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快適な環境-その広くて大切なもの(2020.01)

宙ぶらりんの「快適環境」

とある自治体の環境基本計画の策定に携わった。
環境基本計画では、その対象として5つの環境分野を設定するのが一般的だ。
5つの環境分野とはすなわち、生活環境、自然環境、快適環境、地球環境、
そしてそのすべてに関わってくる環境保全活動の5つである。

ところがその自治体は、「快適環境」とはいかなるものか分かりづらいとして、
それを生活環境に組込み、4つの環境分野とした。

快適環境は、緑や水辺とのふれあい、景観、環境美化、歴史・文化的環境などを言い、
公害や廃棄物、生きものなどの「環境」らしい環境と異なり、
環境の要素が様々なものとクロスオーバーした特定の分野に入りきらない部分である。

快適環境は、純然たるいわゆる「環境」の分野ではないうえ、
境界が曖昧でそのすそ野はどんどん広がり続けている。

行政の所管業務

特に、所管が明確で縦割りになっている役所では、
快適環境は他部門のテリトリーとクロスオーバーしている部分が多いため、
具体的な行政の取り組み≒事業を明らかにする段になると、いろいろと波風が立ち、
結果、当り障りのない表面的な計画になってしまうことが少なくない。

例えば、河川の水質は環境分野の大きな項目であるが、
多くの自治体ではその改善を左右しているのは下水道を中心とした排水処理施設整備である。
そして、下水道は国交省管轄であり、
役所では環境部門ではなく建設部門(下水道課)が担っている。
下水道課からいえば、
自分たちの事業に対して何で関係のない環境部門が口出しするのかという事になる。

一方で、仕事で色々な役所の人と話をしていると、環境部門の人の愚痴をよく聞く。
「何でそれをうちでやらなきゃいけないの?」典型的なものは、エネルギー施策である。

エネルギー施策は、国では経済産業省が所管だが、多くの自治体では所管する部署はない。
しかしそれは、仕方のないことなのである。電力行政は元々国の施策だったからである。

しかし、ここにきて、エネルギー施策≒地球温暖化対策なのである。
そして、地球温暖化対策は環境省の所管である。
さらに、農水省はバイオマス、国交省は低炭素というように、
視点や形は違えど目指すところは一緒のCO2削減の事業が各省庁に広がっているのである。

CO2削減という看板や役所の縦割り体制の中で、
自治体の中で行き場を失ったこれらの事業は環境部門に流れ込んできて、
環境部門の人は「何でもやる課」化せざるを得なくなっている。
そして先のような愚痴となって出てくるのである。

組織を担当する内容で役割を決めることは当然のことである。
しかし、近年は時代のスピードが相当速い。
従前のような縦割りでは組織がうまく回らなくなってきている。
緩い縦割りにして、所管に縛られずに自由に動ける人間をつくることなど、
組織改革が必要なのではないだろうか。

環境の「質」からの発想

一般社会においても、近年では、
企業経営で環境・社会・経済に配慮を求めることを意味する「トリプルボトムライン」や
「ESG」という言葉に代表されるように、
環境は社会・経済と密接につながりを持つことが認識されはじめている。

さらに、このコラムでも何度かとりあげているSDGsでは、そのすそ野はより広く拡大している。
SDGsでは、景観や緑化、歴史や文化どころか、
貧困や飢餓、平和や公正なども目標とし上げれられているのである。

「快適環境」は、環境の「質」についての概念であり、
そういう意味からは、実は、最も重要な環境の分野ではないかと小生は思うのである。

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「快適環境」は、SDGsでは直接的にはこの3つの目標に関連してくるんじゃないかな。
もちろん、17の目標すべてに関連してくるものだけど。

「アメニティ」の歴史

今を去る40年以上前、ランドスケープを学んでいた学生の時に、
助教授が突然「アメニティ」という言葉を研究室に持ち込んできた。
「快適性」と訳されるこの概念は重要なので、これから日本に定着させなければならないと。
君たちもこの言葉について一緒に考えろと。

