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ボヘミアン・ラプソディ(2019.2)

愚息からの伝言

先日、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の興行収入が、
今年度唯一100億円を超えたことが報道された。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、小生も見に行って衝撃を受けた。

そもそもは、バンドをやっている大学生の愚息が、
「自分は感動して2回も見た。母さんも是非見に行ったほうがいい」と言ったというので、
夫婦で見に行ったのだ。
高校の同級生をはじめ多くの友人が、SNSで「泣けた」「感動した」と言っているが、
小生も全く同感である。

エイズで亡くなるフレディー・マーキュリーを主人公にその葛藤とバンドの成長を描き、
ストーリーの最後の山場を大規模野外コンサートの「ライブ・エイド」にもっていく。
このライブ・エイドのシーンが圧巻で、圧倒的な迫力と訴求力で迫って来る。

小生から言わせれば、
最初から最後まで早弾きやラウドな一本調子の「動」ばかりのヘビメタ系をやっている愚息が、
ボヘミアン・ラプソディという懐メロ・ロックに興味を示し、
そして、ボヘミアン・ラプソディのようなバラードから入る曲に心を動かされたということが、
少しの驚きとともに、嬉しかった。
ロックという音楽が、歴史を積み重ねるようになったんだなと思った。

あの頃

クイーンがボヘミアン・ラプソディを発表したのは1975年(昭和50年)、
ライブ・エイドが1985年(昭和60年)である。
昭和50年はカープが初優勝した年で、小生が高校を卒業した翌年である。
昭和60年はバブル経済の真っただ中で、小生は狂乱の東京にいた。

1970年代は、まさにロックが極まった時代で、
ディープ・パープルからレッド・ツェッペリンで頂点を迎え、
その後、ロックはメタルやパンク、プログレに分化していった(と小生は考えている)。

今も昔も、ロックバンドと言えばリードギターに注目が集まるが、
小生はロックバンドの訴求力はボーカルが持つと強く思っている。

当時のロックのボーカルと言えば、
ディープ・パープルのイアン・ギランとクイーンのフレディー・マーキュリーが双璧で、
(と小生は考えている)
絶叫型のイアン・ギランに対し、フレディー・マーキュリーは音域が広く、高音が伸びた。

しかし、当時のクイーンの印象は、
ブリティッシュ・ロックのロック・オペラというステレオタイプな認識しかなかった。
ボヘミアン・ラプソディは、出だしは抒情的だが、
突然早回しのテープのようなオペラ(と称するもの)が始まり、
ギンギンのハード・ロックになだれ込む、よーわからん曲という記憶だ。

しかし、今回映画を見て、ボヘミアン・ラプソディを何十年ぶりかに聞いてみて、
とても印象深いよく作られた曲だと感じた。
これは、映画の持つ威力だ。

売れないバンドが車を売ってスタジオを手に入れ、
そこで常識外れのダビングを重ねてボヘミアン・ラプソディを完成させる。
6分超という長尺の曲はレコード会社に拒絶されるが、
知り合いのDJのラジオ放送から火が付き大ヒットとなる。
その辺の経緯を映画は事細かく語る。

ガールフレンドとの別れ、同性愛、そしてエイズ感染・・・
やがてビックになった彼らから、フレディー・マーキュリーは一本釣されそうになり、
彼らの間には隙間風が吹き始める。
だが、ライブ・エイドがそれを救う。

そして、ハイライトのライブ・エイドでのボヘミアン・ラプソディになだれこむ。
うねるようなライブの熱気がそのまま直撃する。
これは、作られた映画なのに。
そして、みんな知っているのだ。
その後、フレディー・マーキュリーがどうなったかを。
鼻の奥がツンとする。
不覚にも・・・

歴史は少しずつ創られる

フレディー・マーキュリーは45歳で亡くなってしまったけど、
クイーンのギタリストのブライアン・メイはまだ現役である。
先のイアン・ギランもまだ現役である。

ポール・マッカートニーは昨年秋に日本公演を行ったし、
リンゴ・スターは来月、広島にもやって来る。
不良老人の典型のミック・ジャガーは、73歳にして子供を作った。
みんな70代の老人である。

