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コロナが教えてくれた(2020.6)

YOUは何しに日本へ?

少しずつ戻りつつあるが、
5月はコロナ騒動のおかげで、街の景色がさっぱり変わってしまった。

コロナ騒動の前、世界遺産を2つも持つ広島の街は、やたら外国人が多かった。
博多に住む友達が広島に来てびっくりしたこととして、外国人、特に白人が多いことをあげていた。
博多も外国人が多いが、アジア系ばかりで、白人は少ないそうである。

「平成30年 広島県観光客数の動向」(広島県)によれば、
広島県の訪日外国人の国籍のベスト5は、アメリカ、台湾、オーストラリア、中国、フランスで、
対前年の伸びは中国を除けばすべて十数%となっている。
では、彼らは広島のどこで何をしているか。
僕が毎日の通勤の道すがら、いつも目にしていた象徴的な光景がある。

その店は、お好み焼き屋だ
市街地中心部の商店街「本通り」のはずれにある。
いわゆる名の知れた老舗や名店ではなく、結構最近できた店で、
市販のガイドブックには載っていない。
日本人はあまり行かないが、なぜかいつも外国人だけが店の外まで行列を作っている。
どうしてこんなことが起きるのか。

それは、SNSだ。
何の宣伝もしていないのに、勝手に、
口コミがそれこそクラスター(こういうクラスターはいいよね)で拡散していく。
それが多くのフォロワーを持つその筋ではそれなりのインスタグラマーやユーチューバーなら、
あっという間に大変なことになる。
一銭も広告料のいらないその宣伝力をまざまざと見せつけられた。

観光庁がとりまとめた2018年の年次報告書
「訪日外国人の消費動向 訪日外国人消費動向調査結果及び分析」によれば、
訪日外国人が出発前に得た旅行情報源で役に立ったものの上位は、
「個人のブログ」(30.6%)、「SNS」(23.7%)で、
訪日前に期待していたこと(複数回答)は、「日本食を食べること」が70.5%と最も多かった。

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出発前に得た旅行情報源で役に立ったもの
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訪日前に期待していたこと(複数回答)
資料:「訪日外国人の消費動向 訪日外国人消費動向調査結果及び分析 2018年 年次報告書」(観光庁)

食に関するSNSでの発信は、かくのごとく重要なのである。
そして、インバウンドである。
そして、延期されたとはいえ、来年はオリ・パラの年である。
これがチャンスでなくて何であろうか。
コロナさえなければ・・・

ピンチをチャンスに

で、今回のコロナ騒動である。
コロナ騒動のおかげで多大な影響を受けている飲食店に対し、
after corona ・・・いや、with corona に向けて、今、取り組んでいこうという活動に縁あって関わっている。

外出自粛要請の中、個人経営がほとんどの街中の飲食店は全て大きなダメージを受けている。
何せ客が来ないのだから商売あがったりである。
何に苦しんでいるか。
それは一にも二にも資金繰りである。
何もしなくても、売り上げがなくても、家賃などの固定費は出ていく。
今は、とにかくじっと耐えるしかないのか。そしてそれはいつまで続くのか・・・。

もちろんお金が入らないのは何よりもつらいけど、
何もできない中、じっと耐え、悶々としているだけじゃ何も生まれない。
本当に何もできないのかな?もしかして、今だからできる事があるんじゃないのかな?
発想を転換し、この時間、この機会を利用して、
気にはなっていたけど今までできなかったことを、あまりお金をかけずにやってみようじゃないか。

それは、お店のプチ改修であるかもしれないし、
新しい業態へのチャレンジかもしれないし、
SNSなどへの情報化への対応かもしれないし、
考えてみればやることは結構あるんじゃないかな。
それも、今。
このピンチをチャンスととらえ、今できる事を皆で話し合い、
行動に移していこうという飲食店さんの集まりに参加する機会を得た。

店に来てもらえないのなら、店ごと出かけていけばいいじゃないか。
「店」という固定観念から脱し、キッチンカーを購入してスーパーの駐車場を回り、
シェフが作った温かい食べ物を提供して売り上げをあげている人。
単なる思いつきではなく、
ウーバーイーツのサービス対象外の地域という冷静な販促戦略がそこにはあった。

食品メーカーとのつながりが今までなかったことに気づき、
食品メーカーと飲食店をつなぐ「つなぐプロジェクト」を始めたことにより、
店同士や広くサプライチェーンの仲間づくりの声かけを始めた店。

英語は話せないけど、”Come on!”と書いたボードを店の入口に掲げ、
写真入りの英語メニューを手作りして多くの外国人の来店に成功した店。
などなどの成功アイデアが披露された。

after corona はwith corona。
コロナが考えて行動するチャンスを与えてくれた。
ブランディングは何も高価なものではなく身近なものこそ必要なのだ。

