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たくさんのふしぎ(2018.8)

アインシュタインの言葉

相対性理論をはじめ光や時空について
従来にはない大胆な発想で近代物理学の基礎を築いたあのアインシュタインが、
次のような言葉を残していることを知った。

「現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。
それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、
宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、
しかも私たちによってまだ特定されていない」

物理といえば、以前もこのコラムで書いたけど、
高校生の頃、原子のことが不思議でならなかった。

ご存じのように、原子は原子核の周りを電子が回っていると教えられた。
それはいいのだが、原子核や電子はとても小さいのだ。
いろいろ調べてみると、原子の直径は原子核の10万倍ぐらいあるという。
原子核の大きさを1mmとすると原子の大きさは100mになる。
原子を野球場に例えると、原子核は2塁後方にある砂粒だ。
原子って、スカスカじゃないか。

でも、例えば金属はカチカチで、ものがぎっしり詰まり、隙間なんてないじゃないか。
ということが、不思議で不思議で、
物理や化学の先生になぜそうなのか聞きに行った。
そしたら先生は「アシモフとかガモフとかの科学者がSF小説を書いているから、
まずそれを読んでみなさい」とはぐらかされた。
不思議だなあ。

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国際原子力機関(IAEA)のマーク(ラザフォードの原子模型)
原子核の周りを電子がぐるぐる・・・原子の中はスカスカじゃないか

光は波である。
波は、波という物質があるのではなく、ものが伝わっていく状態をいう。
例えば池に石を投げ込むと波紋が広がっていく。
水が波という状態を作っているのであって、波という物質があるのではない。
すなわち、波はそれを伝える媒体―この場合は水―があって、
初めて作られるものである。

ここまではいいのだ。何の問題もない。
問題はこれからだ。

太陽の光が地球に降り注ぐ。
で、太陽と地球の間に何があるのか。
真空じゃないか。なにもないではないか。
伝えるものがないのに、どうして伝わるのか。
おかしいじゃないか。
不思議だなあ。

僕はいったい誰だ

昨日のあなたと今日のあなたは違う。
いえいえ、精神論的な話じゃない。
昨日のあなたの体と今日のあなたの体は違う体なんだ。
バカなことを、と思われるかもしれないが、本当だ。

胃や腸の表面の細胞は1日で置き換わるのはご存じか。
ちなみに、赤血球の寿命は4ヶ月、骨細胞は10年だそうだ。
このように私たちの体の多くの細胞は程度の差こそあれ、絶えず置き換わっている。

ただし、置き換わらない細胞もある。
寿命が人間の一生と同じという細胞、すなわち、脳の神経細胞や心臓の心筋細胞だ。
だから、脳梗塞や心筋梗塞が致命的なのだ。
しかし、iPS細胞などの最近の再生医学では、
こんな二度と細胞分裂をしないといわれていた脳の神経細胞でも
再生する力を持つことが解ってきたそうだ。

日々どんどん入れ替わっていく自分の体。
じゃあ、僕っていったい誰だ。

突然だが、牛は草を食べ、その植物繊維(セルロース)を消化する。
私たち人間をはじめ、多くの動物はセルロースを分解することができない。
牛が4つの胃袋を持つことはご存じだと思うが、
牛がセルロースを分解できるのは、この4つある胃袋と大いに関係がある。

ところで、小生の今までの記述には嘘がある。
改めて言い直すことにする。
牛はセルロースを消化(分解)できない。

何を言っているのか。
じゃあ、今までの記述は何だったのか。

実は、セルロースは牛ではなく、
牛の胃袋にすみついている微生物が分解しているのだ。
牛は、これらの微生物がセルロースを分解して作り出したブドウ糖や、
されにそれから作り出したアミノ酸等を「食べて」いるだけなのだ。
すなわち、セルロースを「食べて」いるのは微生物であって、牛ではないのだ。

生きているのは、まず微生物であって、それにより牛が生かされているのだ。
じゃあ、牛の命って何だろう。
牛が生きているのではなく、
微生物の「乗り物」として生かされているだけではないのか、
という疑問がわいてくる。

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牛は牛であって牛でない。牛の胃の中に棲む微生物の乗り物だ。