しかるに、わが国のミュージシャンはどうか。
わが国でのロックの歩みは、グループサウンズの歩みである。
しかるに、当時のグループサウンズのメンバーで、
今も(芸能活動ではなく)音楽活動をしている人はいるだろうか。
あえて挙げれば、沢田研二ぐらいだろうか。

わが国の高齢のミュージシャンといえば、84歳の小澤征爾、82歳の北島三郎あたりが筆頭だろう。
残念ながら、いわゆるJ-POPには見当たらない。
「芸能界」という業界が、わが国ではまだ上滑りで、
ミュージシャンとして十分根を張っていなかったのだと思う。

しかし、シンガーソングライターの出現により「歌謡曲」というカテゴリーが溶解し、
ここ半世紀は様々なかたちが生まれているように思う。
それを積み重ねていくことにより、ライブ・エイドのような伝説や絵になるシーンが生まれ、
少しずつ歴史が創られていくのだろう。

琴線に触れる

映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、見終わった後、何か心に少し痛みのある傷のようなものを残す。
それは、苦しいものではないのだが、せつなさを伴ってじわっと感じてくる。
見終わった後、これと同じような感覚を持たせるのが「この世界の片隅に」である。
小生の知り合いがそれを「低温やけど」と言ったが、まさに言い得て妙である。

何かの事象が起きて明らかな傷ができたのではなく、
全体の結果として、じわじわと感傷的な痛みがしみじみと心に広がるのである。
その痛みは普段は感じないことが多いが、ふとしたことで現れて、しみるのである。
そういうものは、心に残る。

「琴線に触れる」とは、そういうことなのだろう。

| コラム | 17:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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希望ある未来であってほしい(2019.1)

昭和から平成へ

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

約30年続いた平成が終わる。
私事で恐縮だが、
平成という時代の始まりは、小生の人生にとってひとつの大きな区切りだった。
勤めていた東京の会社を辞め、
学生時代を含めて12年間過ごした首都圏の生活に別れを告げ、
意を決して郷里の広島に帰ってきたのは昭和63年の12月だった。
しばらくはゆっくりしようと実家でのんびりしている時に聞いたのが、
昭和64年1月7日の昭和天皇の崩御だった。
そして、平成が始まった。
故郷の広島での、今の会社での新しい生活が始まった。

ふり返れば、60余年にわたった昭和という時代に、
戦争は経験せず、
高度成長期からバブルに至る後半だけを経験した僕たちの世代は幸せ者だったと思う。
前の東京オリンピックも大阪万博も、その熱い熱気と共にはっきり覚えている。

ところで、昭和という年号には忘れられない年がある。
昭和○○年という字面が僕の心にイメージとして刻み込まれている年がある。
それは、昭和32年と昭和50年である。
前者は小生の誕生年、後者はカープの初優勝の年である。

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忘れもしない昭和50年10月15日の後楽園。グランドになだれ込むファン。覆いかぶさるシェーン。感動のあまりテレビ画面を写したカメラもブレまくり。

平成という時代

翻って、平成である。
平成にはこのように字面が僕の心にイメージとして刻み込まれている年はない。
では、平成には大きな出来事がなかったかというと、そうではない。
そして、平成でのキーワードの数字は、平成ではなく西暦での「1」である。

小生が思う平成での最も大きな出来事は、
アメリカ同時多発テロと原発事故を含む東日本大震災である。
発生した日付から、前者は「9.11」、後者は「3.11」と呼ばれる。
前者は2001年(平成13年)、後者は2011年(平成23年)のことである。
西暦でいうと01年もしくは11年の奇しくも11日なのである。

アメリカ同時多発テロは、航空機が超高層ビルに激突するという
信じられないような映像とともに全世界に大きな衝撃を与えた。
そしてそれは、その後のアフガニスタン紛争、イラク戦争につながった。
そしてイラク戦争は、
中東各地で長期的独裁政権が次々に崩壊する民主化運動「アラブの春」につながった。
しかし、「アラブの春」は中東各地で大きな混乱を招き、
それはさらにリビアやシリアの内戦やISの台頭を招き、
後ろ盾となっているアメリカやロシアを巻き込んで、今も混乱が続いている。