給付や支援をただ待つのではなく、お金は考えて作るものだ。
コロナが考える事を忘れていた自分の甘さに気づかせてくれた。
今後どんな事態になっても大丈夫なように準備することの必要性に気づくことができた。
そして、そういうことに気づいていない人に気づかせることが必要だ。
・・・皆さん切迫した状況であろうはずなのに、愚痴や非難、行政や世間への批判ではなく、
話し合いはあくまでも前向きで建設的である。
敬意に値する。

人のつながり

話し合いを通じて見えてきたことがある。
重要なキーワードは、「SNS」と「人のつながり」である。

まず、SNSである。
先の「YOUは何しに日本へ?」でお話ししたように、SNSは今や最強の広告宣伝媒体である。
SNSでの情報発信能力がお店の価値を左右する。

Webの普及により店がビルの何階にあるかは関係なくなってきているという。
マスコミや紙ベースの広告媒体に頼っている店は確実に衰退するとさえ言われている。
そして、SNSでの情報発信のためには、情報機器のハードやソフトのスキルだけでなく、
インスタ映えするコンテンツの作成能力や写真撮影能力も必要になってくる。
それらスキルの習得の場が必要だ。

次に、「人のつながり」である。
ある店のデリバリーのお好み焼きの容器のふたを開けると、
ふたの内側に「どうもありがとうございます。心を込めて作りました」と手書きで書いてあったという話を聞いた。
注文した人は、またその店に頼むのが人情だわな。

また、ある店では、全面自粛要請が時間制になったとたん
「潰れるんじゃないかと心配しとったんよ」とすぐ来た客がいたという話を聞いた。
お店の人は、そりゃサービスするわな。

店と客の「人のつながり」。
また、店同士、サプライチェーンとの「人のつながり」。
結局は、「人のつながり」を大切にし、それを広げたところに神は微笑むのだろう。

多分、コロナは続く。強弱を繰り返しながら。
今後、途上国や紛争地域で蔓延すること、その中で強毒性のものが出現しないことを祈るばかりである。
が、ペストがルネッサンスを起こしたように、
パンデミックは世界の価値観をひっくり返し、新しい世界が、新しい価値観が生まれるかもしれない。
どんな世界が生まれようとも、人のつながりは失われない。

親しい友人や家族と向き合い、楽しい会話をしながらとる食事はまさに「人のつながり」である。
横並びに座り、仲間の裏切りを告げる「最後の晩餐」が新しい生活様式に決してなってはならない。

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写真:「最後の晩餐」(あさご芸術の森美術館)

| コラム | 11:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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京都でうどんに殴られた話(2020.5)

体で測るということ

わが社は計量証明事業所である。
そして、5月20日は世界計量記念日だそうである。
何でも、メートル条約が締結された日だそうである。

一方で、わが国では計量記念日というものもあり、記念日としてはこちらの方が有名で、
現行の計量法が施行された11月1日がその日だそうである。
なかなか紛らわしい。

メートル条約ということであるが、何で条約まで作って決める必要があったかというと、
世界中には様々な計量単位があったからだ。

ご承知のとおり、日本から昔からある計量単位は尺貫法である。
「おとこのおばさん」永六輔は尺貫法復権運動を展開したが、
小生はこれを大いに支持する立場である。
なぜなら、尺貫法は世界各地の計量単位と同様、人間の体の一部を基準にした身体尺だからだ。

人間の体を基準にした長さや面積や重さは、その発生として本来的なものであり、
何よりも人間の生活のスケールに合致している。

長さの単位でいうと、尺が基準である。
尺は、手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さが起源である。
この長さは本来約18cmなのだが、物差しとしてはだんだん伸びて、1尺は30.3cmである。
1尺は歩く歩幅の半分という説もあるそうで、小生としてはこちらの方が納得できる。

1尺の1/10が寸で3.03cm、1尺の10倍が丈で3.03mだ。
ところで、欧米で使うフィート(feet)は足(foot)の複数形で、
文字どおり足のかかとから指先の長さを語源とし、1フィートは30.48cmである。

何と、1尺と1フィートは、ほとんど同じ長さなのだ!
身体尺は世界共通なのだ。
しかし、外人の足はでかい。

とてつもなく広い方丈

さて、1尺の10倍の3.03mの丈だが、方丈という言葉がある。
これは1丈四方の四角形のことだが、建築の様式の名称でもある。
すなわち、1丈四方の簡素な草庵を指す。

方丈といえば、まず何といっても、維摩のことを思い出す。
維摩居士は、仏教の奥儀を極めた在家の仏弟子で、方丈の草庵に住んでいる。

ある時、文殊菩薩たちが大勢で病気の見舞いのため維摩の方丈を訪れた。
その時、維摩は、見舞客のための獅子座(椅子)を部屋に設置した。
椅子といっても、ひとつの獅子座の高さは340万由旬あるのだ。