ここまでくると、「パラサイト・イブ」の話を思い出す。
「パラサイト・イブ」は、ミトコンドリアが細胞の支配を逃れ、
宿主である人間に対し叛乱を起こすというSFホラー作品である。

生物の細胞内には真核とミトコンドリアがある。
両者は地球上に生命が誕生した頃はそれぞれ別の生物だったが、
やがてミトコンドリアは真核を持つ生物に取り込まれ、その一部となった。
しかし、ミトコンドリアは真核とは別のミトコンドリアDNAというDNAを持っており、
分裂、増殖する。

この物語の科学的知見のベースになっているのが利己的遺伝子説といわれるもので、
これは、今までの、種のための個体、個体のための遺伝子という考え方を逆転させ、
遺伝子から生物の進化を解釈するものである。

すなわち、遺伝子は自分のコピーを残すことを目的とし、
その過程で生物体ができあがるという考え方である。
つまり、我々人間を含め、生物個体は遺伝子が自らのコピーを残すために
一時的に作り出した「乗り物」に過ぎず、
ミトコンドリアDNAは、細胞、およびそれでかたちづくられる生物と「共生」しているのではなく、
自己の遺伝子のために生物に「寄生(パラサイト)」していると考えるものである。

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著者の瀬名秀明は当時東北大学薬学部大学院博士課程に在籍
第2回日本ホラー小説大賞受賞

これは、とてもショッキングなことだ。
僕たちは、生きとし生けるものは、さも自分の意志で活動し、生きているように思えるが、
それは全く違うということだ。

生命というものが生まれた時から、
自分のコピーを残すことだけが唯一の目的の遺伝子というものがあり、
それが延々40億年間、脈々と受け継がれてきただけのことだ。

その間に生まれ、死んでいった無数の生物は、その「乗り物」にしか過ぎなかった。
その最初の遺伝子の営みにより、
この世界のすべて、森羅万象が成り立っているのである。
この遺伝子の意思だけが、この世の中で唯一存在するものだとは。

再びアインシュタインの言葉

冒頭に述べたアインシュタインの言葉は、こう締めくくられている。

「この宇宙的な力は「愛」だ」

| コラム | 10:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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梅雨の後先(2018.7)

お滝さん

梅雨である。
梅雨の絵といえば、これはもう、アジサイとカタツムリである。

まず、そのアジサイであるが、
アジサイは、いろいろとそれにまつわる話が多い花である。
アジサイと聞いて、小生が一番最初に思うのは、「オタクサ」である。

「オタクサ」は、シーボルトがつけたアジサイの学名である。
但し、それは、既に記載されている種と同一種とみなされ、植物学上有効名ではない。
シーボルトは長崎にいる時、「お滝さん」という愛妾がいた。
彼は、自分が愛した「オタキサン」と、好きだった日本の美しい花を重ね合わせ、
その花を「Hydrangea otaksa」と命名したのだ。

二人の間に生まれた娘イネは、テレビドラマ「オランダおいね」の主人公であり、
日本人初の女医として知られている。
余談だが、長崎には「オタクサ」というお菓子がある。

アジサイの花言葉は「移り気」である。
それは、アジサイの花の色が一定でなく、青、紫、赤などに変化するからだ。
アジサイは、土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤になる。

しかし、色の変化の根本原因は、pHではなく、アルミニウムイオンである。
土壌が酸性だと、アルミニウムイオンが土中に溶出し、
アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合して青色なるそうだ。
アントシアニンといえば、ブルーベーリーに多く含まれるとよく聞く有効成分だ。

青と赤、酸性とアルカリ性といえば、リトマス試験紙だ。
しかし、リトマス試験紙は、酸性なら赤、アルカリ性なら青で、アジサイと逆だ。
一緒なら、分かりやすいのに。

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わが家のアジサイ。もう終わりに近づいているが、土壌はどうやら酸性のようだ。

カタツムリはどこへ行った

小学生の頃、学校への行き帰り、梅雨時にはよくカタツムリを見た。
小生は広島市中区の小学校に通っていたが、
その頃の広島市は、まさに「三丁目の夕日」そのものの昭和の風景だった。
家の周りには、土管が置いてあるような空き地がたくさんあったし、
近所の塀には穴が開いていて、そこをくぐり、家と家との隙間を抜け、
近道をして遊びながら学校に通った。
そこには草や木も普通にたくさん生えていて、
カタツムリも塀や葉っぱの上に普通に見つけられた。

