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みちのく一人旅(その3):遠野で考えたこと(2019.8)

遠野物語

「みちのく一人旅」の3回目は、
もうひとつの旅の目的である民俗学のふるさと遠野を訪ねる旅だ。

花巻を後にして、釜石線に乗る。
東北本線の平泉とは異なり、乗客は少ない。
どうやら渋滞や行列には巻き込まれなくて済むようだ。
この電車でこのまま行けば三陸まで行くんだなと思いながら花巻から約1時間。
遠野駅に着き、駅前でレンタルサイクルを借りる。

カッパ淵と伝承園が多分定番のサイクリングコースだが、
僕が目指すのは、「遠野物語」の舞台の心臓部、約10km先の土淵の山口地区だ。

柳田國男が書いた遠野物語は、遠野地方に伝わる伝承を記した説話集である。
カッパやザシキワラシやオシラサマは、この遠野物語で広く人々に知られるものとなった。
柳田國男は、遠野の山口出身の民話蒐集家・文学研究家の佐々木喜善を知り、遠野を訪れ、
彼が話す遠野地方に伝わる数々の伝承を記録・編集して出版したのが遠野物語なのである。

花巻と遠野を訪ねて初めて知ったのは、この佐々木喜善と宮沢賢治の関わりである。
その仲立ちとなったのがザシキワラシだ。
賢治の童話に「ざしき童子のはなし」という話があるが、
喜善はその内容を自著で引用しようとして賢治に手紙を送ったのが始まりで、
二人は何回か実際に会っていたようだ。

二人の生涯年表を見ていてハッと気づいた。
年は喜善がちょうど10歳上だが、
二人が亡くなったのは同じ年の同じ月、たった8日しか違わないのだ。
二人はほぼ同じ時を生きたのだ。

悲しい掟・「ダンノハナ」と「デンデラノ」

山口集落には佐々木喜善の生家も墓も残っている。
生家はいわゆる南部の曲屋で、
近くにある共同墓所は「ダンノハナ」といい、遠野物語にも出てくる。
山口集落のダンノハナは、集落を見下す斜面にあり、喜善の墓もある。
喜善の墓は、建立にあたって柳田國男が遠野物語の印税の一部をあて、
折口信夫が墓碑を揮毫したそうだ。

そして、山口集落を挟んでこのダンノハナの反対側にあるのが「デンデラノ」である。
デンデラノは、早い話が姥捨て山である。
昔、60歳となった老人は自主的に家を出てデンデラノに向かい、
そこで共同生活を送りながら寿命を待ったという。

深沢七郎の楢山節考のようなものだと思っていたが、かなり違っていた。
まず、里から遠く離れた奥山ではない。里のすぐ横の丘陵地だ。
そして老人たちは捨てられるのではなく、
朝、里へ出て農作業などを手伝い、夕方、デンデラノに帰ったという。
前者のことをハカダチといい、後者のことをハカアガリというのだそうだ。

デンデラノには茅葺の小さな小屋が建っていた。
「アガリの家」と言うそうだ。
そう、前述のハカアガリの「アガリ」である。
今あるアガリの家は忠実な再現ではないかもしれないが、
いずれにしても粗末なものだったのだろう。
こんなところで老人たちはどうやって冬を越したのだろう。
ここは岩手の山奥だ。
一冬越すたびに、何人も死んでいったのだろう。

そこで気がついた。
ダンノハナとデンデラノはセットなのだ。
デンデラノで死んだ人が、里をまたいでダンノハナに還っていったのだ。

ヤマセが吹き、凶作になった時、
里人が共倒れにならないように老人たちは自ら口減らしを行ったのだ。
しかしそれは、座して死を待つのではなく、
ましてや自殺などではなく、可能な限り生き延びようとする挑戦だったのだ。
残された里人も老人を捨てたのではない。
デンデラノに向かう肉親に、慙愧と尊敬の念を持ったに違いない。
そしてその運命は、遠くない将来の自分の姿なのだから。

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デンデラノ。茅場の隅に茅葺の小さな小屋「アガリの家」が建つ。

デンデラノの松蔭のアガリの家を見て、賢治の「雨ニモマケズ」を思い出した。
まさに、賢治が立っていたのは、こんな風景の中だったんだ。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 (中略)
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 (中略)
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 (中略)
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ


小麦団子はどう伝わったか

やはり最後に少し食べ物の話をしておかなきゃならない。
初めて知ったのだが、遠野はジンギスカンが名物なのだそうだ。
なので、ジンギスカンを食べようと思ったのだけど、時間と場所が折り合わない。
それで郷土料理を探してみると、どうやら「ひっつみ」というものが名物だということが分かった。