由旬は古代インドの長さの単位で、様々な説があるが、仏教では1由旬は7.2kmとされる。
ということは、2,448万kmの高さの椅子ということになる。
その椅子を3万2千基、3.03m四方の部屋に入れたというのだ。
そんな、ばかな。

維摩経では、これに続いて世界の中心にそびえる須弥山を芥子粒の中に入れる話や、
須弥山の四方にあるといわれる四つの大海の水を一つの毛穴の中に注ぎ入れるという話が出てくる。
これらは狭い方丈の中に宇宙の全てが存在しているという事を表しているという。
宇宙は、ほとんどゼロのほんの一点から始まり、ビックバンで無限大に広がったのだ。

近年の物理学では、広大な宇宙の謎を解き明かすために、
究極のミクロな素粒子であるクォークの理論が不可欠とされる。
極大の世界と極小の世界は、実は表裏一体なのだ。
これは宗教ではない。科学だ。

古代インドでは、仏教では、そのことを感じとっていたのだろうか。
維摩経は大乗仏教の「空」の概念を説いた経というが、不思議なことだ。

前にも書いたことがあるが、古代インドの計量単位というものは、常識を超えている。
というか、常軌を逸している。
時間の単位に劫というものがある。
落語の寿限無でいう「五劫のすりきれ」の「劫」である。

ここに1辺の長さがこの1由旬、すなわち7.2kmの立方体の岩がある。
これを柔らかい布で100年に1度ずつ払いつづけ、
岩がようやく磨滅しても終わらない時間の単位が1劫である。

早い話が、ほとんど無限だ。
それにこのような途方もない根拠をつけることが仏教的というか、インド的というか・・・

そして、「方丈」というと、何はなくても鴨長明の方丈記である。

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし


何という分かりやすい名文だろう。
どんなところで鴨長明はこの文章を書いたのか。
鴨長明が結んだ方丈の庵とはどのようなものだったのだろう。

実は、京都にあったのだ。
昨年、京都をさまよっていた時に偶然見つけた。
京都は下鴨神社の摂社に河合神社というのがあり、
そこに復元された鴨長明の方丈があったのだ。
なぜここに鴨長明の方丈があるのか。
それは、鴨長明が河合神社の禰宜の息子だったことによるそうだ。

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鴨長明が住んだという復元された方丈

復元方丈は、ちょっと見たところは質素なたたずまいで、いい感じである。
しかし、中を覗いてみると、あたりまえだが、狭い。
方丈は四畳半よりわずかに広い大きさだ。

そこで思いを巡らしてみたのだ。
小生が学生の頃の下宿は、四畳半で流しとトイレは共同というものが少なからずあった。
しかし、部屋は四畳半一間としても、布団をしまう押し入れはあるし、
トイレや流しは別にあり、生活の全てをそこで過ごすわけではない。

しかし、方丈は生活の全てをそこで過ごすのだ。
トイレは別としても、当然ながら冷蔵庫や洗濯機はないし、
寝具や衣服、調理器具や食器、生活に必要なもろもろのものの収納スペースはない。
何もかもを3.03m四方のスペースで完結させなければならない。

庵を結び、虚飾を排し、質素に暮らすとは聞こえがいいが、
実質的には弥生時代の竪穴式住居と何ら変わりはない。
と、興ざめな現実主義に意識が占領されることが情けないが、仕方ない。
「虚飾を排し、質素に」はもう死語なのだろう。

うどんの一撃

ところがである。
この京都で北野天満宮あたりをさまよっていた時に、とんでもないものに出くわした。
老舗のうどん屋「たわらや」の「たわらやうどん」である。

「たわらやうどん」は、具は何もない(別におろしショウガがのった小皿がついている)
素うどんといえば素うどんであるが、ただの素うどんではない。
別名、「一本うどん」という。

京都にしては色の濃い出汁の効いた丼の中に超極太のうどんが入っている。
太いうどんというとなんといっても「伊勢うどん」だが、
「伊勢うどん」はいわゆるぶっかけで、濃い黒い甘めのタレがかかり、ネギがのっている。
そして一番の特徴は、麺が柔らかくコシがないことである。

しかし、この「たわらやうどん」はしっかりコシがあり、
太いうどんを噛み切りながら、モチモチとしたうどんの味というか小麦の味を、
ショウガが香るカツオ出汁と共に味わうという事になる。