今、市街地でカタツムリを見ることはほとんどない。
今住んでいる比較的緑の多い郊外の住宅地にしても、庭のあるわが家にしても然りである。
しかし、ナメクジはよく見る。
これだけナメクジがいるのに、なぜカタツムリはいないのだろう。

そういえば、ダンゴムシはたくさんいるが、ハサミムシはここ数十年、とんと見たことがない。
子供の頃は、植木鉢をひっくり返せば、ダンゴムシと同じくらいハサミムシもいたのだが。
カタツムリやハサミムシは、どこでも見られるごく身近な生き物だったのだけど。

梅雨というか、雨のもうひとつの風物詩は、てるてる坊主である。
子供の頃は、楽しみなイベントを前に、雲行きが怪しい時はてるてる坊主を作り、
軒先にぶら下げたものである。
遠足の前の日には、軒先にてるてる坊主がぶら下がっている家をよく見たものだ。
でも、そういう時は、往々にして晴れた事がなかったように子ども心に記憶している。
てるてる坊主もここ数十年見たことがない。

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てるてる坊主。今の子どもたちは知らないだろうなあ。
ティッシュ…ではなく、ちり紙(この言葉も知らないだろうなあ)を丸めて作るんだ。

低温やけど

昔は、天気予報というと、当たらないものの代名詞だった。
晴れの予報なのに、よく雨が降ったものだ。
そりゃそうだ。気象観測衛星も、アメダスも、スーパーコンピューターもない時代に、
予報官の知識と経験だけで予報していたのだから。

今の天気予報はもう、当たる・当たらないの範疇は超えている。
レーダー画面は誰でも見れ、雨が降る・降らないの予測は時間刻みである。
てるてる坊主が生きる場所はそこにはもうないのである。

では、カタツムリやハサミムシはどうしていなくなったのだろう。
僕たちの目に留まらないだけで、どこかでひっそり暮らしているのだろうか。
生きものの保全というと貴重種と言われるものばかりに目が行きがちだが、
このようなごく身近で身の周りにいた生きものにも目を向けたい。
それは、人々の生活とともにあったからだ。
人々の暮らしを写すものだったからだ。

声高ではないが、じわっとしみる
(これを小生の友人は「低温やけど」と称した)映画「この世界の片隅に」で、
主人公のすずが砂糖壺に寄ってくるアリを「アリコさん」と言っていた。
僕が子供の頃、確かに母も祖母もアリのことを「アリコ」と呼んでいた。
今では「アリコ」という広島弁を聞いたことがない。

身近な生きものの、ひたむきな無邪気さやかわいさに親しみを込める気持ち。
「アリ」という言葉にはそれはない。
逆に、害虫としての嫌悪感、忌避感を感じる。

僕たちは、
身近な生き物に対する親しみの気持ちや愛情を知らず知らずのうちに失い、
その代償として、身近だった生きものはいつの間にかいなくなってしまった。

移り気な僕たちは、少しずつ大切なものを失っていることに気づかず、
低温やけどは、気づかないまま進行しているのかもしれない。

| コラム | 09:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金沢味紀行~食物多様性へのいざない(2018.6)

いざ金沢へ

ちょうど1年前、去年の6月に金沢に行った。
仕事で行ったのだが、休日をからませて雨の中、金沢を歩き回った。
金沢は、大学時代に友人がいて、
彼の実家に1週間ほどお世話になってあちこち行ったが、
どこへ行ったかもうほとんど覚えていない。

加賀百万石。
江戸の文化が花開いた金沢は、
大工でも茶をたて、謡曲を口ずさみながら仕事をするというほど
庶民の間でも様々な文化が浸透している土地柄だ。
なので、行く前から心ときめかせていた。

ふるさとは遠きにありて思ふもの。
兼六園や金沢城などの史跡や多くの博物館や美術館はもちろんだが、
金沢の魅力は、例によって・・・食べ物である。
今回は、金沢の食べ歩きにおつきあいください。

