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バードランド(2017.6)

埴輪の家

「埴輪に鳥が出入りしよるよ」
飯を食っていたら、妻がこう言う。
どういうことかと思ってしばらく庭に置いた埴輪を見ていたら、
小さな鳥が埴輪の穴の開いた袖口から勢いよく飛び出した。

わが家の庭には、父が昔どこからか買ってきた高さ数十cmあまりの埴輪が点景物として置いてある。
この埴輪には手はなく、両肩に直径2,3cmぐらいの穴が開いている。
去年はこの穴からハチが入って中で巣を作って大騒ぎしたが、
今年はなんと、小鳥が巣を作ろうとしているのだ。
そうか、何で今まで思いつかなかったのだろと思い、
早速ネット通販で巣箱を購入し、庭のソロの木(アカシデ)に掛けた。

シジュウカラだ。
灰色の羽に白い頬、頭から胸にかけて黒いラインが走る。
電線や木に留まってよく通る大きな声で「ツッピー・ツッピー・ツッピー」と鳴く。
春先から鳴き声だけはよく聞いたが、まさか小生の庭で巣作りを始めるとは。

5月に入り、埴輪の袖口からより頻繁に出入りするようになった。
観察していると、つがいで何処かに行っていることもあるが、
たいてい1羽は中にいて、かわるがわる外に飛び出しているようだ。
面白いことに、埴輪の両肩の2つの穴は、出口と入口がそれぞれ決まっているようだ。
そして、入る時は、まず庭のバラアーチにまず止まり、
それから埴輪の横のブラックベリーの木に移って侵入する。

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巣箱となった埴輪とピーちゃん。埴輪の前の植物はセージ、左はカモミール。
さて、ピーちゃんはどこにいるでしょうか?

ピーちゃんがわが庭で巣作りを始めてくれてとてもうれしいのだが、困るのは庭仕事だ。
埴輪はハーブ類を植えたロックガーデンに置いてあり、
近くで作業をしていると帰ってきたピーちゃんが「ジュク・ジュク・ジュク」と警戒の鳴き声を発する。
早くそこをどけと言われているようで気が引ける。
そういう時は、埴輪近くでの作業を早々に切り上げる。

ある時、埴輪の横に植えてあるルッコラを摘んでいて、誤って埴輪を倒してしまった。
アッと思う間もなく中にいた1羽がすごいスピードで飛び去って行った。
しまったと思い、埴輪を起こして観察していると、
2羽で帰ってきて電線に止まり、延々「ジュク・ジュク・ジュク」とやっている。
ごめんね。気をつけてもう二度と倒さないから。大丈夫だよ。中に入りな。
頼むから入ってくれよ。
しばらく「ジュク・ジュク・ジュク」とやっていたが、中に入ってくれた。
ああ、よかった。

シジュウカラは仲間同士で通じる言語を持つという。
確かに「ジュク・ジュク・ジュク」と鳴いている時は、仲間とコミュニケーションしているようにみえる。

しかし、ソロの木に掛けた巣箱には一向に誰も来ない。
どう考えても地べたに置いた埴輪より、高い位置に掛けた巣箱の方が安全だと思うのだけど。
いろいろ調べていると、
シジュウカラは地面にさかさまに臥せて置いてある植木鉢にも巣を作るのだそうだ。

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ソロの木に掛けた巣箱。左下に小さく埴輪の頭が見える。

ピーちゃんは、5月中旬に別のシジュウカラと埴輪の上で縄張り争いと思われるバトルを繰り広げ、
以後、もう二度と来ることはなかった。

横に歩く鳥

去年の今頃だったか、このコラムでホトトギスのことを書いた。
小生の家は、山が近い住宅地なので、春から夏にかけては様々な鳥がやって来る。
春は、ウグイスとシジュウカラ。
ゴールデンウィークを過ぎるとそれにツバメが混じり、やがてホトトギスの季節になる。
スズメはもちろん、ヒヨドリもわが家の常連である。
スズメは畑で砂を浴び、スイレンの水鉢で水を飲む。
ヒヨドリは庭の畑の芽キャベツやブロッコリーをついばむ困ったちゃんではあるが。

そんなこんなしていると、今度は妻が、
「キツツキみたいなのが来た。
キツツキみたいにソロの木をつついて、幹につかまってグルグル横に歩くんよ。
あんな歩き方をする鳥は初めて見た」と言う。
どんな鳥かと聞くと、あまり大きくなく、縞々があったと言う。
話している絶妙のタイミングで、点けていたテレビの自然紹介番組にコゲラが写っていた。
「おい、あれじゃないか?」と聞くと、「そうそう、あれあれ」。
へえ、こんな住宅地にもコゲラが来るんだ。

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コゲラ。わが国最小のキツツキ。

キツツキ人間

ところで、キツツキは漢字ではどう書くかご存知だろうか。
「啄木鳥」と書くのである。
そう、歌人の石川啄木の「啄木」である。
石川啄木はペンネームで、本名は石川一である。