「ひっつみ」は岩手県北上地方の郷土料理で、早い話が「すいとん」である。
(と言っても、「すいとん」を知らない人が多いのではないかと思うけど)
「ひっつみ」は、小麦粉を練って団子にしてものを「ひっつめ」て(つまんで)薄く伸ばしたものと
鶏肉や野菜を煮た汁物である。

汁の中身のコナモンについてざっくりいうと、
小麦粉を練ったものが団子状のものが「すいとん」、
太い麺状のものが「ほうとう」、薄い皮状のものが「ひっつみ」である。

「ほうとう」は山梨(甲斐)の郷土料理だけど、「ひっつみ」と関係あるのかな?
盛岡藩(南部藩)の城主だった南部氏は、もともと甲斐出身なので、
同様の料理が伝わったんじゃないのかな。

「南部」が出たところでもう一つ言えば、岩手名物に南部煎餅というものがある。
南部煎餅は、よく考えてみれば小麦団子を焼いたものだ。
小麦団子を焼いたもの(南部煎餅)を、
上に列挙した「すいとん」系の小麦団子に置き換えれないだろうか。
この置き換え料理があるのである。
青森は八戸の「せんべい汁」である。

しかし、八戸は青森で、岩手ではない。
実は、盛岡藩(南部藩)から後に八戸藩が分かれ、八戸藩も南部氏が治めていたのである。
小麦団子を焼いて煎餅にしておけば、日持ちがし、非常食になっただろう。
ヤマセ吹く凶作への備えとして、より気候の厳しい青森で生まれた郷土料理だ。
郷土料理をひもといていき、
その後ろにある風土とそれに培われていった文化がどう伝わっていったか考えることが、
僕は好きだ。

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ひっつみ定食。右下が「ひっつみ」、右上が「けいらん」。(伝承園にて)
「けいらん」は「鶏卵」である。その色形からこう呼ばれる。
こしあんを餅粉の皮で包んで茹でて冷やしたもの。つるっと甘いデザートだ。


デンデラノとひっつみ。
雪や地震や台風が少なく、ヤマセの吹かない暖かな瀬戸内で育った僕たちにはなじみのない事々だ。
賢治と啄木。
どちらもこの厳しい風土で一生懸命生き、若くして結核で亡くなった。
瀬戸内とはまったく風土の異なる東北で、いろいろなことを見て、いろいろなことを考えた。

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みちのく一人旅(その2):平泉から花巻へ(2019.7)

中尊寺と毛越寺

「みちのく一人旅」の第2回目は、旅の目的のひとつである宮沢賢治を訪ねる旅だ。
しかし、その前に、目の前の平泉を素通りするわけにはいかない。
仙台から東北新幹線に乗り、ついに岩手県に入った。
一関で東北本線に乗り換え平泉へ。

さすがに大型連休で、ほとんどの人が平泉で降りた。
一抹の不安を覚えつつ、レンタルサイクルで平泉を探索だ。
平泉のメインストリートは午前中から大渋滞だ。
全部、中尊寺に向かう車だ。

中尊寺の入口まで行くと、今度は駐車場に入るのに大渋滞だ。
当たり前だが、出る車がないと車は入れない。
車で来た人は、中尊寺までたどり着くのにいったい何時間かかるのだろう。
チャリでよかった。
しかし、この思いは数十分後に無残に砕かれることになる。

中尊寺は、入口からハイライトの金色堂まで結構長い。
坂道を沿道の塔頭を見ながら延々歩く。
と、長い2つの行列に行きついた。

聞けば、1つは金色堂の入場券を買う列だという。
そして、もう1つの列は、金色堂に入る列だという。
つまり、まず、長蛇の列に並んで入場券を買い、
その券を持ってまた別の長蛇の列に並ばなければならないということだ。

2つの行列を見て、ここで金色堂を諦めた。
とても残念だが、ここで無為に何時間も過ごすわけにはいかない。
杉木立の奥にチラッと見える金色堂
(正確には、金色堂を覆う鉄筋コンクリートの覆堂)を横目に、帰路についた。

しかし、渋滞で中尊寺までたどり着いていない人たちはどうなるんだろう。
丸一日、渋滞の車内と行列で終わってしまうのではないだろうか。

平泉で見たいものは中尊寺だけではない。
次の大きな目的は毛越寺だ。
毛越寺には平成元年に再建された本堂のほかは、池を中心とした広々とした園地がただあるだけだ。

なぜ毛越寺か。
国の特別史跡・特別名勝、そして世界遺産に指定されているからだけではない。
それは、この復元された庭園が、
日本最古の造園書「作庭記」の技法を伝える貴重な浄土庭園としてつとに有名だからだ。
造園を志したものとして、この毛越寺庭園は一度は見ておきたかったのだ。
「作庭記」に書かれていることが、実際の造園としてどのように実現されているか、見ておきたかったのだ。