真実の海鮮丼

金沢で「食べる」といった時に、
まずどうしても欠かせないのが「近江町市場」である。
近江町市場は金沢駅の近くにあって、金沢の重要な観光名所のひとつであるが、
金沢市民から「おみちょ」と呼ばれ市民の台所と言われている場所でもある。
昼飯が近江町市場で食べれるよう昼時に金沢駅に着くように設定し、
到着したその足で近江町市場に向かったのだ。

近江町市場で食べるものといったら、それはもう海鮮丼だ。
あらかじめガイドブックで下調べをして行ったが、これは迷うわ。
どの店の店頭のサンプルや写真も気合が入っている。
てんこ盛りのネタが丼から溢れんばかりにはみ出している。
かなりのお値段のものもあるが、
これはその値段分の価値があることは実物を見なくとも明白である。

市場の中を何度も行ったり来たりした挙句、「井ノ弥」という店に入った。
入ったら入ったで、また迷った。
メニューはどれも目移りして決まらない。
海鮮丼といったって、ベーシックなものだけで
「井ノ弥どん」「ちらし近江町」「上ちらし近江町」「ちらし近江町特盛」とある。
散々迷った挙句、税込2,000円の「ちらし近江町特盛」にした。

小生は、ラーメン屋でも何でも、作っているのが見える席があったらそこに座り、
料理の作業を観察するのが常だ。
幸いにもそんな席に座ることができたので、大将の作業を観察した。
そして、出てくるであろう食べ物の質が高いことを確信した。

大将はその都度、冷蔵庫から冊を取り出し、柳刃で刺身を切り出す。
ブリ、マグロ、サーモンなどなどひとつずつである。
スプーンで掬って盛り付けているカニのほぐし身やイクラは半端な量じゃない。

で、ついに出てきた。
感動である。
何がすごいって、のっている切り身の大きさと厚さがすごい。
一切れ食べるのに3口ぐらいかかる。
「刺身食べたー」という感じである。
見た目の彩は美しいが、
薄い刺身がちょこまかとのっている海鮮丼とははっきり一線を画する。
これぞ真実の海鮮丼。大満足である。

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「井ノ弥」の「ちらし近江町特盛」税込2,000円。ネタの大きさ、厚さは半端じゃない。

近江町市場で金沢を見た

海鮮丼に大満足した後、市場の中をさまよった。
沖縄は那覇の安里市場が典型だが、
地方の「〇〇市場」というところをあてもなく歩くのはとても楽しい。
それは、今まで見たこともないものに遭遇するからだ。
中でも海産物を売る店は要注意である。

九州の柳川で、初めてワラスボやウミタケ、イソギンチャクを見たときはほんと驚いた。
で、ありました。近江町市場にも。
ここの特色は、「その場で食べれる」ということを前面に押し出していることである。
生ウニ、ボタンエビ、ホタテなどが置いてある。
広島でいえば、殻付き生ガキをその場で食べさせるような感じだ。
日本人より外国人が群がっている。
冬になって、カニやブリやタラの白子が揚るようになったら、どういうことになるんだろう。
冬に来てみたいなあ。

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これはいけん。ちょっとお酒が飲みたくなる。

海産物の店は最初から期待していたのだが、想定外の発見は野菜である。
見たこともない野菜を売っている。
「打木赤皮甘栗かぼちゃ」「金時草」「加賀太きゅうり」などとある。
思わずわが家の土産に「加賀太きゅうり」を買い求めた。

店のおばちゃんに「どうやって食べるの?」と聞くと、煮てあんかけにして食べると言う。
中国料理に普通のキュウリを皮を剥いてクリーム煮にする料理があるが、
これはもう冬瓜の食べ方だ。
「金時草」は、まぎれもなく沖縄の島野菜のひとつ「ハンダマ」だ。
ハンダマは、今まで沖縄以外では見たことはなく、
なんで島野菜が遠く離れた金沢に「加賀野菜」としてあるんだろう。

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近江町市場の加賀野菜の店。見たことのない野菜ばっかり。

調べてみると、金沢市農産物ブランド協会が「加賀野菜」として15品目を認定しており、
前述の3種の野菜はいずれも認定種である。
これらはいわゆる「伝統野菜」と言われるものである。
伝統野菜は、栽培上の弱点があったり生産量が少なかったりすることが原因で、
栽培の拡大や流通網にのらなかったものだが、
その地域の風土に育まれ、長い時間かけて育てられた恵みである。