関西のうどんというと、のど越しのいいつややかな麺とカツオ出汁が信条で、
きつねうどんにとどめを刺す。
京都の場合は、加えてあんかけうどんとカレーうどんが重要だ。

しかし、この「たわらやうどん」のたたずまいはどうだ。
一切の虚飾を排し、うどんに必要な最低の要素だけの質素の極みだ。
質素ここに極まれり。

鴨長明の復元方丈を見て複雑な雑念をいだいていた小生は、
まさに脳天にうどんの一撃をくらったのだ。
吾唯足るを知る。

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「たわらや」の「たわらやうどん」。
この太さ、虚飾を排した質素の極みのこのたたずまいを見よ!

| コラム | 16:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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コロナから家族を考える(2020.4)

ウィルスに命はあるか

新型コロナウィルスが大変なことになっている。
ウィルスでいつも話題になるのは、「ウィルスは生物か」ということである。
微生物は、真菌、細菌、ウィルスの3つに分類されるとしながら、
ウィルスは生物ではないという文献を目にするが、
それじゃあ最初に微生物を3つに分類したこと自体がおかしくなるじゃないか。

ここで、生物の定義として一般的に言われていることは、
 ①自己増殖できる ②エネルギー代謝がある ③細胞をもつ ことである。
ところがウィルスは、
 ①他の生きものの細胞に寄生しないと増殖できない
 ②生きるのに必要なエネルギーを作ることができない
 ③細胞や細胞膜を持たず自分と外界を分かつものがない のである。
これらはすべて生物の定義に反している。

ウィルスは、核酸とそれを包むタンパク質の殻から成る「粒子」だ。
単なる粒子なのに、ウィルスは生物かという問題を難しくしているのは、
ウィルスが遺伝子を持っていることだ(但し、DNAかRNAのどちらかしか持っていないのだけど)。

ウィルスは、タンパク質は持っているが、その合成に必要な酵素の遺伝情報を持っていない。
そのためウィルスは、
寄生した細胞の持つタンパク質の合成能力を利用して、核酸とタンパク質を大量に複製する。
すなわち、自分の複製を行う。

ウィルスは、自分ではできないが、他の生きものの力を借りて、まがりなりにも増殖できるのだ。
問題は、それを「自己」増殖とよべるかどうかだ。
「自己」ではできないが増殖できる。
どうであれ、おのれが存在することによって現実に増殖している。
ウィルスは生物なのか単なる粒子なのか。
では、「命」とは何なのか。

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コロナウィルスの電子顕微鏡写真。(資料:国立感染症研究所)

利己的遺伝子?ミトコンドリア

ここで思い出すのが、ドーキンスが唱えた「利己的な遺伝子」の話である。
ダーウィンの進化論では、
生物進化は、進化の過程で環境により適応できる有利な変異を獲得したものが、
生存競争に勝つ自然選択によって引き起こされる。
従って、有利な変異を獲得した、より「利己的な」個体ほど生存できると考えられる。

しかし実際には、ミツバチやアリのコロニーのように、
個々の個体は自らを犠牲にして他の個体を生存させようとする「利他的な」行動が、
多くの生物において見られる。
自然選択の結果生き残るのは、
個体が犠牲になっても自分たちの遺伝子をより多く残すことができるものなのだ。

そこでドーキンスは、個体ではなく遺伝子に着目し、
生物進化の実体は、
個体を犠牲にしてでも自分のコピーを残そうとする「利己的な遺伝子」であると考えた。
そこから導かれることは、
「利己的な遺伝子」こそが命の本質であり、生物はそのために利用される船にすぎない
という恐るべき解釈である。

そこでまた思い起こされるのがミトコンドリアである。
ミトコンドリアは細胞内にある小器官で、
エネルギー変換や物質の代謝、酸素呼吸など様々な重要な生命現象を担っている。
ミトコンドリアは独自のDNAを持つことによりこれらの機能を果たすとともに、分裂、増殖する。

ミトコンドリアは、もともと個別の生きもので、
バクテリアが真核細胞に共生するようになったことが起源と考えられている。
以前にも本コラムでとりあげたことがあると思うが、
ミトコンドリアをテーマにした「パラサイト・イヴ」というホラー小説がある。

ミトコンドリアは細胞の支配下にあるが、
寄生(パラサイト)して何億年も生き延びていた利己的遺伝子である「イヴ」が、
遺伝子の主導権を得るため人体に対して反乱を起こし、人間との生き残りをかけて争うという内容だ。

これは「ミトコンドリア・イブ」という仮説を下地にしている。
「ミトコンドリア・イブ」は、ミトコンドリアのDNAは母親のDNAを引き継ぐことから、
世界中の人のDNAを調べ、
約16万年前のアフリカのある一人の女性が今の人類の全てのミトコンドリアについての「母親」である
とした仮説である。
(全人類の唯一の母親ではなく、全人類に共通の祖先のうちの一人であることに注意)

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「パラサイト・イヴ」新潮文庫。著者は当時、東北大学の大学院生だった。

