なかったことにする(2021.1)
2歳児の超絶技
今は4歳になった孫が、2歳半の頃覚えた技がある。
何かのはずみに突然目を固くつむって下を向くのだ。
そしてしばらくその状態のまま固まっている。
「どうしたの?何やっとるん?」と父親である息子に聞くと、
「なかったことにしとるんよ」と言う。
「?」
「何か嫌なことがあると、あれをやるんよ。
つまり、何か嫌なことがあった時、自分はそれを見てないし、知らないし、
ということを態度で示して、それをなかったことにするんよ」
これはすごい技だ。
始めて見た。
瞬間ワープだ。瞬間タイムマシンかもしれない。
聞けば、最近彼一人で編み出した技だそうだ。
どういうことがきっかけで、こんなすごい技を編み出したんだろう。
いいなあ、起きてしまったことを、なかったことにできるなんて。
それを見て知っているから目をつむるんだろうに、というのは大人の理屈で、
目をつむって見えなくなることで、起きたことを寸断するという気持ちはよく分かる。
本人にすれば、見えなくなって隔絶されているわけだから、もうそれとは関係ないんだ。
うらやましい。
子どもの頃、もし魔法や超能力が使えて、一生に1回だけ時間を止められる、
もしくは瞬時に別の場所にテレポーテーションすることができれば、
どんな時にそれを使うだろうかと一生懸命考えたことがある。
例えば暴漢に襲われて絶体絶命の時。
例えば無実の罪を着せられて死刑になる寸前とか。
時間よ止まれ!と念じて、はるか彼方に脱出するのだ。
ただ、そんな局面は絶対来てほしくないなと思ったところで、
いつも思考中断になってしまうのだ。
吸い込まれる・・・
うまくしたもので、魔法には必ず穴がある。
ディズニー映画の実写版「アラジン」では、主人公のアラジンは王位を狙う悪者の宰相に
どんな願い事も3つだけ叶えてくれる魔法のランプを奪われてしまう。
宰相は魔法のランプに2つの願い事をし、国王の地位を手に入れ、
また、世界で一番強力な魔法使いになった。
今や国王となった彼は、世界で一番強力な存在になるという最後の願い事をする。
するとそのとたん、彼は魔法のランプに吸い込まれてしまう。
ランプに閉じ込められていた魔人は世界で一番強いのである。
世界で一番強力な存在になるという事は、
すなわち、ランプに閉じ込められるということなのである。
そのおかげで、魔法のランプの前の住人の魔人は解放されて自由人となった。
めでたし。めでたし。
入れ物に吸い込まれる魔法というと、西遊記の金角・銀角の瓢箪の話を思い出す。
魔王の兄弟の金角・銀角は、
呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう瓢箪を持っている。
孫悟空は呼びかけられて返事をし、瓢箪の中に吸い込まれてしまうが、
自分の毛で分身を作ってうまく脱出し、逆に瓢箪を奪ってしまう。
瓢箪を奪った孫悟空は金角・銀角に呼びかけ、
逆に彼らは瓢箪に吸い込まれて溶かされてしまうという話だ。
袋状の物の中に生きものを吸い込んで溶かしてしまうイメージは、まさにウツボカズラだ。
ウツボカズラは東南アジア原産だが、
三蔵法師のモデルの玄奘三蔵が歩いたルートはいわゆるシルクロードの中央アジアである。
ウツボカズラとは遭遇するはずもないのだが。
未だ不詳の西遊記の作者が東南アジアに生息する奇異な植物の話を聞いていたのだろうか。

西遊記の金角・銀角の瓢箪はウツボカズラではないかと思うのである。
結界をまたぐということ
古今東西の物語には、穴に吸い込まれる以上に、穴に落ちる話が多い。
すぐ思い出すのが、「おむすびころりん」と「不思議の国のアリス」だ。
穴に落ちる話に共通なのは、吸い込まれる話と違って、半ば自ら進んで穴に落ちることと、
穴の先に不思議な世界が広がっていることだ。
「おむすびころりん」は、おじいさんが落したおむすびが転がって穴の中に入り、
それを追っかけて行ったおじいさんも誤って穴の中に落ちると、
そこにはたくさんのネズミが住んでいて、
