
持ち主のある宝を理由もなく奪うとは、桃太郎は盗人というべき悪者である。
もし鬼が悪者で、悪事をはたらくのならば、これを懲らしめることは良いことだが、
宝を奪ったのはただ欲のためであり、大変に卑劣である。
と言っているのである。

これを最初に読んだときはぶっ飛んだ。
筆者はこんな話というか、こういうスタンスが大好きである。
こういうことをいう人が大好きである。
かたちだけの常識にとらわれない。
物事の本質を考える。
論理的に考える。
自分の考えに素直。
人に振り回されない。

20120201-02福沢諭吉一万円
大好きな一万円、じゃなくて福沢諭吉さん。
「福翁自伝」読んでない人はぜひ読んでください。
読みやすいよ。
痛快!あの時代にこんな人がいたんだ。

童謡の「桃太郎」はご存知であると思う。
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきび団子、一つわたしに下さいな」のあれである。
実はこの歌、実に恐ろしい歌なのである。
あまり知られていないが、歌詞は6番まである。
そして、歌詞が進むにつれ、だんだん過激になってくるのである。
特に、5番がひどい。
「面白い、面白い、残らず鬼を攻め伏せて、分捕り物をえんやらや」である。
一体、何が「面白い」のか。
虫けらのように鬼を殺すのが「面白い」のか。
そして、鬼は「残らず攻め伏せ」られ・・・すなわち、殲滅、皆殺しである。
挙句の果ては「分捕り物」である。
奪い返したのではなく、戦利品として「分捕った」のである。
何という非情。
何という無慈悲。
まるでプラトーンや地獄の黙示録の世界ではないか。
オリバー・ストーンやコッポラも真っ青である。
この童謡は作詞者不詳となっていることが唯一の幸いである
(作詞者がわかっていたらこのコラムは書けない)。

このように、桃太郎にはいろいろと考えさせられる関連事項が多い。
ついでに桃太郎についてもう一つ書けば、
桃太郎の話は社会的な性のありようについても物議をかもしたことがある。
すなわち、お爺さんは山に柴刈りに行くこと、お婆さんが川に洗濯に行くことが
ジェンダーを固定しているというのである。


信念を持とう

生物学的性別をセックスというのに対し、社会的・文化的性別をジェンダーという。
最近は、いわゆる「オカマ」も市民権を得、
テレビには日常的に様々な種類の「オカマ」があふれ、
小さな子供でさえ、その意味を理解している。
また、性同一性障害という言葉も誰もが知っている言葉となり、
彼ら・彼女らに対する理解も社会的に進んでいるといえる。

生物学的性別とは何だろう。
男性は「子供を産まない性」、女性は「子供を産む性」との定義は非常にわかりやすい。
どんな「オカマ」であろうと、絶対に子供を生むことはない。
しかしながら、生物の世界では、平気で性転換するものがいる。
なにも、タイやモロッコで手術をするのではない。
すぐそこの瀬戸内海でたくさん獲れるベラやチヌ(クロダイ)など、
身近な魚で性転換するものがいる。
雄は小さくても精子を作ればそれでよいが、
雌は産卵しなければならないので体の大きさが問題となってくる。
そこで、小さいうちは雄だが、大きくなれば雌となるという生殖戦略が生まれるのである。
この戦略は利にかなっている。

それでは社会的・文化的性別はどうだろう。
男は外で働き、女は家を守る。
男はズボンをはき、女はスカートをはく。
男は化粧をしないが、女は化粧をする。
男は徴兵されるが、女は徴兵されない・・・が、
最近は男も化粧し、女もズボンをはく。
警察官にも自衛官にも女性はいる。
しかし、キリストもブッダもモハメドもゼウスもみんな男だった・・・が、
アマテラスは女だった。
「元始、女性は太陽だった」と書いたのは平塚らいてうであった。
明治44年のことである。
らいてうはその後、市川房枝らと新婦人協会を設立し、
戦後は野上弥栄子らと新日本婦人の会を結成し、
終生婦人運動に身をささげて昭和45年に85歳で没した。
男尊女卑の日本。
その一生は社会からの圧力の連続だったことは想像に難くない。
しかし、その信念はずっと変わらなかった。

平塚らいてう
平塚らいてう(出典:ウィキペディア)

近年、世の中の言葉が軽い。
大局観なき損得勘定。
井の中の蛙なのにお山の大将。
他人を攻撃して自分の身を守る。
高飛車な「ヒラメ」・・・信念を持つ人が少ない。
信念は、経てきた経験に裏打ちされるものである。
単に齢を重ねただけでは信念の年輪を重ねることはできない。
信念を持つ人は、自分自身のことは言葉で語らない。
日々の行動で、背中で語るのである。
希望が持てるのは、人は誰でもそのことを無意識に知っているのである。
「苦しいときは私の背中を見て」とは実際はなかなか言えない言葉である。
最初はちっぽけなものでいい。
自分がこれと思う信念を持とう。
そしてそれを少しずつ重ねていこう。
自分の中で。


お礼
実は、「えこらむ」は2011年2月号が第1回で、
すなわち本号は記念すべき1周年年記念号なのである。
第1回は、「大きな良い実を食べよう」と題し、
絶滅した鳥ドードーの話から、因果応報のお話をした
(よろしかったら振り返って読んでいただければ幸いである)。
「えこらむ」は「話が長い」とのお叱りもいただいているが、
拍手していただいた方には感謝、感謝である。
今後とも、どうかお付き合いいただければ、コラムニストとしてこれに勝る喜びはない。
20120201-04お礼

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