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鑓水の石組み。
作庭記:「遣水の石をたつるにハ底石 水切の石 つめ石 横石 水こしの石あるべし」


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亀石と出島の石組み
作庭記:「たちいでたる石 あまたおきざまへたてわたして はなれいでたる石も せうせうあるべし」


賢治のふるさと

一関に一泊した後は、いよいよ花巻だ。
新幹線を降りると、新花巻駅には野球の展示コーナーがあった。
楽天イーグルスは仙台なのにと思って見てみると、大谷翔平と菊池雄星だ。
そうか、二人とも花巻東だったね。
今や二人とも大リーガー。花巻の英雄だ。

宮澤賢治に関する施設―宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、宮沢賢治イーハトーブ館―は、
新花巻駅から少し離れているが、歩いて行ける距離だ。
雨は降っているが、新花巻駅から歩き始めた。

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宮沢賢治童話村は、賢治童話の世界で楽しく学ぶ「楽習」施設。
写真は、賢治の世界を5つのテーマゾーンで表現した「賢治の学校」の不思議な空間「ファンタジックホール」

宮沢賢治記念館はこれらの中心施設だ。
今更ながら、賢治の多才ぶりを認識する。
地学、農学、化学、天文学、音楽、絵画、詩・俳句・短歌、童話、宗教…関わったジャンルの多いこと。
法華経が彼を貫く柱だったのはよく知っていたが、
相対性理論も知って学んでいたことは知らなかった。

アインシュタインは、彼が24才の時、来日したのだ。
宇宙に目を向け、時間さえも伸び縮みすることを彼は知っていたのだ
―「銀河鉄道の夜」がすぐ連想される。

「セロ弾きのゴーシュ」―実際に彼が弾いていたチェロが展示されていて、
彼がすぐそばにいるような気がした。
「永訣の朝」―妹トシの臨終の際の詩の原稿は、よく知っているだけに胸に迫った。

 けふのうちに とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)


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宮沢賢治記念館。
多方面に及んだ彼の思想や活動を実物資料と共に解説・展示している。

驚いたのは、小生の元々の専門である造園とのつながりだ。
前日の毛越寺が思い出される。
大正から昭和にかけて活躍した造園家に田村剛という人がいる。
国立公園の制度を創設した人だ。
この田村剛と賢治が関わりがあったことを初めて知った。

田村剛は、造園を意味する英語「Landscape Architecture」を「装景」という日本語に訳し、
その概念をわが国に持ち込んだ人だ。
賢治は、その概念をふまえ、装景手記というノートにこう記したそうだ。

 この国土の装景家たちは
 この野の福祉のために
 まさしく身をばかけねばならぬ

彼は、造園(装景)という仕事の重要性を認識していたのだ。
そしてそれ―環境デザイン―は、
「ほんたうのさいはひ」(本当の幸い)につながるものだと認識していたのだ。

ここでふとSDGsが頭に浮かんだ。
ここで賢治が言っていることは、
「貧困をなくそう」「飢餓をゼロに」「すべての人に健康と福祉を」…ということじゃないか。
「誰一人取り残さない」というSDGsの理念が、
「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」という賢治の言葉と重なる。
改めて彼の言葉をかみしめた。

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みちのく一人旅(その1):みちのく食紀行(2019.6)

ついに みちのくへ

平成から令和に移る10連休。またとないまとまった休みだ。
「どこかに出かけよう」と妻に言うと、
「腰の具合が悪いので動きたくない。一人で好きな所へ行ってくれば」と言う。
うちの夫婦は(というか奥さんは)「相手のために自分を我慢しない」が原則なのだ。
ならば、前から漠然と行きたいと思っていた岩手に思いきって行くことにした。

行くと決めたら、何はともあれ飛行機の手配だ。
東京のはるか向こうまで新幹線で行きたくない。
広島~仙台便をネットで調べると、連休2日目になんと!1座席だけ空いていた。
即、予約。もう決まった。岩手に行くんだ。

なぜ岩手か。
それは、敬愛する宮沢賢治のふるさと花巻と、
柳田国男の「遠野物語」の舞台の遠野に行ってみたかったのだ。
僕は昔から、感性や好みや志向が賢治と共通・共感するところが多々あり、
賢治が生まれ育ったところを見て、感じてみたかったのだ。
そして、ザシキワラシやカッパなどが棲んでいた遠野、
民俗学の原点となった遠野とはどんなところなのか、この目で見てみたかったのだ。