まさに、生物多様性でいうところの「4つの生態系サービス」のうちの一つである
「物質の供給サービス」そのものである。

わが広島にも「広島菜」や「観音ねぎ」だけでなく、
「矢賀ちしゃ」「小河原おくら」「広甘藍」(ひろかんらん)などの伝統野菜があるのをご存知だろうか。

そして、あれ

これらの加賀野菜や新鮮な海産物などの地元の食材を、金沢では「じわもん」という。
加賀百万石の文化は、当然、食文化も深化させた。
金沢の郷土料理といえば、鴨を加賀麩や加賀野菜と煮た「治部煮」や、
カブとブリを麹で漬け込んだ「かぶら寿司」などがあるが、
金沢で郷土料理店に行き、これらを食べるのは、あたりまえだがお金がかかる。
なので、ポケットマネーなら、当然B級グルメである。

で、小生が食べ物の話をするときに必須なのが、そう、あれ・・・カレーである。
金沢にはご当地カレーの「金沢カレー」があるのだ。
今回の金沢食べ歩きの一番の大きな目的は、
ご当地でこの「金沢カレー」を食べることなのだ。

金沢カレーは、ステンレスの皿、具のない色の濃いドロっとしたルー、
千切りキャベツ、ソースのかかったカツがお約束である。
ご飯はこれらに埋もれ、上からは見えない。

金沢滞在中、数店に足を運んだが、
ひとつの地域にこれだけ統一されたカレーがあるというのは特筆すべきことだ。
金沢カレーには「全部のせ」的なメニューが多く、これには驚いた。
トンカツだけでなく、ハンバーグやウインナー、空揚げなどなどが所狭しとのっているのである。
これはもう、食べきれなかった。

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金沢カレーの代表店のひとつ「ゴーゴーカレー」のカツカレー。金沢カレーの典型的なたたずまいだ。

しかし、なぜ金沢というか石川県という限られた地域で独自のカレーが発展したのだろう。
資料によれば、金沢カレーの代表店のひとつ「カレーのチャンピオン」創業者の田中吉和氏が、
昭和30年代にそのスタイルを確立し、弟子たち等によって石川県内に広まったそうである。

カレーという食べ物は、ラーメンと異なり、実は「ご当地カレー」というものはありそうで少ない。
ご当地カレーとは、イノシシとかサザエとか、地域の産物がルーに入っているものをいうのではなく、
作り方やたたずまいが独特のものが小生のいうところのご当地カレーである。

小生が知る限り、ご当地カレーは、
札幌の「スープカレー」、北九州は門司の「焼きカレー」、沖縄の「黄色いカレー」ぐらいである。
ちなみに、呉や横須賀の「海軍カレー」は、小生の中ではご当地カレーには入らない。

カレーといえど侮ってはいけない。
これは「食物多様性」の「物質の供給サービス」を身をもって示すものなのだ。
金沢カレーは、そのエリアで独自に進化し、
限られた地域にだけに見られる希少な地域個体群なのだ。
石川県という生息エリアの中で、メタ個体群を形成しながら遺伝子を継承している。
今のところその絶滅確率は低いが、トキのように野生絶滅とならないよう、
地域で誇りをもって永く愛していただくよう願ってやまない。

金沢には、「金沢おでん」などご紹介しなければならないものがまだまだあるのだが、
紙面が尽きた。
今回は、食物多様性金沢戦略の一端をご紹介した。

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春の野菜から(2018.5)

タケノコ・タケノコ・タケノコ

毎年、自分の持つ竹林のタケノコ掘りに誘ってくれる友人がいる。
一昨年、近所の人に掘ったタケノコのお裾分けをしていたら、
自分も掘りに行きたいというおじいさんが何人かいて、
今年もシルバー軍団を結成し、4月の中頃、タケノコ掘りに行ったのだ。

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4人2時間の戦果はこのとおり。
さあ、家に帰って近所に配りまくるぞ。
そして、その後に待つのは、膨大な量のあく抜き、下茹で・・・