おむすびのお礼として財宝が入った箱をくれるという話だ。
それを聞いた悪いおじいさんは自ら穴に落ちて乱暴狼藉を働き、散々な目に遭う。
「不思議の国のアリス」は、服を着て言葉をしゃべるウサギを追っかけていったアリスが穴に落ち、
様々な不思議な世界を経験するという話だ。
結局、穴に落ちるという事は、結界を越えるということなのだ。
結界から先の世界は、普段は人の行くことのできない異界で、
世の中の常識や時間の流れを越えた世界なのだ。
そして、落ちた穴から戻ってくるということは、
結界を越えて別の世界から「この世」に戻ってくるということなのだ。
異界でどんなに長い時間をかけていろいろな経験をしようとも、
それは現実世界ではほんのひと眠りの夢なのだ。
アリスが穴に落ちて経験したすべてのことは、
土手の上で寝ていたつかの間の白昼夢だったのだ。

「不思議の国のアリス」の登場人物とストーリー展開は支離滅裂でハチャメチャだ。
あの変人コンビのティム・バートンとジョニー・ディップが好むはずだ。
「結界」といってまず思い出すのは、映画「フィールド・オブ・ドリームス」である。
ケビン・コスナー演じる主人公が、ある日「それを作れば、彼が来る」という不思議な声を聞き、
トウモロコシ畑をつぶして野球場を作る。
野球場には八百長疑惑で大リーグを永久追放されたシューレス・ジョーなどがやってくるが、
その姿は彼とその家族にしか見えない。
実は、この野球場には、人々の失われた夢を実現させる不思議な力が宿っていたのだ。
そう、叶う事のできなかった現実を「なかったことにする」ことができるのだ。
現実の世界で野球に対する様々な夢を叶えることができなかった人が次々登場し、
最後は主人公とケンカ別れのうちに亡くなった主人公の野球好きの父親が若い頃の姿で現れ、
主人公とキャッチボール始める。
カメラはフィールドからぐっと引いていき、
上空からナイター照明で浮かび上がる野球場とその周辺を写し出す。
照明に照らされた野球場に向かう一本の道には長蛇の車の列の光がどこまでも続く
(夢を叶えることができなかった人がまだ次々とやってきていることを暗示している)
印象的なシーンで終わる。
と、文字でストーリーの概要を書くと何のことはないが、とても感動的な心にしみる映画だ。
ところで、この野球場にいろいろ現れる人はファールラインを越えない。
必ず外野後方のトウモロコシ畑から現れ、去っていく。
ファールラインが死者と生者、夢と現実を隔てる結界になっているのだ。
結界は限られた者しかまたぐことができない。
そして、結界をまたぐということは、こっちの世界とあっちの世界を行き来するということなのだ。
結界をまたいでいった母
亡くなる1年ぐらい前から、施設に入っていた母の言うことがおかしくなってきた。
これまで一度も話したことがなかった父との結婚前後の話。
昔々の話を自分からいろいろ話し出す。
「お父ちゃん(自分の夫)が昨日来たじゃろう」
父はもう20年も前に他界している。
その時の喪主は母である。
「お父ちゃんはもうずいぶん前に死んで、ここに来ることはないよ」と諭すように話しすと、
じっと聞いているのだが、釈然としない様子でいる。
そして、また翌日も同じことを言う。
母は毎日結界を越え、そして時間と空間を越え、
あちら側とこちら側を行き来していたのだと思う。
現実はいつか白昼夢となり、白昼夢はいつか現実となり、両者は交じり合っていったのだ。
そんな母を見ていると、人生はまさに夢だと思う。
自分自身のこれまでの人生を振り返っても、夢のようだ。
あっという間のことだ。
新たな年を迎え、寿ぎたいところだが、コロナは続くよどこまでも。
トンネルをぬけないので、雪国にはなかなかたどりつけない。
うっとうしいマスクを外し、前のようにみんなと楽しくお酒を飲みたいのだけど。
再び盛り上がるコロナ禍の中、
夢を見ながら逝った母の3世代後のひ孫が編み出した超絶技「なかったことにする」の一撃を
コロナのやつにあびせてやりたい。
今は4歳になった孫が、2歳半の頃覚えた技がある。