6泊7日の旅は盛りだくさんだったので、数回に分けてそのお話をしようと思う。
「知らない所へ行ったら、食べたことのないものを食べる」の大原則にのっとり、
まず最初は、「みちのく食紀行」から始めようと思う。

人も樹も青葉の街・杜の都

4月28日、僕は初めて仙台という街に降り立った。
仙台は若者が多い。なので、活気がある。
仙台駅前から広島の本通りのようなアーケード街がずっと続いている。
本通りよりもずっと距離が長い。そこに若者があふれている。
「札仙広福」と言うが、仙台に行って、これはヤバイと思った。
地下鉄のある札幌と福岡が広島を上回っているのは明白で、仙台はどうかと思っていたのだが。

仙台は駅前から繁華街である。
そして長いアーケードを中心にそれが延々と続く。
広島のように駅と繁華街が離れていない。
そして街の中に東北大学と東北学院大学がある。
若者の多さがそれを物語っている。
やはり、大学が街の中にあり、街と空港が軌道系で結ばれていなければだめだ。

そして、仙台という街の大きな魅力は、
広瀬川と青葉城(仙台城跡)だということがよくわかった。
まさに、杜の都だ。いい街だ。街はかくあるべし。

その長いアーケードを食べ物屋やお店を冷かしながら歩いていると、あった、あった。
露店で蒸しホヤを売っている。
広島では絶対見れない、まずは食べれないものだ。

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ホヤは、東京では普通に魚屋で売っている。刺身はコノワタよりも磯の香りが強い。
この蒸しホヤは、旅館の夕食で出た。


今度は八百屋が店舗の外にも台を出して何か売っている。
これは!と思って見てみると、すべて山菜だ。
フキノトウ、タラノメ、コゴミは広島でもあるが、行者ニンニクやコシアブラはあまり見ない。
それに、このウコギだ。
ウコギを売っているのは初めて見た。どうやって食べるんだろう。
後日知ったのだが、東北では「ウコギのほろほろ」という料理があり、春の風物詩のようだ。
これは、ウコギの新芽を茹でて刻み、
これに東北では定番の大根の味噌漬けをみじん切りにしたものと
炒ったクルミをみじんにしたものを混ぜて、ご飯にのせたりして食べるのだ。

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上段中央:行者ニンニクとタラノメ、下段中央:大根の味噌漬けとウコギ

そして、仙台といえば、牛タン。
これはテールスープと麦飯の3点セットがお約束だ。
そして、牛タンの付け合わせには青菜の塩漬けと青唐辛子の味噌漬け、
テールスープにはたっぷりの細切り白ネギがこれもお約束だ。
これで2千円弱。高いが美味い。美味いが高い。
しかし、テールスープのテールには肉がたっぷりついている。

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普通の感覚なら、付け合わせは千切りキャベツとなるところだが、菜物の塩漬けと青辛子の味噌漬けというところに東北を感じる。

岩手三大麺

岩手には三大麺といわれる麺がある。
すなわち、わんこそば、岩手冷麺、じゃじゃ麺である。
実はこれが目的で岩手に行ったと言われても仕方がない。

わんこそばは、ソバを入れる大きめのお椀とツユ、それにいろいろな薬味というか具というか
―ネギや海苔はもちろん、とろろ、なめこおろし、イクラ、山菜、漬物、はては天ぷらや刺身などなど―
がのったお膳がまず運ばれてきて、
次に例の小さいわんこに盛られたソバがお盆にのって出てくる。
1枚のお盆には、わんこが24~30杯のっていて、まずはこれが2枚出てくる。
大きめのお椀にツユを入れ、わんこのソバと薬味を放り込んで一口で食べる。これを繰り返す。
食べ放題の店だと、後ろに立ったおねえさんが食べた端からわんこにソバをどんどん放り込む。
ギブアップの時は、ツユの入ったお椀に蓋をするのがお約束だ。

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せっかちな僕が1時間行列に並んだ成果。これはインスタ映えする。