当日の夕飯は、若竹煮に木の芽和え。
翌日の夕飯は、土佐煮に醤油バター焼き。
翌々日の夕飯は、趣向を変えて青椒肉絲に芙蓉蟹。
朝の味噌汁、昼の焼きソバと延々続くタケノコ料理。
下茹でして水を張ったボールいっぱいのタケノコは1週間たってもなくならない。
「季節もの」とはそういうものだ。

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ボールに入らないタケノコはタッパーで塩漬けだ。

アスパラガスは野菜のタケノコだ

春はいい。
わが家は地産地消、旬産旬消。
わが家の畑ではネギやニラが春を待ちかねたように伸び、
サニーレタス、エンドウ、アスパラガスが毎日のように採れる。

そのアスパラガスであるが、
先日息子夫婦が来たので野菜を持って帰れと言うと、
息子の嫁さんはアスパラガスが生えているのを見た事がないと言う。
アスパラガスという植物が、どのような形状をしていて、
いつも食べている部分は植物体のどの部分か知らないと言う。
じゃあ採りに行こうとハサミを持たせて庭に出て、実際に収穫してもらった。
百聞は一見に如かず。
嫁さんはアスパラガスというものの全てを理解したのだ。
アスパラガスは野菜のタケノコなのだ。

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わが家の家庭菜園のアスパラガス。
この芽は、一日で数センチも伸びるんだよ。
この芽をほおっておくと、こんなふうに伸びて、細い葉(本当は茎)が茂るんだよ。
それで地下に養分を蓄え、翌年の春にまたこういうふうに出てくるんだよ。

驚異のズッキーニ

育てている人にとってはあたりまえだが、
畑で生えているところを見たことのない人からすれば、
確かにアスパラガスの全体の形状や、
食べている部分の植物体の中でのたたずまいなどは想像がつかないかもしれない。
そういう意味でいうと、
初めて育ててみてびっくりしたのは、何と言ってもズッキーニである。

ズッキーニは、食用部分の形や食感からは、キュウリとナスを掛け合わせたような感じである。
だから、キュウリのようにツルは伸びないにしても、
キュウリやナスのように茎から食用部分がひとつずつブラリとぶら下がるものだと思っていた。

去年初めてズッキーニを植えてみて驚いた。
まず、ものすごく大きくなるのである。ものすごく場所を取るのである。
植物体は上にではなく、横にこんもりと放射状に大きくなり、
直径は1m近くになる。

加えて、葉っぱはなかなかハードで、表面には棘がある。
何ともまあ、無遠慮で、自己主張の強い姿だ。
そして、食用部分は枝からひとつずつブラリとぶら下がるのではなく、
主幹に放射状につくのである。
隣に植えたピーマンやナスは押しのけられてしまった。

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ズッキーニは放射状に「実が成る」。

マツタケの怒り

元に戻ってタケノコだが、
「季節もの」は採れる時はほんの一瞬だけど、一度にバカみたいにたくさん採れる。
地産地消、旬産旬消とはそういうものだ。

皆さんは信じられないだろうが、子どもの頃、タケはタケでもマツタケがそうだった。
4,50年前は、広島はマツタケの全国一の産地で、
小生も子供の頃、何回かマツタケ狩りに行ったことがある。
あたりまえのように手入れの行き届いた美しいアカマツ林は、もう広島にはない。

秋のその時期は、毎年マツタケをくれる人が何人もいて、
「えー、またマツタケ」とうんざりしたものだ。
走りの初物の頃は七輪などで丁寧に焼き、
湯気が上がるのを「熱い、熱い」と言いながら裂いてスダチなどをかけ、
「秋の香りじゃ」と言いながら父親が食べていたのを思い出す。

しかし、それに続くマツタケご飯が終わる頃にはもういい加減飽きてきて、
最後はいつも量がはけるすき焼きだった。
今から思えば、信じられないような贅沢というか乱暴な食べ方である。
もうマツタケは勘弁してくれぇ。

今ではその時季に料理屋で土瓶蒸しなどを頼むと、
うすーく切られたマツタケが一切れ入っていて、千円以上する。
バカなことだ。
で、思うのである。
食べ物の味と値段とは決して比例しない。

僕は騙されない。
もし、ウニがいつもバカみたいに採れて、イワシがほとんど採れなかったら、
人はウニよりイワシの方が絶対うまいと言うだろう(でも、確かにウニはうまい)。
僕は騙されない。