何故彼は「啄木」をペンネームにしたのだろうか。
キツツキといえば、何といっても嘴で小刻みに木を叩く「ドラミング」である。
結核を発病し、療養のために故郷の岩手に帰った17才の啄木は、
病の床で静かな森に響くキツツキが木を叩く音に慰められたという。
この自宅療養以降、彼は「啄木」のペンネームを使うようになる。

啄木には、キツツキが木を叩く音が、まるで半鐘をつく早鐘のように聞こえた。
早鐘は、すなわち警鐘である。
啄木は、世の中に警鐘を鳴らす存在でありたいという願いを込めて、
自分をキツツキになぞらえたといわれている。
自らをキツツキになぞらえてから9年後、啄木はわずか26才でこの世を去ってしまう。

啄木が鳴らした警鐘とは何か。
大逆事件などの思想弾圧により閉塞感に包まれた社会への異議であり、
即物的で自然への尊厳が失われた社会への異議だった。
啄木が生きたのは100年前の明治時代だが、
管理社会の閉塞感や地球環境問題が進行する現代社会でも、啄木が鳴らした警鐘は十分通用する。
いや、より一層響かせなければならないのではないだろうか。

歌集「一握の砂」の有名な次の歌の歌碑は、故郷岩手の陸前高田の高田松原にあった。
が、今はない。

 いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ

歌碑は、2011年3月11日、東日本大地震の津波で流失したのである。
啄木が鳴らした自然への尊厳の欠如への警鐘を、まさに身をもって鳴らしたのだ。

いのちある人のかなしさよ さらさらと 驕ればむなしくまことより落つ
行動するキツツキであれ!

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光陰矢の如し(2017.5)

中年御三家

若い時はあまり気に留めなかったのだが、最近は訃報に目が行く。
ああ、あの人が、という想いだ。
今年に入って、1月の松方弘樹、3月のかまやつひろし。
特に昨年は、一時代を築いた人たちの訃報が相次いだ。
永六輔(7月7日)に続いて、大橋巨泉(7月12日)。
数年前まで広げれば、野坂昭如(平成27年12月)、愛川欣也(平成27年4月)、
大島渚(平成25年1月)、小沢昭一(平成24年12月)。
この人たちに共通なのは、焼け跡派ということであり、
テレビ創成期を担った人たちということである。

駅で衰弱死した戦争孤児の少年が持っていたドロップ缶を駅員が投げると、
そこから妹の小さな骨が転げ落ち、
その周りを蛍が飛びかうというシーンから始まる「火垂るの墓」は、
とてもやりきれない物語である。

焼け跡派は、多感な子供時代に、
敗戦(あえて「終戦」といわない)とその後の混乱を経験している。
焼け跡派の名付け親の野坂昭如の自伝的鎮魂小説「火垂るの墓」は、
まさにその実録である。
あのハチャメチャな野坂昭如が書いた、
持って行きようのないやるせない悲しみに満ちたリアリズムである。
この人たちが言う「どんなことがあっても戦争をしてはいけない」という言葉は、
過酷な実体験に基づく重い重い言葉である。

あれから70年。
あまりに安易に安全保障やら積極的平和主義なるものを口にする
「戦争を知らない子どもたち」の政治家は、
そのことを強く強く受け止めてほしい。

野坂昭如は、こういう胸に迫る物語を書いたかと思うと、
大島渚の結婚30周年のパーティーで、
些細な行き違いから泥酔状態で大島渚と殴り合ったり、
ハチャメチャなCMを作ったりと、
そのシュールな狂気は何物にも代えがたい。

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「火垂るの墓」のDVD(スタジオ・ジブリ)。
原作者の野坂昭如自身が、「私はこの映画を二度と見たくない」と言ったというエピソードがある。


この野坂昭如と「中年御三家」を作ったのが永六輔と小沢昭一だ。
「ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか」と歌うシャンソン歌手でもあった野坂昭如に対し、
永六輔と小沢昭一は日本文化、
それも庶民の文化を継承しなければという信念に貫かれていた。

ヒューマンスケールである尺貫法の復権を訴え、
安易な動物愛護運動に対して日本の伝統文化としての捕鯨を訴えた
「男のおばさん」永六輔。
一貫して大道芸や放浪芸、見世物小屋、ストリップなどの庶民の芸能を愛し、
ライフワークとしてそれを追いかけ続けた小沢昭一。
余人をもって代えがたい人達である。

親友の永六輔が亡くなったことは、
病の床にあった大橋巨泉には知らされなかったそうだ。
永六輔死去の5日後の7月12日、大橋巨泉も亡くなるのだが、
昨年7月20日放送の徹子の部屋では、
どちらも黒柳徹子の親友だった永六輔と大橋巨泉が出演した
2月4日の放送分を放送した。