岩手冷麺は、いわゆる焼肉屋で食べる冷麺と同じものだ。
しかし、名物と言われると、普通の冷麺と比べ、何やらスープが深く、美味く感じてしまう。

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キムチによって適度に辛みがつく。スープが深い。

そして、特筆すべきは、じゃじゃ麺である。
これは中華料理でいう炸醤麺とはまったく異なるものだ。
まず、麺が独特である。
少し縮れて太くコシがあり、温かい。見た目はうどんのようだが、全く違うものだ。
そして、曲者は上に乗る肉みそである。
甜面醤の味ではない。
何とも形容しがたく、小生ともあろうものが、食べても材料やレシピが分からない。
肉みその下にはキュウリと白ネギ、皿の縁には薬味のおろしショウガと紅ショウガ(刻んでない1枚もの)。
これをよくかき混ぜて食べるのだが、最後のお楽しみが「チータンタン」である。

「チータンタン」とは「白卵湯」で、略して「チータン」という。
「チータン」を食べるのには独自のお約束がある。
まず、麺を一口だけ残し、カウンターの入れ物に入っている生卵を丼に「勝手に」割入れてかき混ぜ、
箸を添えて「お願いします」とカウンターのおばちゃんに差し出す。
おばちゃんはそれに少しの肉みそを加え、添えられた客の箸で卵と肉みそをさらにかき混ぜ、
それに熱い麺のゆで汁をお玉一杯注ぎ、客に返す。
これが「チータン」である。

早い話が肉みその残り汁で作るかき玉汁である。
広島で、汁なし担々麺の残り汁にご飯を入れるようなもんだ。
「チータン」を食べないと、確かにじゃじゃ麺を食べたような気がしない。

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現地の相場は600円。見た目は地味だけど、これがなかなかどうして・・・

岩手の三大麺を食べて、わが広島のことを考えた。
広島の三大麺って何だろう。
少なくとも、うどんとソバは入らない。
トンコツ醤油の広島ラーメンもあるが、九州ラーメンや札幌ラーメンほどのインパクトはない。
最近は影が薄いがラー油の効いた広島風つけ麺と汁なし担々麺、
そして「麺」と言われると少し苦しいが、やはりお好み焼きだろうか。

何につけ、オリジナリティというものは大切で素晴らしいものだ。
それは、その地域の人が独自にあみ出し、育んできたものだからだ。
僕は、そういうものが、とても好きだ。

次回は、つわものどもが夢の跡―平泉のお話をしたいと思う。

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すぐれたなごみ(2019.5)

テレビが劣化している

4月になって新年度が始まり、色々なものが新しく衣替えをして始まった。
特に、冬がシーズンオフのものは、その感が強い。
その最たるものが、プロ野球である。
「球春」という言葉もあるくらいだ。
カープファンとしては、待ちに待った春だ。
そのシーズンオフ、すなわち冬の間に気がついたことがある。
それは、「テレビが劣化している」という事である。

シーズン中は、移動日以外は野球中継がある。
今時は、広島ではジャイアンツの放送はなくても、カープの放送はほぼ毎日あるのだ。
しかし、シーズンオフの間は、夕方から夜にかけてのゴールデンタイムを
ほぼ毎日何かの番組で埋め合わせなければならない。
野球が始まり、やっとあの騒々しいだけのバカ番組から解放される。

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待ちに待った野球シーズンだ。
やっとあの騒々しいだけのバカ番組から解放される。


秋の終わりから春の初めの間は、どのチャンネルも毎日毎日バラエティー番組だ。
お笑い、クイズ、紀行もの、ジャンルは様々だけど、
どれもこれもスタジオの雛段に芸人を並べてのスペシャル番組だ。
雛段に並ぶ芸人も、お笑い芸人を中心に、またあいつかという輩が多い。

これは、ものすごく安直な番組の作り方だ。
テレビ局は自分で自分の首を絞めている。
お笑いのバラエティー番組でも、昔の「俺たちひょうきん族」などは、
出演者はもとよりプロデューサー自体が芸達者で、
番組制作にかかわる人みんなが面白がって番組を作っていた。
こんな番組が面白くない訳がない。
が、今は、ない。

そして、ドラマの劣化が著しい。
昨今のテレビドラマで、名前が残るようなドラマがあるだろうか。

逆に、改めてNHKの番組のすごさが分かる。
NHKの番組には、この1本の番組を作るために、
どのくらい企画を練り、構成を考え、どのくらい取材して、どのくらい撮影したのか
と思わず考える番組が多い。
そういう番組を見ると、画面には出てこないが、
プロデューサーをはじめとする制作に携わった人の熱意と誠意と努力が感じられ、
その人たちに思いをはせる。

でも、これは、仕方がないことと言えば、仕方がないことだ。
NHKは資金力が違うし、受信料が計算できる。
スポンサーに気を使い、必要以上に視聴率に縛られることもない。
民放の基盤と言える地上波テレビの広告費は減少を続け、
増加を続けるインターネットの広告費に、今やほぼ同額まで迫られているのである。