東日本大震災も、たくさんの街が燃えながら津波に流され、原子力発電所が爆発するという、
これも信じられないような映像とともに大きな衝撃を与えた。
そしてそれは、直後の首都圏の計画停電と共に、FITや電力自由化の流れの中で、
国のエネルギー政策の根本的な見直しを促すこととなった。
さらに、そのような中でパリ協定が締結され、
社会の中で環境を基盤とした新たな価値観や概念がさらに大きな広がりを見せることとなった。

技術革新の時代・平成

平成という時代は、技術革新が加速度的にスピードアップしはじめた時代だと思う。
例えば平成が始まった頃、会社との連絡はポケベルで、
ポケベルが鳴れば公衆電話を探してテレホンカードで電話をかけた。

大きな会社の連中と一緒に仕事をすると、彼らは携帯電話というものを持っていて驚いた。
しかし、その頃の携帯電話はトランシーバーのような質感を持つ大きなもので、
それを彼らは専用のベルトで腰にぶら下げていた。
それがいわゆるガラケーとなり、あっという間にスマホになった。
この間、10年ぐらいだったんじゃないかな。

その背景としてWeb…すなわちサイバー空間…それはもう社会インフラである…
の誕生と発展がある。
インターネットというものができてからあっという間だった。
しかし、この見えないサイバー空間というものは、
全世界のみんなが加害者であると同時に被害者でもある地球温暖化と一緒で、
主体があいまいだが、社会を破壊することが可能なとてつもない力を秘めている。
宇宙空間の支配、情報通信網の攪乱、AI搭載の殺人マシン、AI認証による監視社会などなど…
とても恐ろしいことだ。と思うのである。

不機嫌な未来

正月は、やっと歩けるようになり、
人の言うことが分かってリアクションするようになった1歳の初孫を相手に、
一家でなごやかな時間を過ごすことができた。
ちっちゃな手を顔(目ではない)に当て、「いないいないばあ」をしたり、
自分が何かうまくできたら、ちっちゃな手をパチパチする一つひとつのかわいいしぐさに、
おばあちゃんである妻は声をあげて笑い、喜ぶ。
僕も、笑い、喜ぶ。

が、そんな無邪気な孫を見ながら僕は思うのである。
幸あれと。
大きくなってからも、幸あれと。

この子が社会人になるのは、あと20年後。2040年頃である。
その頃の日本の姿を皆さんは想像したことがあるだろうか。
平成29年版高齢社会白書(内閣府)によれば、
高齢者人口は増加が続き、2042年に3,935万人でピークを迎えてその後は減少に転じるが、
高齢化率は上昇を続け、
この子が社会の中核を担うようになる40数年後の2065年には38.4%に達して、
国民の約2.6人に1人が65歳以上の高齢者となる社会が到来する。
その社会は、人口は8,808万人まで落ち込み、
現役世代1.3人で1人の高齢者を支えるというとんでもない社会である。

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資料:内閣府.平成29年版高齢社会白書

このような社会を皆さん想像できますか?
近未来では、AI搭載ロボットが人間の多くの仕事を担うというが、
例えば複雑な感情を持つ生身の人間の心身のケアや介護など
人と人との触れ合いが求められる仕事は無理だろう。
国内の労働力に限りがあるのはもうわかっているのだから、
今、いろいろと手を打っておかなくてはならないんじゃないか。

この子たちの未来が、僕は、とてもとても心配なのである。
どうか、この子たちに幸あれ。

| コラム | 16:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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目のつけどころ(2018.12)

「物を運ぶ」ということ

何が好きかって、ビールが好きだ。365日飲む。
いつも大瓶2ケース買って常備している。
底をついたので、酒屋に買いに行ったのだ。

いつもの一番搾りを頼むと、在庫がないと言う。
他のものでもいいかと言うので、黒ラベルとスーパードライを買って帰った。
晩飯を作り、いつものようにビールの栓を抜き、コップに注ぐ。
何かいつもと違うのである。