大橋巨泉は、約2年前の平成27年6月の愛川欣也の四十九日
「愛川欽也を偲ぶ会」で弔辞を述べている。
その1年後に自分の命が尽きるとは、思ってもみなかっただろう。
この世代の人のつながりの強さを思うとともに、やるせなくなる。

テレビ創成期

この人たちに加え、既に亡くなった向田邦子、渥美清、井上ひさし、森繁久彌、
まだ存命の黒柳徹子などの人達の
テレビ創成期のもろもろの話はとてつもなく面白い。
時代が自由だったのである。

高度成長期に入り、誰も経験したことのないテレビという新しいメディアに対し、
何でもありの状況の中で、
放送作家、プロデューサー、アナウンサー、司会者、タレント、
様々な新しい仕事が生まれていった。
毎日が新しいチャレンジで、未来は混沌と広がり、明日は何が起きるかわからない。
すごい時代だったんだろうなと思う。

向田邦子のエッセー「父の詫び状」を読むと、その頃の状況がよく分かる。
雑誌編集の会社勤めをしながらアルバイトで番組の台本を書き始め、
テレビの時代がやってきてアルバイトが本業になり、
やがて売れっ子作家になっていく向田。
ストレスをためた黒柳徹子の息抜きの場の向田のアパート。
何であんな飛行機に乗って死んでしまったのか。
悔しい。

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向田邦子の「父の詫び状」。昭和の香り満載である。
東京大空襲の時、一家で最後の晩餐をした話や、60秒で切れる出始めの留守番電話に連続9回ダイヤルして話し続けた黒柳徹子の話など、楽しませてくれる。


渥美清が最初にブレイクしたNHKのテレビ番組「夢であいましょう」の司会は黒柳徹子で、
「上を向いて歩こう」などの名曲を生んだ「今月の歌」は作詞を永六輔が担当し、
テレビの創成期を担う人たちが集結してバラエティ番組の走りとなった。

僕たちが子供の頃のNHKといえば、「ひょっこりひょうたん島」である。
「ひょっこりひょうたん島」の作者は井上ひさしであることを大きくなってから知った。
あのぶっとんだキャラクターの発想やストーリーの展開は、
僕の敬愛する赤塚不二夫に通じるものがある。
「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」という井上ひさしの言葉は、
僕が常に心掛けていることであり、
また人の技量を見極める僕の重要な判断基準となっている。

森繁久彌は、戦前からNHKのアナウンサーなどとして活躍していたそうだが、
僕が知っている森繁は、
何といっても「七人の孫」や「だいこんの花」などのテレビのホームドラマだ。
これらのドラマの脚本を書いたのが向田邦子である。

よく知られている逸話だが、
「徹子の部屋」の第1回のゲストは森繁で、
この時、黒柳徹子の胸を触ったハプニングは有名である。

向田邦子、渥美清、井上ひさし、森繁久彌、黒柳徹子、みんなつながっている。
やっている方も楽しかっただろうな、あの頃は。
テレビに出る人間が楽しがってやっているのは最近じゃあタモリぐらいかな。

余談だが、
芸能界には「早稲田を中退したタレントは出世する」というジンクスがあるそうだ。
上に揚げた人たちのうち、中退はともかく、早稲田の出身者は「中年御三家」のほか、
大橋巨泉(中退)、森繁久彌(中退)、である。
こんなキャラが揃う当時の早稲田は、
活気があって混沌として、きっとすごかったんだろうな。

誰がテレビをつまらなくしたか

どのチャンネルを回しても、どれもこれもひな壇に芸人が並び、
わあわあ、ぎゃーぎゃーのバラエティ番組。
楽屋落ちや仲間内のバカ騒ぎ。
のべつ間もなく流れるうっとうしい擬音語・擬態語・解説のテロップ。
大げさな効果音。
スタジオ観客の強制拍手。
番組制作があまりにも安易ではないか。
あまりにも安っぽくないか。

タモリが「ブラタモリ」を除いてテレビから離れて行ったのは、
彼の認識と意志であったと思いたい。

ICTの発達とともに娯楽も多様化し、
テレビは自分で自分の首を絞めているのではないか。
このままでは、自らテレビ離れを促進していくことにならないか。
僕自体、時間がないのもあるが、
テレビは基本的にニュースとカープの試合しか見ない。

「今のバラエティは芸能界の内幕ネタばかりで、
芸能人が使い捨ての状態になっている」とは、
テレビ創生期の真っただ中を生き、「11PM」や「クイズダービー」など
既成概念にとらわれない番組を作ってきた大橋巨泉の言葉である。