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2018年のインターネットの広告費は、前年比116.5%と5年連続で2桁成長となっている。
一方、地上波テレビの広告費は減少傾向にあり、2018年はインターネットの広告費とほぼ同額となっている。
資料:電通.2018年 日本の広告費


テレビが溶けていく

前から思っていることがある。
それは、みんなそんなにテレビを見る時間があるのだろうか、という事である。
普通のサラリーマンなら、テレビを見るのは平日は夕食から寝るまでのほんの数時間だろう。
休日といったって、それぞれそれなりにやることや行くところがあり、
日がら一日中テレビを見ているわけではないだろう。
昔と違って、今は働く女性も多い。

まあ、休日に撮りためたビデオや映画をのんびり見る事もあるかもしれないが、
それとて休日はいつもそうではないだろう。
WOWOWや有料チャンネルなど好きで見る人もあるとは思うが、
多くの人はそんなにテレビを見る時間はないのではないかと思うのである。

そして、スマホである。電車やバスでどれだけの人が下を向いて固まっているのだろう。
多分、家に帰っても、食事の時もずっとスマホを傍らに置いて、
着信があれば指を動かしでいるのだろう。

子どもたちは、自分の部屋で、
今やなくてはならない体の一部となったスマホと絡み合って家での時間を過ごす。
(小生は日本人が劣化していると思えてならない。いつ、本を読むのか)
いつ、テレビを見るのか。

そして、ここのところずっと話題になり、その結末に注目が集まっていたのが、
NHKのテレビ番組のスマホ視聴に受信料を取ることの是非である。
政府はさる3月に、
NHKによるテレビ番組のインターネット常時同時配信を認める放送法改正案を閣議決定した。
これは、受信料を支払っている人であれば、
ネット視聴のための追加負担は求めないということである。

しかし、これは、もし家にテレビがなくても、
スマホなどのネット環境があるだけで受信料を請求されるということなのだ。
テレビとスマホの境はますます曖昧になっていく。

ここ数年、出張でビジネスホテルに泊まると、テレビはすぐには見られない。
テレビのコントローラーの「電源」ボタンを入れると、まず、ホテルの案内などの画面になる。
知らないうちは、思わず部屋に置かれた「コントローラーの使い方」のカードを見る事になる。
最近テレビを買われた方は良く分かっておられると思うが、
「電源」の後に「地デジ」のボタンを押さなければならないのだ。
これまでのテレビは端的に言えば、「地デジ」(やBS・CS)を見るためのものだった。

今時のテレビは、番組視聴はテレビの一部の機能であって、
テレビはインターネットに接続して映像コンテンツを楽しむものなのだ。
小生の息子は、家にいる時はテレビはYou Tubeに接続し、ずっと音楽付きの画像を流している。
特に画面を見るわけでもなく、早い話が画像付きBGMだ。
番組を見るというテレビの使い方が、どんどん変わってきている。
テレビが溶解し始めている。

自動車も溶けて・・・

液晶だ、プラズマだと言っているうちに、東芝が、日立が、テレビから撤退した。
(日立ほど黒がきれいなテレビはないと思っていたのに残念だ)
そうこうしているうちに、今度は有機ELだ、4Kだ、8Kだ、AMはやめてFMだ、
基幹の通信技術では5Gだなどといっている。
ほんのここ10年の話だ。
テレビというものはどうなるんだろう。

テレビだけじゃない。
例えば、自動車というものはどうなるんだろ。
いかにレシプロエンジンが車の正統であろうと、
低炭素社会の潮流の中で電気自動車(EV)と燃料電池車(FCV)の流れは抗いようがない。
イノベーションの潮流の中で、自動車安全技術・自動運転技術の流れは抗いようがない。

そして、それらの技術開発には巨大な資金力と技術力が必要で、
とても一つのメーカーで対応できるものではない。
一方、需要側を見てみると、カーシェアリングの流れが大きな流れになるように見える。
それはすなわち、自動車を持つ人が減少することを意味する。
そしてそれは、自動車業界とIT業界が溶けあっていくようにも見える。

20世紀を席巻した自動車産業は、
21世紀はGAFA(グーグル(Google)、アップル(Apple)、フェースブック( Facebook)、アマゾン(Amazon))
のIT産業にとってかわられるのかもしれない。
いや、溶け合って、また別の物が生まれるのかもしれない。

優れた和み

4月になって新年度が始まり、今月から年号も新しく衣替えをして始まった。

 初春の令月にして 気よく風和らぎ

人間がこれまでつくり出したいろいろなものが、その垣根を超えて溶け合い、
融合して人々の日々の幸せにつながる新たなものを生み出していけるのなら、
こんな素晴らしいことはない。