何かのはずみに突然目を固くつむって下を向くのだ。
そしてしばらくその状態のまま固まっている。
「どうしたの?何やっとるん?」と父親である息子に聞くと、
「なかったことにしとるんよ」と言う。
「?」
「何か嫌なことがあると、あれをやるんよ。
つまり、何か嫌なことがあった時、自分はそれを見てないし、知らないし、
ということを態度で示して、それをなかったことにするんよ」
これはすごい技だ。
始めて見た。
瞬間ワープだ。瞬間タイムマシンかもしれない。
聞けば、最近彼一人で編み出した技だそうだ。
どういうことがきっかけで、こんなすごい技を編み出したんだろう。
いいなあ、起きてしまったことを、なかったことにできるなんて。
それを見て知っているから目をつむるんだろうに、というのは大人の理屈で、
目をつむって見えなくなることで、起きたことを寸断するという気持ちはよく分かる。
本人にすれば、見えなくなって隔絶されているわけだから、もうそれとは関係ないんだ。
うらやましい。
子どもの頃、もし魔法や超能力が使えて、一生に1回だけ時間を止められる、
もしくは瞬時に別の場所にテレポーテーションすることができれば、
どんな時にそれを使うだろうかと一生懸命考えたことがある。
例えば暴漢に襲われて絶体絶命の時。
例えば無実の罪を着せられて死刑になる寸前とか。
時間よ止まれ!と念じて、はるか彼方に脱出するのだ。
ただ、そんな局面は絶対来てほしくないなと思ったところで、
いつも思考中断になってしまうのだ。
吸い込まれる・・・
うまくしたもので、魔法には必ず穴がある。
ディズニー映画の実写版「アラジン」では、主人公のアラジンは王位を狙う悪者の宰相に
どんな願い事も3つだけ叶えてくれる魔法のランプを奪われてしまう。
宰相は魔法のランプに2つの願い事をし、国王の地位を手に入れ、
また、世界で一番強力な魔法使いになった。
今や国王となった彼は、世界で一番強力な存在になるという最後の願い事をする。
するとそのとたん、彼は魔法のランプに吸い込まれてしまう。
ランプに閉じ込められていた魔人は世界で一番強いのである。
世界で一番強力な存在になるという事は、
すなわち、ランプに閉じ込められるということなのである。
そのおかげで、魔法のランプの前の住人の魔人は解放されて自由人となった。
めでたし。めでたし。
入れ物に吸い込まれる魔法というと、西遊記の金角・銀角の瓢箪の話を思い出す。
魔王の兄弟の金角・銀角は、
呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう瓢箪を持っている。
孫悟空は呼びかけられて返事をし、瓢箪の中に吸い込まれてしまうが、
自分の毛で分身を作ってうまく脱出し、逆に瓢箪を奪ってしまう。
瓢箪を奪った孫悟空は金角・銀角に呼びかけ、
逆に彼らは瓢箪に吸い込まれて溶かされてしまうという話だ。
袋状の物の中に生きものを吸い込んで溶かしてしまうイメージは、まさにウツボカズラだ。
ウツボカズラは東南アジア原産だが、
三蔵法師のモデルの玄奘三蔵が歩いたルートはいわゆるシルクロードの中央アジアである。
ウツボカズラとは遭遇するはずもないのだが。
未だ不詳の西遊記の作者が東南アジアに生息する奇異な植物の話を聞いていたのだろうか。

西遊記の金角・銀角の瓢箪はウツボカズラではないかと思うのである。
結界をまたぐということ
古今東西の物語には、穴に吸い込まれる以上に、穴に落ちる話が多い。
すぐ思い出すのが、「おむすびころりん」と「不思議の国のアリス」だ。
穴に落ちる話に共通なのは、吸い込まれる話と違って、半ば自ら進んで穴に落ちることと、
穴の先に不思議な世界が広がっていることだ。
「おむすびころりん」は、おじいさんが落したおむすびが転がって穴の中に入り、
それを追っかけて行ったおじいさんも誤って穴の中に落ちると、
そこにはたくさんのネズミが住んでいて、
おむすびのお礼として財宝が入った箱をくれるという話だ。
それを聞いた悪いおじいさんは自ら穴に落ちて乱暴狼藉を働き、散々な目に遭う。