何が違うのかと考えたら、重いのである。
瓶が、重いのである。
改めて瓶を眺めてみると、厚ぼったい感じがする。
一番搾りはもっとスリムな感じだった。

ネットで調べてみると、どのビール会社も軽量化を図っているのだが、
キリンは最も軽量化が進んでいる。
瓶の肉厚は半分となり、大瓶で130g、約20%も軽量化されている。
これはすごいことだ。1ケース(20本)で2.6kgだ。

何が言いたいかと言うと、
瓶の原料が少なくて済むということより、運搬の負荷が少ないということだ。
それだけ燃料が、即ちCO2の排出量が削減されることになる。
キリンによれば、瓶の軽量化により、
製造・物流工程のCO2排出量が年間約930t削減されるそうだ。
環境負荷低減の切り口は様々なところにある。

日経エコロジーが「エコ&社会貢献商品ランキング」というインターネット調査を行っている。
2013年に行われた第4回調査の1位と2位はどちらも電気自動車で、
それぞれプリウスとリーフであるが、3位に飲料が入っている。
日本コカ・コーラの「い・ろ・は・す」である。

「い・ろ・は・す」は、ご承知のとおり、飲んだ後のボトルをくしゃくしゃと「絞る」ことができる。
これを面白いとかストレス解消とかという人もいるかもしれないが、
ペットボトルを圧縮できるということはすごいことなのだ。

製品の省エネやCO2削減というと、製造や使用の状況にまず気持ちが向くが、
必ず存在する「運搬」という工程にも目を向ける必要がある。
使用後のペットボトルの運搬は、よく「空気を運んでいる」と言われ、
LCA(ライフサイクルアセスメント)上の最大の課題だった。

しかし、容器としてある程度の強度が必要なペットボトルを
消費者が減容(圧縮)するなどということは無理なことで、誰もはなから考えもしなかった。
その常識にとらわれず、技術革新を図り、実現したことは称賛に値する。
ペットボトルを「絞る」ことは、環境負荷の低減につながるのだ。

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「い・ろ・は・す」は、「LOHAS」を掛けてある。「I(am)LOHAS」…「私はLOHAS」なのだ。(資料:日本コカ・コーラ株式会社)

「洗濯する」ということ

上記調査で毎回上位にあがってくる商品がある。
6位の花王の「アタックNeo」である。
なぜかというと、「アタックNeo」のウリは「すすぎ1回」である。

すすぎを2回から1回にすると、1回の洗濯で使用する水の量は28リットル、
電力は15kWh、CO2はトータルで約22%削減されるそうである(花王資料)。
製品そのものではなく、
洗濯の際に使われる「水」に着目したところがコロンブスの卵であり、秀逸である。

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今は「『ウルトラ』アタックNeo」だ。(資料:花王ホームページ)

洗濯といえば、洗濯板が密かなブームであるのをご存知だろうか。
いえいえ、熱心な環境活動家が電力に頼らない生活をしているわけではないのだ。
洗濯機に洗濯物を放り込んで洗濯してもなかなか落ちない汚れ、
即ち、食物や飲料の染みや襟元などの部分的な汚れを
ちょこちょこっと落とすのに使われているそうだ。

従って、昔のようにタライに大きな洗濯板なのではなく、洗面器に小さな洗濯板なのである。
これは便利だ。
しかし、そんな洗濯板あるんかいな。
それがあるのである。

高知の「とさこや」の「土佐龍」サクラの洗濯板である。
サイズはSからXLまであるが、120×260mmのSが秀逸である。
これはいい。
美しいし、気持ちがいい。
LOHASな生活は、身近な小さなできることから始めたい。

そして、常識に縛られず、
「こんなのあったらいいな」から自由に発想できる人間でありたい。

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水に強いサクラ材の洗濯板の大と小。
生地を傷めず、かつ汚れを落とす溝の独特のカーブが美しい。
(資料:とさこやホームページ)

| コラム | 10:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「誰ひとり取り残さない」ために(2018.11)