来るべき時代が、どうか、
すぐれたなごみ-令和-でありますように。

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卒業(2019.4)

やあ、暗闇くん。僕の古い友だち

やあ、暗闇くん。僕の古い友だち。
また君と話しに来たよ。
だって、僕に忍び寄ってきたそいつは、
僕が寝てる間にかけらを残して僕の中に潜んだまま、
未だ静寂の音の中に潜んでいるんだ。

僕らの世代には懐かしい、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。
聞き慣れたギターのアルペジオとともに、♪Hello darkness, my old friend~と歌い始める。

何とも哲学的な歌詞だ。
いや、歌詞以前に曲のタイトルだ。
「静寂の音」なんて、仏教でいう「不二」そのものである。
「不二」とは、例えば生と死、有と無など、
互いに相反する二つのものは別々にあるのではなく、一つのものであるという教えである。

ところで、「サウンド・オブ・サイレンス」といえば、
これはもう、映画「卒業」である(映画のテーマ曲である)。

ダスティン・ホフマンが「エレーン!」と叫びながら、
教会で結婚式を挙げている花嫁(キャサリン・ロス)を略奪する最後のシーンは、
アメリカン・ニューシネマを象徴する名シーンである。
ダスティン・ホフマン演じるベンジャミンは、
この時初めて一人の男としてそれまでの自分を「卒業」するのである。

ダスティン・ホフマンは、この「卒業」がほぼ最初の出演映画だ。
僕は、昔から彼が非常に好きで、
その演技力の高さと背の低さ(167cm)がとてもナイスだ。
余談だけど、僕は、ダスティン・ホフマンとアル・パチーノはとてもよく似ていると思うのだけど。

心にしみる

前置きが長くなったけど、つい先日まで「卒業」の季節だった。
卒業式の歌と言えば、僕たちの頃は小学校からずっと「仰げば尊し」だった。
これしかなかった。

ところが、昨今は、「旅立ちの日に」である。
この曲は埼玉県秩父市の中学校の先生たちが作った合唱曲で、
今時の卒業式の定番ソングになっている。
聞いてみると、これは確かにいい曲だ。
他にも、海援隊の「贈る言葉」なども実際の卒業式で歌われているという。

近頃では「卒業ソング」というジャンルがあり、
この時期には様々な「卒業ソング」のランキング等が発表されている。
「卒業ソング」を眺めていると、ひとつの傾向があると思う。
卒業には一般論として小・中・高・大学校があるが、
歌の中心となっているのは中学校だと思うのである。

先の「旅立ちの日に」も中学校の先生によるものだが、
アンジェラ・アキの「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」(これもいい曲だ)や
尾崎豊の「卒業」なども中学卒業のことを歌っている。
中学生から高校生へという二度と戻ってこない多感な思春期のど真ん中で、
未来に向かっての別れが彩られるのは、よく理解できる。
だから、心にしみる曲が多いのだ。

「卒業ソング」というジャンルの中には、卒業式で歌うことは多分ないけれど、
別れや旅立ちをテーマにした曲が多い。
長淵剛「乾杯」、荒井由実「卒業写真」、赤い鳥「翼をください」、中島みゆき「時代」、
森山直太朗「さくら」、イルカ「なごり雪」、柏原芳恵「春なのに」などなど。
みんないい曲ばかりだ。
どれも心に引っかかってくる。

これは、春という季節が、
冬から目ざめ、光にあふれ、花が咲き、暖かさに包まれ、希望に満ちた季節であるとともに、
必然的に訪れてくる別れというやるせない季節であることがその背景にあると思う。
上記の最後の2曲、「なごり雪」と「春なのに」はまさにそれを歌っている。

特に、僕の場合、「春なのに」だ。
この歌の歌詞はごくありふれたものなのだが、
なぜか我が身に焼き付けられる部分が多く、何でだろうと思っていた。
実はこの曲は、中島みゆきの作詞・作曲なのだ。
どうりでねと、納得したものだ。

卒業式の記憶

卒業式というものは、子どもより親のためにあるように思えてならない。
自分の卒業式など何も覚えていないのに。
子どもの卒業式には幼稚園の卒園式から始まり、妻が必ず行った。
幼稚園の卒園式で、子どもは一人も泣いていないのに、
新任の若い男の先生(保育士)が一人で泣いていたとか、
自分は行かなかったが、いつも妻から式の様子は逐一聞いた。