「不思議の国のアリス」は、服を着て言葉をしゃべるウサギを追っかけていったアリスが穴に落ち、
様々な不思議な世界を経験するという話だ。
結局、穴に落ちるという事は、結界を越えるということなのだ。
結界から先の世界は、普段は人の行くことのできない異界で、
世の中の常識や時間の流れを越えた世界なのだ。
そして、落ちた穴から戻ってくるということは、
結界を越えて別の世界から「この世」に戻ってくるということなのだ。
異界でどんなに長い時間をかけていろいろな経験をしようとも、
それは現実世界ではほんのひと眠りの夢なのだ。
アリスが穴に落ちて経験したすべてのことは、
土手の上で寝ていたつかの間の白昼夢だったのだ。

「不思議の国のアリス」の登場人物とストーリー展開は支離滅裂でハチャメチャだ。
あの変人コンビのティム・バートンとジョニー・ディップが好むはずだ。
「結界」といってまず思い出すのは、映画「フィールド・オブ・ドリームス」である。
ケビン・コスナー演じる主人公が、ある日「それを作れば、彼が来る」という不思議な声を聞き、
トウモロコシ畑をつぶして野球場を作る。
野球場には八百長疑惑で大リーグを永久追放されたシューレス・ジョーなどがやってくるが、
その姿は彼とその家族にしか見えない。
実は、この野球場には、人々の失われた夢を実現させる不思議な力が宿っていたのだ。
そう、叶う事のできなかった現実を「なかったことにする」ことができるのだ。
現実の世界で野球に対する様々な夢を叶えることができなかった人が次々登場し、
最後は主人公とケンカ別れのうちに亡くなった主人公の野球好きの父親が若い頃の姿で現れ、
主人公とキャッチボール始める。
カメラはフィールドからぐっと引いていき、
上空からナイター照明で浮かび上がる野球場とその周辺を写し出す。
照明に照らされた野球場に向かう一本の道には長蛇の車の列の光がどこまでも続く
(夢を叶えることができなかった人がまだ次々とやってきていることを暗示している)
印象的なシーンで終わる。
と、文字でストーリーの概要を書くと何のことはないが、とても感動的な心にしみる映画だ。
ところで、この野球場にいろいろ現れる人はファールラインを越えない。
必ず外野後方のトウモロコシ畑から現れ、去っていく。
ファールラインが死者と生者、夢と現実を隔てる結界になっているのだ。
結界は限られた者しかまたぐことができない。
そして、結界をまたぐということは、こっちの世界とあっちの世界を行き来するということなのだ。
結界をまたいでいった母
亡くなる1年ぐらい前から、施設に入っていた母の言うことがおかしくなってきた。
これまで一度も話したことがなかった父との結婚前後の話。
昔々の話を自分からいろいろ話し出す。
「お父ちゃん(自分の夫)が昨日来たじゃろう」
父はもう20年も前に他界している。
その時の喪主は母である。
「お父ちゃんはもうずいぶん前に死んで、ここに来ることはないよ」と諭すように話しすと、
じっと聞いているのだが、釈然としない様子でいる。
そして、また翌日も同じことを言う。
母は毎日結界を越え、そして時間と空間を越え、
あちら側とこちら側を行き来していたのだと思う。
現実はいつか白昼夢となり、白昼夢はいつか現実となり、両者は交じり合っていったのだ。
そんな母を見ていると、人生はまさに夢だと思う。
自分自身のこれまでの人生を振り返っても、夢のようだ。
あっという間のことだ。
新たな年を迎え、寿ぎたいところだが、コロナは続くよどこまでも。
トンネルをぬけないので、雪国にはなかなかたどりつけない。
うっとうしいマスクを外し、前のようにみんなと楽しくお酒を飲みたいのだけど。
再び盛り上がるコロナ禍の中、
夢を見ながら逝った母の3世代後のひ孫が編み出した超絶技「なかったことにする」の一撃を
コロナのやつにあびせてやりたい。
| コラム | 13:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