SDGs

国の第五次環境基本計画(案)が今年2月に発表された。
今回の環境基本計画のキーワードは「環境・経済・社会」である。
我が国が抱える環境・経済・社会の課題は相互に連関・複雑化しており、
環境・経済・社会の統合的向上が求められるというコンセプトの基に計画が構築されている。

「環境・経済・社会」といえば、
企業の持続可能な発展のためには、経済面に加え、社会面、環境面にも配慮が必要であるという
「トリプルボトムライン」がまず思い出される。
また、企業を非財務面から評価する尺度の
「ESG」(Environment:環境・Social:社会・Governance:企業統治)も思い出される。

さらに、2015年9月の国連サミットで採択された国際目標
「SDGs」(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)
―持続可能な世界を実現するための17のゴール―は、
当然のごとく今回の計画の重要な背景となっている。

地球上の誰一人として取り残さないことを誓うSDGsでは、環境に係る課題だけでなく、
「貧困の撲滅」や「国内と国家間の不平等の是正」など、経済・社会に係る課題も設定されており、
まさに環境・経済・社会は一体的に考えていかなければならないことを示している。

ここに来てやっとわが国でもSDGsがいろいろなところで話題になり始めた。
外務省はあのピコ太郎を起用して
PPAP(ペン・パイナッポー・アッポー・ペン)の替え歌のPR動画を作成し、
YouTubeにアップしたほか、
昨年の7月には国連本部で行なわれた日本政府主催のレセプションでは、
本人が登場して替え歌を披露した。

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SDGs 世界を支えるための17の目標(資料:国際連合広報センター)

SDGsの理念は、「誰ひとり取り残さない」である。
これを最初に見た時は驚いた。
これはとてつもなく崇高かつ困難な理念である。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉を思い出す。
この言葉は、フランスの作家デュマの「三銃士」が出典といわれるが、
僕は宮沢賢治の次の言葉を思い出す。

 「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

コスモポリタン賢治

賢治のこの言葉は、彼の著作「農民芸術概論綱要」の中にある言葉である。
実は、この言葉の3行後に、同様に重要な言葉がある。
次の言葉である。

 「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」

なんとグローバルな、コスモポリタンな、エコロジカルな言葉だろう。
The Earth!
地球全体でひとつに、もっと言えば、ひとつの生態系
…閉ざされた系として考えていこうと言っているのである。
まさに、宇宙船地球号だ。

SDGsに至る道のりをふりかえれば、
それは1972年に発表されたローマクラブの「成長の限界」に始まる。
ここで初めて環境容量の側面から地球環境問題が現実の問題として明らかにされたのだ。
それは1992年の地球サミットにつながり、
ここでSDGsのコア概念である「SD(持続可能な開発)」という言葉が生まれ、
以後、地球温暖化防止を中心に地球環境問題はグローバルな基本課題となった。

人間が地球環境に与えている負荷「エコロジカル・フットプリント」を指標にすれば、
もし、世界中の人が日本人と同じ生活をしたとしたら、地球が2.9個必要になるのだ。
今の生活をする限り、地球は既に定員オーバーなのだ。

賢治が「農民芸術概論綱要」を書いたのは、今を去る90年前の1926年(大正15年)のことである。
地球の環境容量などという概念は、当時には、彼には当然なかっただろうが、
彼の理想郷「イーハトーヴ」に向かう直感として、かけがえのないひとつの系として、
グローバルに、エコロジカルにこの世界…地球をとらえていたのだと思う。

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エコロジカル・フットプリント。
もし、世界中の人が日本人と同じ生活をしたとしたら、地球は2.9個必要になるのだ。
世界の人口は、アジアを中心に今後さらに増加していく。地球はどうなるのだろう・・・
(「日本のエコロジカル・フットプリント2017」(WWFジャパン)より)

「誰ひとり取り残さない」ために

しかし、「誰ひとり取り残さない」という理念はあまりにも気高すぎる、と思うのである。
児童虐待、母子家庭、引きこもり、LGBT、障がい者、高齢者、介護、難病
・・・ありとあらゆる貧困や差別がGDP世界第3位の日本でさえあふれかえっている。
理想は高いが、どうするのだ。
どうすればいいのだ。