だけど、僕はズッキーニには騙された。
それは、僕が野菜とはこういうものだと勝手に思い込んでいたからだ。
自ら思い込んで自分の心を縛っていたのだ。
アスパラガスがどうやって生えるか知らなかったお嫁さんを僕は笑えない。

ほんとうのことを見る目

制服とか規則とかは、人を秩序立てているようで、実は人が縛られているのだ。
決められた服を着、決められたルールに従っていれば、何も問題は起こらない。
なぜその服を着なければいけないか、
なぜそのルールを守らなければならないのかを考えたうえでそれに従い(あるいは反目し)、
行動するのは労力がいる。
何も考えずにルールに従う方がずっと楽なのだ。

だからルールは、ただそれに従っているだけの人から考える力を奪ってしまう。
無意識のうちに心の自由が奪われてしまう。
お断りしておくが、ルールを守るなと言っているのでは決してない。
ルールの本質に目を向けようと言っているのだ。

ほんとうにマツタケが美味いか。
ほんとうにウニが美味いか。
周りに流されず、自分を信じ、いつもほんとうのことを見る目を持っていたい。
と思うのである。

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自然の本当の姿を垣間見る(2018.4)

実物を見ることでしかわからない

ここ数年、エネルギーに関する環境学習の仕事に取組んでいる。
小学校に出向き、出前授業を行うのである。
ボランティアではなく、ビジネスである。
官庁発注のれっきとした委託事業である。
まだほんの一部だが、
近年はこのようなことが仕事として認められるようになったのは、
実にうれしいことだ。

子どもたちにエネルギーの話をするのは、そんなに簡単な話じゃない。
まず最初にして最大のネックとなるのが、発電・・・
最も一般的な火力発電の仕組みである。
大人なら説明すればすぐ理解できるが、子どもはそうはいかない。

何が難しいかというと、石油や石炭を燃やすということと、
今、目の前で点いている教室の電気を結びつけることである。
二つのものは別々の場所で起こっている別々の事象であり、共通点はない。
しかも、石油や石炭を燃やして発電しているところは誰も見た事がない。

石油や石炭を燃やして水蒸気を発生させ、タービンを回す。
ここまでは比較的簡単だ。
比較的簡単だけど、
その仕組みを実際に目で見せなければ、子どもは本当に理解しない。

難しいのはこの後で、
タービンが回り、タービンにつながった発電機により発電される・・・
では飛躍が大きすぎで子供にはわからない。

そう、電磁誘導である。
電磁誘導は中学校で習うのだ。
コイルの周りの磁場が変化すると、コイルに電流が発生する。
発電機的に別の言い方をすると、
巻いたコイルの中で磁石を動かすとコイルに電気が流れるのである。

その逆がモーターだ。
フレミングの右手・左手の法則だ。
この仕組みを理屈ではなく、目で見せなければ、子どもは本当に理解しない。

電気に関する単元は、新しい指導要領になって小学校に下りてきて、
学校には教材も少なく、教える先生も苦慮されている。
また、学校は何がないって、お金がない。
電気に関する単元で活用できる実験装置など、
学校ではとても準備することはできないのである。

そこで小生たちは、火力発電の仕組みが分かる「火力発電実験装置」と、
電磁誘導の仕組みが分かる「電磁誘導実験装置」をそろえ、
子どもたちの目の前で実際に動かしてみる。
意外だったのは、これらの実験装置は子どもたち以上に先生が喜ぶことだ。

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これが「火力発電実験装置」だ。
ボイラー(フラスコ)で温められた水は水蒸気となってノズルから吹き出し、タービン(プロペラ)を回す。
タービンの後ろには発電機があり、LEDが点灯することにより発電されたことが分かる。
タービンが回り始めたとき、LEDが点灯したとき、子ども達からどよめきがあがる。

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こちらは「電磁誘導実験装置」。
子どもたちがハンドルを回すと磁石が回転し、
両側のコイルに電気が流れ、LEDが点灯する。
発電機の中はこんなになっているんだよ。
要は、何かの力で磁石につながった軸を回せばいいんだ。