もともと別の生きものだったものが他の生物の細胞内に取り込まれ(侵入して同化(共生)した?)、
独自のDNAを持ちながらその生物の生命現象に深く関わっているミトコンドリアからみると、
共生(寄生?)した生物は「利己的な遺伝子」の複製のために引き継がれる乗り物に過ぎないのではないか。

半地下と万引き

パラサイトといえば、昨年度のアカデミー賞作品賞他を受賞した韓国映画「パラサイト」である。
高台のセレブな一家にパラサイトした、建物の半地下に住む全員無職の家族は、
セレブな一家とは全く別の生きもので、
独自のDNA(臭い?)を持ちながらセレブな一家の生活に深く関わっていく。

半地下の家族は、家庭教師、心理カウンセラー、家政婦、運転手などとして、
全員がセレブな一家に入り込み、その生活に欠かせないものとなった。
セレブな一家はだんだん増えていく半地下の家族の
「利己的な遺伝子」の複製のために引き継がれる乗り物に過ぎなかった。

しかし、あることをきっかけに宿主を崩壊させるような事態に陥る。
それは偶発的であり、必然的でもある。
寄生の哀しい性(さが)は、宿主が滅べば自らも滅ぶのである。

余談だが、大雨の後の消毒のシーンが映画にでてくるが、
実際、コロナウィルスの消毒やあれやこれやで、
韓国の半地下の人たちはひどい目に遭っているのではないだろうかと心配してしまう。

映画は、寄生によって引き起こされる結末の3つのパターンを示して終わる。
即ち、一人は殺され、一人は一生抜け出る事のできないより深い寄生に落ち込み、
一人は反乱を起こして宿主を乗っ取る見果てぬ夢を見る。
しかし、その夢は、決して実現しない夢なのだ。
寄生者も宿主もみんな共倒れになり、誰一人幸せになることのない結末だ。

ブラックコメディというが、極端な学歴社会・競争社会の韓国の負の部分と閉塞感が伝わってきて、
僕はとても笑えなかった。
もし僕がこの国に生まれたら、僕は子供を持つ事を躊躇するだろう。
海外に脱出し、別の地で自分の人生を構築するだろう。
文大統領はアカデミー賞受賞祝いをしたそうだが、
韓国民を代表する立場としては、とても笑顔にはなれないと思うのだが。

同じように社会の底辺の家族を描いた映画「万引き家族」とどうしても比べてしまう。
「万引き家族」も社会に寄生している家族の崩壊で終わる。
一人は死ぬが、殺されたものではない自然死だ。
(その後間もなくそれを演じた樹木希林さんが本当に死んでしまった)

それよりなにより、この家族は、誰一人血がつながっていないことが徐々に分かってくる。
それなのにみんな家族思いなのだ。
最後のシーンで主人公ともいえる子役が施設に向かうバスの中から疑似父親に向かって何かを呟く。
それは聞こえないが、しゃべった口の形から映画を見た人にはわかる。
「ありがとう」と言ったのだ。
さすが是枝監督。
音声は出さずに…何ともしみるラストシーンだ。

共通点は底辺の家族が主役というだけで、内容も設定も同列では比べることはもとよりできないが、
韓国映画と日本映画、韓国社会と日本社会の違いを強く感じた。

| コラム | 10:22 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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頭から足が生えいたっていいじゃないか(2020.3)

「おなか」はどうして「なか」じゃないんだろう

先月は「ものの名前」と題してあれこれ書いたが、
ものの名前というと、昔から、そう、子どもの頃から腑に落ちないことがある。
それは、身体の名前だ。

身体の名前はよく「お」をつけてよばれる。
すなわち、おめめ、お鼻、お口、おてて、おなか、おへそ、お尻、お膝などなどである。
ここからもう既にいろんな不思議が始まる。

まず、「お」がつかないものはどうしてつかないのか。
「お」をつけるのは幼児語や丁寧語が多いが、
それにしても「おつむ」とは言うが、「おあたま」とは言わない。
「ほっぺ」とは言うが、「おほほ」とは言わない。(笑っているわけではない!)
脇とか踵(かかと)などは「お」をつけたものは聞いた事がない。
ちなみに、「おめめ」や「おてて」のように言葉がダブルのは、「め」や「て」が一文字だからだろう。

しかし、最も不思議なのは「おなか」である。
「お」は丁寧を表す接頭語なので、「おへそ」から「お」を取っても「へそ」で通じる。
しかし、「おなか」はどうだ。
「おなか」から「お」を取ったら、全く通じないではないか。「なか」とよばれる体の部位はない。
「おなか」を漢字で書けば「お腹」となるが、「腹」には「なか」という読みはない。
「おなか」は身体の真ん中…すなわち「なか」…
なのでできた言葉だろうけど、それにしても「おなか」だけは不思議である。