ただ、次男の場合は、中高が小生の出身校だったため、
高校の卒業式は妻ではなく、小生一人で自ら希望して行った。
当校の卒業式には、卒業生が式の途中で「ちょっと待った!」と注文をつける有名なイベントがあり、
それを見たかったこともある(小生の頃にはなかった)。

小生はというと、来し方を振り返って卒業式のことを思い出してみようとするのだけど、
これがほとんど思い出がない。
小学校の卒業式のことは遠い遠い忘却の彼方で、全く覚えていない。
中学校は、中高一貫校だったので、これもほとんど卒業式をしたという記憶がない。
高校は、大学受験(当時は押し迫って二期校もあった)と予備校受験で
3月末まで右往左往しているうちに同級生とはバラバラとなり、
これも卒業式をやったという記憶がほとんどない。
大学は大学で、1年余分にやった関係で同級生はほとんどいない卒業式など全く行く気もせず、
これも卒業式に行った記憶がない。

しかし、当然と言えば当然だが、なぜか卒業証書はすべてあり、
いつどのようにしてもらったか、すべての学校で全く記憶がないからひどいものである。

卒業証書はただの紙ではない

まだ昭和だった頃(なんと、今日で平成も終わる)、
伝統和紙を地場産業にもつ地方都市で、「手づくり卒業証書」に取り組む自治体があった。
子どもたち自らが体験学習で工房で和紙を漉き、
自分で漉いた和紙で卒業証書を作るというものである。

まちづくりの仕事をやっていた僕も、いくつかのまちで提案した。
自分で作った、自分だけの、どこにもないオンリーワンの卒業証書。
卒業証書は賞状ではない。
「ナンバーワンよりオンリーワン」なのだ。

数年前、出前授業で広島市の小学校に伺った際、
校長先生と話をしていて、千羽鶴で作った卒業証書の話を聞いた。
広島の平和公園の「原爆の子の像」などにささげられる千羽鶴は毎年約10tにものぼり、
そしてそれは2000年までは「ごみ」として焼却処分されていたという現実を、
広島市民でさえ認識している人は少ない。

誰が悪いのでもない。
仕方のないことではあるが、
世界中の人の祈りや善意の塊である折り鶴の末路がこれでは、
何ともやるせない話である。
このことが報道されて世論が高まり、広島市は以後、折り鶴を「永久保存」することとしたのである。

しかし、毎年約10tのものが積み上がっていくのである。どうするんだろう?
このような現実に問題意識をもった人が設立したのが「NPOおりづる広島」である。
「NPOおりづる広島」は、「おりづる再生プロジェクト」を立ち上げ、
折り鶴を回収し、授産施設の協力により「おりづる再生紙」としてリサイクルし、
ハガキや名刺等の製品作る活動を展開している。

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平和公園の「原爆の子の像」と折り鶴収納ケース(後方)

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折り鶴収納ケースの中には、もはやタペストリーというべき折り鶴で作られた作品がぎっしり詰まっている。

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広島市職員の名刺は、おりづる再生紙の名刺だ。
おりづるのロゴと共に「この名刺は平和記念公園の『原爆の子の像』に捧げられた折り鶴の再生紙「おりひめ」を使用しています」とある。


さて、最初の話に戻ろう。
このような中、広島市では、2015年から
「本市で育った園児児童生徒が、卒園・卒業の節目に、平和と希望の象徴であるヒロシマに捧げられた折り鶴を再生した卒園証書・卒業証書を手にすることにより、改めて、世界の人々の平和への思いや願いを共有し、そして継承していくとともに、郷土広島への愛着や誇りを一層強くすることが期待できる」
として、全ての市立幼稚園・小学校・中学校・高校・特別支援学校で
折り鶴を再生した卒園証書・卒業証書を授与することとしたのだ。

仙台では2017年、東日本大震災からの復興を祈って仙台市の小中学生が作り、
仙台七夕まつりで飾り付けられた折り鶴から作られた卒業証書が
市内の中学校の卒業式で卒業生に手渡されたそうだ。
この折り鶴の再生紙は、同市出身の羽生結弦選手への市特別表彰にも使われたそうである。

通り過ぎていったこと

「卒業」とは、ある段階や時期を「通り過ぎる」ことだ。
卒業証書は、そのひとつの証だ。
「通り過ぎる」とは、必ずしもステップアップとは限らない。
時がいかように通り過ぎようとも、暗闇は僕の古い友だちで、それはこれからも変わらない。
ただ、通り過ぎていったことは、経験と記憶として残る。

あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう
(中略)
この支配からの卒業
闘いからの卒業

  ~尾崎豊「卒業」より~

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