漫才、コントといえども台本がある。
台本に技能としてのアドリブが加わって、
初めて心からの笑い、感動する笑いが生まれる。
ヤスキヨの「甲子園」や笑い飯の「鳥人」は、
台本とアドリブが融合し、狂気(とみせる)との狭間から生まれた傑作である。
僕は、何とか向上委員会が眉を顰めるような下ネタやハチャメチャが大好きである。
バラエティ番組でも、革新的なハチャメチャさが際立った「おれたちひょうきん族」や
「笑っていいとも」には新しいスタイルの展開や斬新な笑いが常にあった。

そして、光陰如箭

既に歌謡曲というジャンルは自然消滅し、演歌を除けば最近はJ-POPという。
フランチャイズ制が進行し、
テレビでジャイアンツ戦が放映されなくなるのと期を同じくして
ジャイアンツは全国区ではなくなった。
NHKがテレビ放送を開始して64年、
テレビの創成期を担った人たちが次々といなくなる中で、
衛星放送やCATVなどの新しいメディアも定着した。
ゲームもあっという間に通信機能が定番になってスマホでやるものとなり、
据え置き型のゲーム機は衰退している。
10年、20年前はどうだったか考えてみてほしい。
あっという間である。

COP21で決まったように2050年にCO2を80%削減するのであれば、
ほんの三十数年後にはガソリンや軽油で走る車は皆無となる。
わが国で現在90%以上を占める化石燃料による発電は不可能になる。
もしほんとにそうなら、あっという間である。
その時、どうなるのか、どうするのか、まだ誰も考えることができない。

ほんの三十数年後のことである。
光陰矢の如し。

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自ずから然り・その2(2017.4)

蟻はどの足から歩き出すか

以前、トンボを擬人化したシンボルマークの制作に関わったことがあった。
最終案として提示された図案に意見を申し上げたのだが、
あまり真面目に受け取ってもらえなかった。
小生が何を申し上げたかと言うと、
図案化されたトンボは、1対の足が胸から、2対の足が腹から生えていたのである。

昆虫の足は6本だと知っていても、昆虫は頭・胸・腹の3節から成り、
6本の足はすべて胸から出ていることを、大人でも知らない人は多い。
さらに、なぜ昆虫の体は頭・胸・腹の3節でできているのか。
なぜ昆虫の足は6本で、胸から出ているのか。
6本もある足をどのようにして使って歩くのか。
専門家でも答えられない人は多いのではないかと思う。

仙人とよばれた画家・熊谷守一は、
日がな一日中地面にはいつくばってアリの足の動きを観察した。
アリは6本の足をどのように動かして歩くのか、観察したのだ。
高速度カメラなどではなく、自分の目で確かめようとし、
またそれができるところが尋常ではない画家の目だ。
彼の著作「へたも絵のうち」で彼は言う。

「地面に頬杖つきながら蟻の歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、
蟻は左の2番目の足から歩き出すんです」

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熊谷守一の代表作のひとつ「赤蟻」。
晩年に向かうにつれ、彼の絵は線と面だけで構成されるシンプルなものになってくる。
対象をとことんまで見つめ、凝縮して写しとったかたち。
彼の言葉を知っていると、つい蟻の左の2番目の足に注目してしまう。

生きものの体やその仕組みというものは、既成概念にとらわれていてはだめだ。
創造主のデザイン能力はわれわれの常識をはるかに超越している。
例えば、タコやイカである。

タコやイカは、分類学上は「頭足類」という。
なぜ「頭足類」というか。
それは、文字どおり、頭から足が生えているからである。
タコやイカは、足の位置を下とすれば、上から順に胴・頭・足である。
目の下、口のまわりから足が生えているのである。
何と不気味な!
そんな獣や人間がいたら、これは怖いよ。

そこまでじゃないけど、僕はゾウのデザインはすごいと思う。
鼻が手なんて、いったいどういう発想なんだ。
もし、ゾウの姿を知らなくて、その姿について、
「鼻が伸びて手になっている」と説明を受けたら、
あなたはその姿を想像できますか?

「飛ぶ」ということ

昆虫という動物は、太古の昔からずっと繁栄を謳歌してきただけあって、
驚異的なこと、わからないことが多い。
僕が一番わからないのは、「飛ぶ」ということだ。

飛行機が空を飛ぶのは鳥がモデルである。
飛行機の翼の断面は上部が膨らんだ形になっていて、
断面の長さが上部の方が下部よりも長く、
このため上部と下部とでは流れる空気の速さと圧力が異なる。
これにより、翼を上に持ち上げる力(揚力)が働き、浮上するのだ。
ただし、それには翼で空気を切る力、即ち推進力が必要となる。
推進力は、飛行機の場合はエンジン、鳥の場合は羽ばたきである。

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飛行の原理:翼の上部では下部と比較して空気が流れる距離が長いため、
流れる速度は速くなり、ベルヌーイの定理により圧力が低くなる。
この圧力の差により翼を上に持ち上げる揚力が働く。