賢治に戻ろう。童話「ポラーノの広場」に次のような一節がある。

 「ぼくはきっとできると思う。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから」

 「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。(中略)けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」

SDGsが打ち出されて、17の目標に対し、社会の各方面で
「私たちは〇の目標に対してこうする」「わが社は〇の目標に対してこれに取り組む」
という様々な声があがりつつある。
山は動き出しつつあるのだ。少しずつではあるが。

私たちはきっとできると思う。
なぜなら、「誰ひとり取り残さない」ことを今考えているのだから。
みんなの幸になるということは分かっているのだから。

どうしたらそれができるか、もっと考えてよう。
みんなで考えれば、私たちはきっとできると思う。

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気持ちよくない未来(2018.10)

器具のON・OFF

普段何気なく使っている言葉に、ふと気づいたんだ。
ちょっとおかしいよね。
でも今更どうにもならないよね。
これからどうなるんだろうね。

例えば、「チャンネルを回す」だ。「ダイヤルを回す」も同様だ。
今時、チャンネルを回すテレビやダイヤルを回す電話があるだろうか。
しかし、「チャンネルを押す」とか「ダイヤルを押す」とは言わない。
「チャンネルを変える」か「電話をかける」だ。

しかし、「チンする」は最初から「チンする」で、
「電子レンジにかける」とか「電子レンジをつける」とは言わない。
どうやら家電製品とそれを使う時の動詞には、決まったグループがあるようだ。

「ON」については、複数の言い方にまたがるものもあるが、次のように分類できる。
 【つける】ライト、テレビ、パソコン、炊飯器、ストーブ、電子ポット
 【かける】掃除機、アイロン、ドライヤー、ミキサー、ラジオ、オーディオ
 【いれる】こたつ、冷房・暖房
 【まわす】洗濯機、換気扇

「つける」は光や熱が出るもの、
「かける」は動作を伴うものや音が出るもの、
「まわす」は文字通り回転するものだ。

「OFF」については、「消す」と「切る」のどちらもつかうものが多いが、
どちらかを主に使うものもある。
 【消 す】ライト、テレビ、ストーブ
 【切 る】炊飯器、冷房・暖房、
 【止める】洗濯機、換気扇

新しい独裁者

iPhone XS Maxが発売された。
先日、官房長官が電話料金について「4割程度下げる余地がある」と語ったスマホは?
スマホのON・OFFはなんていうんだろう。
「つける」「いれる」じゃないよね。
「消す」「切る」もなんか違うような気がする。

電話する時は「スマホをかける」
写真を撮る時は「スマホで撮る」
ゲームをするときは「スマホでやる」
ググる時は「スマホで探す」
テレビや動画は「スマホで見る」
ラジオや音楽は「スマホで聴く」だ。
(ちなみに、僕は未だにガラケーだ)

CDが売れなくなったそうだ。
音楽は今やネット配信の時代なのだ。
と考えてみると、改めてスマホの特異性が認識される。
スマホは、電話であり、カメラであり、ゲーム機であり、パソコンであり、
テレビ・ラジオであり、レコーダーであるのだ。

まだまだある。
お財布であり、ナビゲーションであり、家電のコントローラーであり、万歩計であり・・・
ほんの10年前は考えられなかったことだ。
ICTやIoTの情報社会の中で、
スマホはウェアラブル化が進み、ますますその機能を高めていくだろう。

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スマホは、電話であり、カメラであり、ゲーム機であり、パソコンであり、テレビ・ラジオであり、レコーダーであるのだ。

頭文字をとって「GAFA」と呼ばれるアメリカ巨大IT企業、
すなわち、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンは、
独占的に世界市場を支配しているといわれはじめている。

ほんの10年前、
どんな場所でも建物の状況がわかるような写真が見られ、
スマホでのNHKの受信料が問題になり、新聞やテレビより情報を拡散させ、
こんな小物が毎日宅配便で届くような社会を誰が想像しただろうか。