鋭い子ども

エネルギーの出前授業をやっていると、
たまに鋭い質問や意見を言う子どもに出会う。

ある学校でこんなことを言う子どもに出会った。
「石油や石炭を燃やしてCO2が出るのなら、
ごみや木(バイオマス)を燃やしてもCO2が出るでしょ。
ごみは燃やさないと仕方ないけど、バイオマスも環境に悪いんじゃないんですか?」

そう、この子どもは「カーボンニュートラル」のことを言っているのである。
植物は大気中のCO2と根から吸い上げた水を太陽の光を触媒として炭水化物を生成し、
酸素を排出する光合成を行って成長する。

「カーボンニュートラル」とは、
植物体を燃やすと実際にCO2が発生するが、
このCO2はもともと大気中にあったものを光合成により植物が取り込んだもので、
排出されても元の大気に戻っただけで、CO2は増えたとはみなされない、
ということである。
普通の大人でもなかなか気づかないことに気づく子どもがいるのである。

またある時はこんなことを言う子どもに出会った。
それは、どんな発電方式も長所と短所があるという話をしている時だった。
太陽光発電の最大の弱点は、
当然ながら太陽の出ない夜は発電できないこと、
天気の悪い日は能力が落ちること、大気の影響で発電効率が悪いこと、
次に天気に左右されるので発電にムラがあることなどを話した時だった。

その子はこう言ったのだ。
「じゃあ、雲の上で太陽を追っかけながら発電すれば、
天気にも影響されず、いつも発電できるんじゃないですか?」

これはすごい。
これは「宇宙太陽光発電」なのだ。
まだ構想段階だが、JAXAなどが本気で考えているものなのだ。
「宇宙太陽光発電」は、ロケットで打ち上げた太陽光パネルを宇宙空間で広げて発電し、
発電した電気をマイクロ波で地上に送るというものだ。

問題は、一辺が数km四方という太陽光パネルを、
どうやって折りたたんでロケットで打ち上げ、
宇宙空間でそれをどうやって広げるか、ということだそうだが。

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宇宙太陽光発電。
宇宙空間でいつも太陽の方を向いていれば、昼夜もなく、雨や雪の心配もない。
いつも100%の効率で発電できる。

どうして1+1=2なのだ

ロジックの穴に直感的に反応する。
常識にとらわれず自由に発想する。
こういう子どもたちに出会うととワクワクする。
僕はこういう子どもたちが大好きだ。
こういう子どもたちを大切にしたい。

かの発明王エジソンは、
子どもの頃、「1+1=2」がどうしても理解できなかったそうだ。
2つの粘土の塊をくっつけると1つの塊になるのに、
なんでそれが2なのかと。

エジソン少年は、先生から「頭が腐っている」と言われ、
わずか3ヶ月で小学校を退学させられた。
僕は、エジソン少年の素朴な疑問はよくわかる。
それを理解できない先生の方が、腐る前に「頭が固まっている」のだ。

子供の頃、発達性障害で言葉がうまく話せなかったアインシュタインは、
自分が光の速さで光を追いかける夢を見たという。
目が覚めて、
光の速さで飛ぶ自分の前に置かれた鏡に自分の姿は写るか考えた。
(自分から出た光が鏡で反射されて自分の目に届いて自分の姿が見える)

何ということを考える人だ!
どうしてこんなことを想いつくんだろう!

自然の発想は自由で美しい

自然の発想は自由だ。
鼻や舌が伸びて手のように使うことができる動物を誰が想像できただろうか。
自然はあるがままに象やカメレオンを創り出したのだ。

自然の法則は美しい。
教科書から脱線して二項定理やパスカルの三角形を「美しいもの」、
心を込めて数学を「美しいもの」として教えてくれた高校の数学の先生を、
僕は忘れない。
自然界の秘密を垣間見たようだった。

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二項定理とパスカルの三角形。
パスカルの三角形の横や斜めの各数列やその和もまた、
自然界で植物の花や実、巻貝などの螺旋などに見られるフィボナッチ数などの数列となっている。
何という不思議。何という神秘。美しい。

僕も、はっと思う小さな感動を伴う発見を、
少しでも子どもたちに伝えられたら、と思う。

そして、そんな子どもたちが、
自然の本当の姿をちらっとでも垣間見ることができたら、と思う。

| コラム | 16:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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