難しいのは、空中で制止するホバリングである。
ある力が働けば、力を加えたものに対して必ず逆の力(反作用)が働く。
羽などで空気を押せば、体には反作用が働いて動いてしまう。
ヘリコプターは回転尾翼がなければ、
ホバリングすれば主翼の回転の反作用で機体が回転するだろう。
だから、ホバリングは飛翔や滑空などと違って、かなり難しい。
鳥でもホバリングができるのはハチドリぐらいではないだろうか。

虫のホバリングといえば、トンボである。
トンボは前後の羽がすごいスピードで上下逆に動くからホバリングできるのだ。
トンボは飛翔する虫の王者である。
オニヤンマの飛ぶ速さはとんでもない。
だからオニヤンマを捕まえるのは難しい。
佐々木小次郎なら百発百中だろうが。

昆虫の飛び方は様々であるが、
どうして飛べるのかわからないものばかりである。
しかも、俊敏にコースを変え、周りの空気の流れなどおかまいなしだ。

まず、チョウである。
あんな羽ばたきで、どうやって揚力を得るのだろうか。
また、軽いとはいってもあんな大きな羽を動かす力はどこからくるのだろうか。
鳥は胸筋が発達しているが、
チョウは筋肉もなく、羽が背中にただくっついているだけのように見える。

カブトムシなどの甲虫の飛び方も不思議だ。
固い羽を開いたかと思うと、その下の薄い羽を大きく広げ、いきなり飛ぶ。
助走や羽ばたきなど何もない。
しかも、チョウと違って、体は相当大きく重そうに見える。

「ブンブンブン」といえば、ハチが飛ぶ。
「プーン」はカだが、そばに来ると「キーン」といったような感じで、
その周波数は相当高いように思われる。
音からして相当細かく羽を動かしていることは想像できる。
ハチは1秒間に250回羽ばたき、小さい虫ほどその回数は多いそうだ。

カが近くを飛んでいても、
手や足にとまらない限り、空中で撃破するのは結構難しい。
何度も空振りで手をたたく。
もし、カが飛行機だったら大変なことである。
飛行機よりも何十倍も大きい巨人の手が周りで振り回されているのである。
この乱気流に耐えられる飛行機はあり得ない。

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クローバーにとまるヒメシジミ(広島県レッドデータブック・絶滅危惧Ⅱ類)
チョウはどうやって揚力を得て飛ぶんだろう。

ごく身近な虫たちを見てもわからないことばかりだ。
もし、虫たちはどうしてああいうふうにして飛べるのかがわかり、
それを人間の手で再現することができたら、
科学は相当進歩し、社会・文化に相当貢献できると思う。
人類の進歩は常に自然から学んだのだ。

物にはすべて理由がある

僕が好きな、そして尊敬する博物館の学芸員さんがいる。
彼がやる環境学習の様子を、
彼の下で毎年川の環境学習に取り組んでいる
小学校の校長先生に聞いたことがある。

川の環境学習では、カゲロウやカワゲラなどの水生昆虫を採取して、
シャーレに取り分けた虫をスケッチする。
子どもたちはルーペで見ながらそれぞれ虫の絵を描いていく。
絵が描けた頃、彼が言う。
「シャーレを持ち上げて、横から見てみよう」「どう?ペッチャンコだろ」

上から見ると、
目があって、触角があって、足があって、腹があって、虫の形をしているが、
横から見ると、何と!極薄である。
「うっすー」
子どもたちから驚きの声が上がる。

すかさず彼が聞く
「どうしてこんなに薄いんだろう?」「薄いと何かいいことあるのかな?」
子どもたちは考えるが、意見は出ない。
「この虫は、どこにいたっけ?どうやって採ったっけ?」
「石の裏に張り付いていたよね」

ここでやっと一人の子どもが言う
「石の隙間に入るためだと思います」
彼は言う
「そうだね。デブだと石の隙間に入れないよね。
じゃあ、なんでこいつらは石の隙間に入りたがるんだろう?」

川の魚たちはこれらの虫を餌にしていることを話し、
「川の流れにあおられて流れの中に出たらどうなるだろう?」
「食べられちゃう!」
体が薄ければ、石の間に入り込めるだけでなく、
水の抵抗も受けないことを話した後、彼は言う

「何で虫の体が薄いかわかっただろ。どうしてそうなったか、
『物にはすべて理由がある』んだ」

子どもたちに教えなければならないのは、虫の名前ではない。
授業の目的は、スケッチではない。
伝えなければならないことは、身近な自然の裏側にある自然の法則だ。

自然の法則は、思いつきではない。
自然界で起こるすべての「果」には必ず「因」があること。
それを気づかせ、気づくことによって自然のすごさを認識すること。
その認識の下に、
「果」の背後にある「因」を追い求めていくことの面白さに気づき、
その重要性を認識すること。
それが子どもたちに伝えるべき本質だと思う。
サイエンスの本質だと思う。