その便利さの裏側で、
僕たちがそれらを使った足跡は知らないうちにビッグデータとして蓄積され、
スマホやパソコンには見知らぬ広告が次々と現れる。

街には監視カメラがあふれ、GPSでどこまでも追跡される。
そしてさらに、AIにより、人間には不可能なスピードと能力で様々なことが決断・実行される。

実態がなく、とらえどころのない大きなものによる、誰も逃れられない恐るべき監視社会である。
それは世界中に網の目のように自己増殖したWebのように、
責任者も、コントロールする人も存在しない。

人間の機械化がもたらすもの

新聞に「機械化する人間」という記事があった。
人間の体の一部が機械になっていくという話だ。
早い話が、平たく言えば、サイボーグだ。

分かりやすい例は、義手や義足だ。
義手や義足のうち、失われた手や足の形を作って装着するものを「装飾義手(足)」というそうだ。
というか、小生はそれが義手(足)だと思っていた。
が、最近は「筋電義手」というものがあるそうである。

これは残された手の筋肉の電気信号を介して装着者が意識的に「動かせる義手」だ。
まさに人間の体の一部が機械になったというか、機械で補助するというものだ。
機械で補助するといえば、
最近では介護や農作業などで重いものを持ち上げるのを補助する
パワースーツのような装着機械がある。

これらは機械の力を借りて、できなかったことができるようになるということである。
しかし、「機械の力を借りて、できなかったことができるようになる」ということは、
そんなに特殊なことじゃない。
手や足の機能や力についてのことだけじゃない。

たとえば、VRで見えないものを見ること、
SNSで瞬時に世界と話すこと、
AIを使って瞬時に答えを出すこと、
これらはみんな「機械の力を借りて、できなかったことができるようになる」ということだ。
「人間の機械化」は、サイボーグ的な見た目のフィジカルな部分より、
具体的に見えない五感の部分から進んでいる。

いや、それは、「浸食」されているという言葉の方が近いのではないか。
僕は、漠然とした、何かいや~な感じがするのである。
それは、キラーマシーン(殺人兵器)をイメージさせる、いや~な感じがするのである。

アナログを生きる

一昨年、実家に引越し、実家と自分の家のものの整理をした。
今の言葉でいえば、いわゆるAV、自分の持ち物でそれなりの量があるのは分かっていたが、
今となってはもうほとんど使うすべがないのだが、捨てられない。
それは、カセットテープ、ビデオ、そしてゲームソフト、テレホンカードだ。

高校生の頃からダビングしてとりためたものや大学のクラブの定期演奏会のカセットテープ。
その一つひとつに思い出が詰まっている。
長男の成長を撮りためたカセットビデオ。
小生の結婚式のビデオはβだ。(と言っても、分からない人が多いんだろうなあ)

ファミコン時代のドラクエ他のゲームのカセットもとても中古屋に売る気にならない。
今はもう子供もいるかつて小さかった息子と妻と親子3人でテレビの前に座り、
主人公の勇者に子供の名前をつけ、
「メラ!」「ギラ!」とやっていたあの頃の思い出が詰まっているから。

残っているテレホンカードはすべて何かの記念品だ。
知り合いの結婚式、自分が設計した公園の竣工式などなど、
唯一無二のものが処分できるだろうか。

引越しの時、一瞬処分しようかと思ったけど、やっぱり手元に残した大量のレコード。
学生の時、お金を貯めては中古屋で買いためたJAZZのレコードだ。
一つひとつのレコードに思い出が詰まっている。
それは自分の青春史であり、自分の音楽史だ。
あのアルバムの、あの曲の、あそこのアルトサックスの入り、あのピアノの出だし・・・
引越しに際し、レコードを処分するどころか、僕は新しいプレーヤーを買ったのだ。

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キースジャレット「ケルンコンサート」のレコードジャケット。
もう、たまらん。

ユーチューバーやインスタ映えがもてはやされている昨今である。
彼らがスマホで撮りためた膨大な画像はどうなったんだろう。どうするんだろう。
僕は、化石と化したカセットテープやカセットビデオを抱えつつ、アナログのレコードに針を落とし、
美しい気持ちで今を過ごしている。

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