「おなか」から生えるもの

われわれの体は、「おなか」…すなわち胴体から手足や頭が生えている。
動物というものは、哺乳類はもとより、
鳥であれカエルやトカゲであれ(もっとも蛇には足はないが)虫であれ、みんなそうである。
それが常識というものだ。

しかしだ、神の造形は当然ながら人知を超えている。
生きものの中には、頭から足が生えているものがあるのである。
しかも、頭の足の付け根に口があるのである。
なんと不気味な。

頭から足が生えているのなら、「おなか」はどこにあるのだろうか。
足は体の先端にないと歩けないから、「おなか」は多分、足とは反対側で頭につながっているのだろう。
すなわち、足→頭→「おなか」という形だ。
「おなか」が体の一番上(下)にあって、
「おなか」の下(上)の頭の口のまわりから生えた足で歩いたりする姿が想像できるだろうか。
まさに「へんないきもの」の極致だ。

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「おなか」の下(上)の頭から生えた足で歩いたりする「へんないきもの」。
なんと不気味な。

しかし、このような生き物が僕たちの身近にごく普通にいるのである。
みなさんもよく食べているあれだ。
これらの生きものは、頭から足が生えているので「頭足類」とよばれる。
そう、イカやタコの仲間だ。オウムガイやアンモナイトもそうだ。

ところで図鑑などの写真や絵、料理の盛り付けでは、
一般的に頭のある方を左(もしくは上)にする決まりだ。
従って、頭足類では、足のある方が頭なので足を左(もしくは上)、胴を右(もしくは下)になる。
この決まりでいくと、
縦長の図幅もしくは盛り付けでは逆立ちした形になり、普通のイメージとは逆になる。
頭足類って、やっぱりへんなんだ。

頭足類は大きくは貝の仲間である。
イカやタコの頭足類に対して、いわゆる貝類は腹足類という。
「おなか」に足がつながっているのだ。
われわれ人間と一緒だ。
こっちの方が生物の体の構造としては理解しやすい。

腹足類の足は、体と一体となった形状不定のべたーっとしたものだが、
頭足類の足は何本にも分かれた顕著な足で、自由に動かせ獲物を捕らえる能力のある足である。
同じ貝なのに、どうしてこんなに変わっちゃったのか。

変わっちゃったといえば、イカがへんなのはもう一つあって、それはイカの数え方だ。
イカは、泳いでいる時は「匹」と数えるが、陸に上がると「杯」、干したものは「枚」と数える。
「匹」はさておき、「杯」はその円錐形の形から、
「枚」はぺしゃんこの平たいものだからそう数えるのだろう。
ちなみに、タコやカニも泳いでいる時は「匹」、陸に上がると「杯」と数える。
「枚」がないのは基本的に干したものがないからだろう(瀬戸内海には干しダコがある)。

じゃあ、英語では生きものの数はどう数えるのだろうと調べてみると、
たとえば two dogs(犬2匹)のように、基本的に「数+名詞」のようだ。
日本語では、動物の数詞でも匹をはじめ頭、羽、尾などいくつかあるし、
同じ生きものでも状態によって数詞が変わる。

日本文化の繊細さがこういうところにも表れる。
しかし、生体、死体、加工物といった体の状態で数詞が変わるなんて、こんな生きものが他にあるだろうか。

イカが支配する未来

イカやタコはとんでもない生き物である。
足だけではない。特筆すべきは目である。
その目は、われわれと同じようにレンズや絞りをもつカメラ眼とよばれる目である。
とても軟体動物とは思えない。
想像してほしい。われわれと同じような目を持つアサリやナメクジを。…不気味だ。

体のパーツだけではない。イカやタコはとても知能が高いと言われている
2010年のW杯南アフリカ大会で、
ドイツ代表の8試合の勝敗を全て的中させたタコのパウル君を覚えておられるだろうか。
パウル君の予想方法は、
餌と対戦国の国旗が入った水槽の中のプラスチック製の2つの容器のどちらかに入るというものだが、
偶然にしては確率が高すぎ、なぜそれが勝敗的中につながるのか全く分からないが、不思議である。

以前、NHKの番組で「オドロキ!これが未来の生き物だ」という放送があった。
これは「フューチャー・イズ・ワイルド」というイギリスの番組をもとにしており、
人類や現在の生物が絶滅した後、どのような動物が登場するかを想像してCGにより映像化したものだ。
放送後、DVDや関連書籍が販売された。