蟻はどの足から動き始めるか。
そして、それはなぜか。
自然は、われわれ人間がそうしたのではなく、
自ずからそうなっているのである。

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自ずから然り(2017.3)

庭いじり事始め

昨年の年初から始まった実家の整理、改修、引越し、後片付けなどなどが
ほぼ一年かけてどうやら終息し、
ようやく本気になって庭いじりにとりかかろうかという気持ちになってきた。
で、公園の計画・設計をやっていたころの言葉をふと思い出したのである。
「土方杭」(どかたぐい)という言葉を。

杭というものは、地面に打ち込むため、くさびのように先の方が細く尖っているものである。
しかし、用いられる場合によるが、
造園の分野ではこれを「土方杭」といって軽蔑するのである。

樹というものは、根本が太く、先にいくほど細くなっているものである。
日本の自然の中では、根本が細く、先にいくほど太くなっているような樹はないのである。
(ポトスやゴムノキなどの熱帯植物はこの限りではない)
庭園に用いられる杭も自然の樹になぞらえるべきなのである。

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誇張して画けば、このようになる。

樹だけではない。石についても然りだ。
平安時代に書かれたというわが国最古の庭園書である作庭記では次のように言う。

もと立たる石をふせ、もと臥る石をたつる也。
かくのごときしつれば、その石かならず霊石となりて、たたりをなすべし

自然の中にあった時、もともと臥せたような石は臥せ、
立ったような石は立たせなければならない。
自然を手本とし、自然にあるような形で造作していくのが庭づくりの肝なのである。

自ずから然りと。

法隆寺の鬼

昨年新聞で、県内の工業高校生が卒業後、宮大工に弟子入りするという記事を見た。
今時珍しい子だな、大学や専門学校に行かず弟子入り、それも宮大工とは。
と思ったのだが、その会社名を見てハッとした。

その会社は「鵤(いかるが)工舎」とあった。
これを見て、もしやと思ったのだ。
調べてみるとやっぱりそうだった。
「鵤工舎」の創設者は小川三夫。
小川三夫は斑鳩の法隆寺のかの伝説の宮大工
西岡常一が許したたった一人の内弟子だ。
これはだだもんじゃない。

「法隆寺には鬼がおる」
西岡常一を指して言う言葉である。
西岡常一は法隆寺の宮大工の棟梁で、
法隆寺の解体修理や薬師寺、法輪寺などの再建に携わった。

これらの仕事においては経験に裏打ちされた自説を曲げず、学者と度々対立し、
その激しさから先の言葉「法隆寺には鬼がおる」と言われたのだ。
彼は古代建築の著名な学者に対し、

結局は大工の造った後のものを系統的に並べて学問としてるだけのことで、
大工の弟子以下ということです

と言ったのだ。実に痛快。
法輪寺の再建では、補強のための鉄筋の使用について学者と鋭く対立した。
僕も彼の本を読むまでは、
鉄筋・鉄骨やコンクリートを用い、
構造計算により強度が担保された近代建築が当然のごとく最も堅牢だと思っていた。

しかし、法隆寺はどうだ。
幾たびの地震や風雪に耐え、1,300年もその形を留めているのだ。
木には二千年の命があるという彼の言葉を僕は信じる。
鉄筋・鉄骨やコンクリートの物理的な堅牢さにとらわれてはいけない。
それは単に材料としての表面的なものなのだ。
これらの建材で組みあがった建築物は100年ももたない。
建材に命がないからだ。

木には命がある。
命があるから何百年もかけてゆっくり変化していく。
だからそれぞれの木の生い立ちや生まれ持った性質に目を向けなければならない。
そして、その木のありようを活かして、
あるべきところにあるべきように収めてやらなくてはならない。

自ずから然りと。

西岡常一が明らかにした宮大工棟梁としての西岡家の秘伝の中に次のようなものがある。

「堂塔の建立には木を買はず山を買へ」
「木は生育の方位のままに使へ」

木は、生育している場所の地勢や気候により、同じ種でも性質が異なる。
従って、建材として木を求める時は、一本一本の木を見るのではなく、
その木が生育している山を見て、山ごと木を買えと言っているのである。
そして、それぞれの木は、
その地勢や気候により生育の方向と度合いは一律ではなく、
その癖を見極めて木材を使えと言っているのである。

そして彼の中で底流として流れているのは、次のようなこころだ。

自然を「征服する」と言いますが、それは西洋の考え方です。
日本ではそうやない。
日本は自然の中にわれわれが生かされている。

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小学館文庫で出版されている。
目から鱗。少なくとも建築を志す人は必読の書。
僕は大いに考えを改めさせられるところがあった。

日本の自然に見出したもの

NHKのテレビ番組「猫のしっぽ カエルの手」は、
京都大原の古民家に住むイギリス人女性ベニシアさんのLOHASな番組で、
僕も楽しみに見ている。
前回お話ししたイザベラ・バードもイギリス人女性である。
なぜイギリス人女性が日本の自然や文化にはまるのか。

LOHASなイギリスといえば、何といっても自然を模したイングリッシュガーデンである。
しかし、イギリスの緯度は北海道よりも高く、
その植生は日本とは比較にならないくらい多様性に欠ける。
イングリッシュガーデンはイギリス人のかくありたいという、
理想の自然を反映したものではないかと思うのである。
北ヨーロッパの人たちが南仏プロバンスに憧れるように。
自分たちの周りにはない本質的なものを
日本の自然の中に見出したのではないかと思うのである。

先にご紹介した作庭記ではこうも述べている。

人のたてたる石は、生得の山水にはまさるべからず

自然は最高の造形であり、人知など及びもつかないのだ。
人間よ、驕ることなかれ。
僕たちはもとより、すべてのものがその中にあるべきようにある。

自ずから然り、と。

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知らないことを知ること(2017.2)

フケツの極み

「人も衣服も家も害虫でいっぱいで、
不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、
ここの人々は不潔です。
夜になるとわたしの部屋では甲虫、蜘蛛、わらじ虫が宴会を繰り広げます。
それに同じ家屋に馬がいるので、馬が馬蠅を持ち込みます。
わたしの携帯用寝台には防虫剤をまきましたが、
毛布が少しでも床につくと、もう蚤にやられて眠れなくなります。」

「鶏、犬、馬、人間が薪をたいた煙で黒くなった粗末な平屋にいっしょくたに暮らしており、
山になった家畜の糞尿が井戸に流れ込んでいます。
幼い男の子で着物を着ているのはひとりもいません。
ふんどし以外になにか身につけている男性はわずかで、
女性は上半身裸のうえ、着ているものはとても汚く、
ただただ習慣で着ているにすぎません。」

とんでもない未開の地だ。不潔の極み、文化のかけらもない。
こんな不衛生な暮らしをしているかわいそうな人は、どこの国の人だ。
しかし、これは日本の話なのだ。
今から約140年前の1878年の日本の姿なのだ。
前者は栃木県日光市藤原、後者は福島県西会津町宝坂での話だ。
1878年という年は明治になってやっと10年、西南戦争の翌年である。

「イザベラ・バードの日本紀行」だ。
かの宮本常一が解説本を書き、前から気になっていた本だ。
やっと読んだ。

イザベラ・バードはイギリスの女流旅行作家にして英国地理学会特別会員で、
世界各地を旅行した。
冒頭のような悲惨で劣悪な異国の未開の地を、
地図をはじめほとんど情報もない140年前に、
外国人、しかも女性が一人で(日本人の通訳兼従者を一人連れているが)
数か月にわたってよく旅をしたもんだと思う。
学術的好奇心があったとしても、信じられない行動だ。
だから、彼女がその頃の日本でどのような体験をし、日本をどのように見、
日本のどのようなところに惹かれたのかとても興味があったのだ。

明治11年5月21日に横浜に上陸したイザベラ・バードは、
東京から日光、新潟、山形、青森を経由して北海道まで、
4か月かけて馬、徒歩、人力車、船により旅行した。

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「イザベラ・バードの日本紀行」講談社学術文庫(上下2巻)。
一般的には「日本奥地紀行」と呼ばれる。

貧相な日本・礼節の日本・美しい日本

「小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々」

彼女の日本人の印象である。
分かるけど、こうはっきり書かれると、気分はよくないねえ。
この紀行文は彼女が妹に宛てた日記形式の私信のかたちをとっているので、
気がねするものもなく、今でいう差別用語も含め素直に書かれているのだ。

横浜の港で見た「移動のできるレストラン」―即ち「屋台」―については、

「人形のために人形がつくったように見え、
これの持ち主である小人は身長が5フィート(約152cm)ないのです」

なるほど、でかい外人からみたらそう見えるんだ。
しかし、お人形さんかよ。

「『顔の血色』と髭がないので、男の人の年齢を推し量るのはほとんど不可能です。
わたしは鉄道員は全員が17,8歳の若者だと思っていましたが、
実は25歳から40歳のおとななのでした」

と、こんな調子である。

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「日本紀行」の中の挿画「屋台」。
彼女に言わせれば、「人形のために人形がつくったように見える移動のできるレストラン」

彼女は行く先々で好奇の目にさらされる。
140年前の北関東以北の日本では、白い肌、青い目の外国人、
それも女性の外国人など見たこともない人ばかりなのである。
結果、彼女は行く先々で、どこでも昼夜を問わず何十人もの野次馬に取り囲まれ、
無遠慮なまなざしに晒されるのである。

さらに、当時の日本人には、日本家屋には、プライバシーという概念はない。
泊まった宿屋の部屋の障子の向こうにも一晩中野次馬が居座るのである。
障子を穴だらけにして夜通し観察しているのである。
毎晩そんな状態で、よく旅をつづけたもんだ。
旅行記には、しょうがないなと記載しつつ、これに対して怒りをぶつけた記述はない。
穴があったら入りたいぜ、日本人。
何という民度の低さ。