2億年後の世界の森林地帯では、テラスクイドというゾウのような生物が闊歩している。
このテラスクイドは、外とう膜の内側の空洞が肺になったイカが地上に進出して進化した生きものなのだ。
テラスクイドのうち最も大きな種のメガスクイドは、声帯をもち大きな鳴き声も出すという。
僕はこの番組を見て、大いに共感した。
イカならあり得る。
イカなら人類の次に世界を席巻する能力があると思う。

image004_20200302100859cd1.jpg
フューチャー・イズ・ワイルド完全図解―The WILD WORLD of the FUTURE.(表紙)クレアー パイ 著 疋田努 監修.ダイアモンド社
左下の生物がメガスクイド。


君たちはどう生きるか

「イカサマ」という言葉がある。
釣りというものは餌をつけて釣るのものだが、
イカの場合は餌を使わず、餌木という餌に見せかけたルアーを使って釣る。
餌いらずで釣れるイカは、釣る方からいえば大変ありがたくイカ様々なので、
バクチなどで騙す行為をイカサマいうのだ。

人類滅亡後(サードインパクトか。エヴァンゲリオン!)、
地上の帝王になるイカに対し、愚かな人間が見下したあまりにも失礼な言葉だ、と思いませんか。

イカサマは「如何様」である。
いかように、どのように、僕は、貴方は生きるか…
「君たちはどう生きるか」は、雑誌「世界」の編集長も務めた吉野源三郎の小説である。
2年前に漫画版が出て大きな反響を呼んだ。

「君たちはどう生きるか」は、いじめや裏切りなど主人公の中学生のコペル君が、
日常生活で遭遇する様々な出来事とそれに対する叔父さんの考え方を記したノートのやりとりの物語である。

 「あたりまえのことというのが曲者なんだよ。
 わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、
 もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。」


ものの見方についての叔父さんからのノートの一節である。
コペルニクス的転回。
鼻は顔の真中でちょっと盛り上がっていることはあたりまえだ。
足は胴から生えているのはあたりまえのことだ。

でも、そうかな。
鼻が手のように長く伸びて物をつかむ生きものがいたっていいじゃないか。
頭から足が生えている生きものがいたっていいじゃないか。

固定観念に縛られたひとつの見方だけでは、たくさんのことを見失ってしまう。

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ものの名前(2020.02)

難読地名にも格がある

仕事柄あちこちに行くが、読めないというか、何でそう読むのか分からない地名に多々出くわす。
わが広島県でも、例えば三次とか、吉舎とか、温品とか、
地元の人は普通に読めるが、知らない人には読めない地名がある。
しかし、これらの地名は個々の漢字の読みからは大きくは外れてはいない。
ほんとうに読めないのは、漢字の読みにない読み方をするものである。

最初に沖縄に行った時、「今帰仁」(なきじん)が読めなかった。
「帰仁」は「きじん」と読めるが、どうして「今」を「なき」と読むのだろう。不思議だ。
しかし、「今帰仁」で読めないのは「今」だけだ。

山口は下関市に「特牛」という地名がある。
これは「こっとい」と読むのだが、どうして「特牛」が「こっとい」と読めるんだ?
「こっとい」には、「特」のかけらも「牛」のかけらも残っていない。
漢字と読みが全く合っていないではないか。こういうのが難しい。

これは、もともと大きな牡牛のことを「こというし」といい、
「特牛」―特別(大きな)牛―の漢字をあてたが、それが変形して「こっとい」となったそうだ。
今では「こというし」という言葉もないが、説明されれば一応納得はできる。

出雲郷の不思議

分からないことが多いのは島根だ。
古くからの大和に対する出雲の文化などの影響を受け、昔から特殊な地域だからだろうが、
「どうしてこれがそう読めるの?」というものが少なくない。

出雲だから出雲のことから言うと、何はなくとも「出雲郷」である。
地元の人や知っている人は知っているが、普通の人にはまず読めない。
小生も仕事でこの地域に関わるようになって初めて知った。

「出雲郷」は「いずもごう」ではない。
何と!「あだかえ」と読むのである。

ワープロで「あだかえ」と打ち込み、変換すればこの漢字だけが一発で出てくる。
「出雲郷」は東出雲(ひがしいずも)町にあるのがまたややこしい。

しかし、何で「出雲郷」が「あだかえ」と読めるんだ。
それは、この地に阿太加夜(あだかや)神社という古いいわれのある神社があり、
その名に由来するそうだ。
でも、「なるほど~」とは納得できない。
名前のいわれは分かったが、だがどうして「出雲郷」の字を当てるのだ。

古くは大宝律令で、地方の構成単位である国・郡・郷が定められた。
出雲国風土記によれば、出雲国には9つの郡があり、そのうちの一つが出雲郡で、
出雲郡は概ね今の旧大社町、旧斐川町にあたる。
まさに出雲大社が位置する場所なので、至極もっともなことである。