しかし、彼女はこう言うのである。

「ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、
女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、
危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、
値段をふっかけられたりするでしょう。
でもここではただ一度として無作法な扱いを受けたことも、
法外な値段をふっかけられたこともないのです」

「わたしは日本の子どもたちが大好きです。
赤ちゃんの泣き声はまだ一度も耳にしたことがありませんし、
うるさい子供や聞き分けのない子供はひとりも見たことがありません。
子供の孝行心は日本の美徳の筆頭で、
無条件服従は何世紀もつづいてきた習慣なのです」

日本人の姿や暮らしを酷評する一方、
地理学者であり、地勢や植物に対して知識と興味を持つ彼女は日本の自然を絶賛する。

「ほかにも花をつけるさまざまな樹木がありますが、わたしにははじめて見るものでした。
それに下生えとしては赤いつつじ、梅花うつぎ、青い紫陽花―まさしく天の青―、
黄色い木苺、羊歯、クレマチス、白と黄の百合、青いアイリス。
その他50種の高木低木に藤がからまり、
その美しい葉はイギリスの黒苺の葉と同じようになじみのものです。
植物の豊富さはまさに熱帯的で、
最近降った雨のしずくを宿している天然のままの緑のすばらしさと多様さは、
斜めに差込む午後の陽光にいっそうの魅力を増していました」(日光の山中にて)。

植生の貧弱なイギリスの自生植物は数百種であるのに対して、
南北に長い国土を持つ日本のそれは4千種といわれる。
「日本紀行」を読めば、日本の自然に対する彼女の興奮が伝わってくる。
日頃、僕たちは自然の豊かさを特に感じない。
豊かさの中にいると、豊かであることに気づかない。
「日本紀行」を題材に、知らないことがあることを知ることを教えてくれたのが宮本常一なのだ。

宮本常一のまなざし

20年ぐらい前、名著「忘れられた日本人」を読んで、
僕はもうすっかり宮本常一に参ってしまった。
「宮本常一」という漢字を見るだけでハッとする。
その宮本常一がこの「日本紀行」を読んで書いたのが
「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」である。

ここで宮本常一は色々なことに注目し、言及しているのだが、
中でもなるほどと思ったのが、前に少し述べた蚤の話である。
「日本紀行」では、どこへ行ってもこれでもかというくらい蚤の話が出てくる。
まるで日本人は、いつでもどこでもすべからく大量の蚤に囲まれて生活しているように書かれており、
かなりショックである。

というのは、中国から漢字がもたらされ、仮名が生まれ、
奈良時代以降多くの記録や文芸が残されているが、
万葉集や記紀の昔から明治に至るまで、
日本の著名な文芸作品に蚤のことを語ったものは僕の知る限りほとんどない。
そして、常識的に考えて、
イザベラ・バードが日本を旅した明治11年以前の日本はもっと未開であり、
従ってもっと蚤はいたはずである。

ここで、宮本常一なのだ。
宮本常一は、こういうところに注目するのだ。
彼に言われて当たり前のことに気づく。

彼はこう言うのだ。
当時の日本人にとって、蚤のいるのは当たり前だから書かないのだと。
そうだ。朝になれば陽が昇り、夜になれば陽が沈む。
誰にとっても日常の当たり前のことだから、とりたてて書く必要はないのだ。
しかし、イザベラ・バードにとっては非日常的なこと、全く当たり前のことではなかったのだ。
宮本常一は言う。

「蚤は戦後アメリカにDDTをふりまいてもらって姿を消すまでは、どこにもすごくいたのです。(中略)
田舎へ行くほどひどくて、座敷へ上るとパッと二、三十匹とびついてくることが多かったのです。
これが日本ではごく当たり前のことだったのです」

この話に僕はとても心を動かされた。
イザベラ・バードには見えていたことが、日本人には見えていなかった。
また逆に、日本人には見えていたことが、イザベラ・バードには見えていなかった。

誰しも、これまで自分が生きてきた経験の中でしか物事を認識することができない。
今まで経験したことのないことは、知らないことなのだ。
知らないことに初めてぶつかった時、どう考え、どう行動するか。
またその時、自分が知らなかったこと、相手が知っていたことを素直に認めることができるか。
そして、そのような想定外のことを自分の世界の中に取り込むことができるか。
何でもそうだ。
自分に全く欠けていた視点から物事を見せられた時、
ちっぽけな自尊心にあらがい、それを受け入れることができるか。

自分は小さな小さなもので、
自分の周りをとりまく環境、その広がりの世界はとてつもなく大きく広いのである。

僕は、知らないことを知らせてくれることがあることを知っているものでありたい。
と思うのである。

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