しかし、問題の「出雲郷」は先に述べたように松江市東出雲町にあり、
そこは郡でいうと意宇郡(おうのこおり)なのだ。
郡の下の単位の郷を見てみると、「出雲郷」は山代郷に位置する。
山代郷なのに、なんで「出雲郷」なんだ?わからん。

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出雲国の図。出雲郡は今の旧大社町、旧斐川町あたりだ。「出雲郷」は意宇郡に位置する。
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意宇郡の図。「出雲郷」は山代郷に位置する。
(資料:両図とも島根県ホームページより)


島根で訳の分からない地名と言えば、これはもう「十六島」にとどめを刺す。
「十六島」は島根半島の日本海に面する北側、旧平田町にある。
近年は名産の岩海苔で有名になったから知っている人も少なくないと思うが、
「十六島」は「うっぷるい」と読むのだ。

どうしてこれが「うっぷるい」と読めるんだ。
分からないことを整理すると2つある。
まず、「十六島」という漢字表記の由来、次に、「うっぷるい」と発音する由来だ。

前者については、
仏教の四天王と十二神将を加えた十六善神がこの地を訪れたことが由来だと言われるが、
ちょっとこじつけがましい気がする。
「十六島」という表記は、海沿いの地域ではいかにもありそうな地名だが、
問題は後者の発音だ。

日本語離れした発音から、アイヌ語や朝鮮語由来という説もあるようだが、
それらの言語に「うっぷるい」と発音する言葉は今ではないようだ。

出雲国風土記には、このあたりの地名に「於豆振(おつふるひ)」という記述があるそうで、
「おつふるひ」が「うっぷるい」に変化したのが由来の最有力ではないかと小生は思っている。
「おつふるひ」が「うっぷるい」に変化する感じに、あの何とも形容しがたい出雲弁のタッチを感じるのでゃ。

鳥取に八頭(やず)という地名がある。
知り合いがこれを「やまたのおろち」と真面目な顔をして読んだそうだ。
かなりウケたけど、残念ながら八岐大蛇は斐伊川、すなわち島根の話なのでゃ。

名前を失うということ

名前で思い出されるのが「千と千尋の神隠し」だ。
両親とともに異界に迷い込んだ荻野千尋は、
その世界を支配するユバーバ(湯婆婆)に名前を奪われ「千」と名付けられる。
この異界では、奪われた本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなるのだ。

千の周りでいろんな事件が起こり、千は異界で大活躍し、結局、元の世界に戻るのだが、
その伏線となるのが、細かい話だが、
ユバーバの下で働くために千がユバーバと結んだ契約書なのである。
契約書で千は荻野千尋という自分の名前の「荻」の字をわざと間違えて書く。
そのことにより、ユバーバとの契約は、実は成立していなかったのである。

名前を失ってはいけない・・・この映画で宮崎駿が最も言いたかったことじゃないかと僕は思う。
「名前」とは、すなわち、その人がその人たる所以、唯一無二のその人のアイデンティティである。
名前を失うという事は、その人がその人でなくなるということだ。
その人が生きているという意味が失われてしまうのだ。
生きているが死んでいる。
とても悲しいことだ。
だから、絶対に名前を失ってはいけない。

カオナシのこと

そこで思い出されるのがこの映画の「カオナシ」というキャラクターである。
カオナシは、表情も無く話すこともできないが、千のことが好きで何とか気を引こうとする。
カオナシは、相手が欲しい物を何でも出すことができるが、それは実はただの土くれにしか過ぎない。
カオナシは、相手がそれに触った瞬間、相手を呑み込んでしまうのだ。

カオナシは物欲にとらわれた者どもをどんどん飲み込み、どんどん肥大化し、ついには暴走し始める。
カオナシは千にニガダンゴを食べさせられて呑み込んだものをすべて吐き出し、
元の大きさに戻り静かになる。

カオナシは、文字どおり(表情のある)顔もないが、それ以上に自分がないのである。
その人がその人たるものがないのである。
カオナシはとっくに名前を失っているのだ。

カオナシは悲しい存在だ。
自分の考えはなく、人の気を引くだけ。
自分の居場所はなく、何となく人についていくだけ。
映画だから「顔」という画像がないと話にならないが、カオナシこそ生粋の「ナマエナシ」なのではないか。
「名前」を失ったものの象徴として描かれているのではないか、と僕は思う。

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カオナシ。「名前」を失ったものの末路。

モノやコトには必ず名前がある。
名前がないものは概念の外にある。
概念の外にあるものは、表現することも意思疎通することもできない。
そして、名前には必ず訳がある。由来がある。
名前の背後には、その地域の風土と、その中でそれまで積み上げてきた人の営みがある。
だから名前は大切なのだ。

名付けることを「命名」という。
名に命を与えるのだ。
「名前」とは、すなわち、そのものがそのものたる所以、生きている証なのだ。
だから、絶対に名前を失ってはいけない。

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