快適-気持ちがいいということ-がなぜそんなに重要で、ことさら言い立てるのか分からない。
当時、僕たちは初めて聞くアメニティという言葉を、
「アメネテ」などとちゃかした言い方をしたりして、研究室で一時流行語になっていたほどだ。

アメニティ(amenity)は、ラテン語の「愛」(amare)に語源を持つイギリスの言葉であるが、
その当のイギリスにおいても、定義づけは難しいと言われているそうである。
研究社の新英和中辞典では、
「(場所・気候などの)ここちよさ・快適さ、(人柄などの)好もしさ・感じよさ」とある。

しかし、環境庁は昭和59年に「快適環境整備事業(アメニティタウン計画策定事業)」、
昭和62年に「アメニティマスタープラン策定事業」を開始した。

コンサルに就職した小生は、早速その委託業務の受注に苦慮することになる。
学生の時、もっと突っ込んでアメニティを学び、
関係する学・官の人たちとの人間関係を作っておけばよかった。
今から思えば、このような事業の制度設計を前に、助教授はそのベースとなる概念を検討し、
整理しておきたかったのだろう。

我が国では、昭和51年、OECDの東京レビューにおいて、
公害対策の成果が高く評価された一方、
環境の質(アメニティ)の低さを指摘されたことから、アメニティという言葉が認識され始めた。

アメニティという文言が直接入るのは環境庁の事業だが、
建設省の「都市景観形成モデル事業」や「手づくり郷土賞」は、
アメニティという概念の導入とともに始まった事業で、
特に、景観関係の事業の源流はここにあると言っても過言ではない。

また、河川の「河川環境整備事業」、道路の「シンボルロード整備事業」など、
多くの分野で関連事業が生まれた。
特に河川においては、従来の治水・利水に加え、水辺とのふれあいの重要性が再認識され、
「親水」という言葉が以後広く使われるようになった。

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「アメニティ」はまちづくりの重要なキーワードだった。環境の側面からの都市計画では不可欠の概念だった。
(資料:ふるさと・アメニティ・まちづくり.アメニティ・タウン研究会、日本環境協会他.ぎょうせい.1989)

「アメニティ」の変貌

あの頃から30数年、今ではアメニティとは、
歯ブラシや綿棒などのホテルの衛生備品だと思っている人が多い。
「アメニティ」をネットでググれば、
業務用アメニティと称してシャンプーやリンス、ボディーソープなどが出てくる。
アメニティグッズなどといったい誰が名付けたんだろう。
そりゃあ快適さをウリにするものには違いないけど。

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これが「アメニティ」だなんて・・・

「愛」(amare)の語源に立ち返り、誰にとってもfeeling groovyな環境とはなどと、
あの頃のアメニティの理念についての熱い議論を知っている者としては、
その落差の大きさに苦笑するしかない。

冒頭で述べたように、快適環境が意味するものは一般市民にはなかなかその像を結ばない。
ともあれ、「快適」とは環境の質のことであり、
「快適環境」という分野がいかに広く、重要な分野であるか、
それはこれまでご紹介してきたとおりである。

| コラム | 15:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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とってつけたような話(2019.12)

「カップ」と「コップ」

コーヒーを飲みながら、ふと思ったのだ。
何でカップには取っ手がついてるんだろう。
だって、湯呑みには取っ手はついてないじゃないか。
しかし、コップやグラスには取っ手はないということから考えれば、
熱いものを飲むものには取っ手がついているのは理にかなっている。
じゃあ、湯呑みはどうするんだ。

熱いものを飲むものには取っ手がついて「カップ」といい、
冷たいものを飲むものには取っ手がついてなくて「コップ」という。
待てよ、英語では「カップ」は「cup」、「コップ」は「glass」で、「コップ」という英語はない。
じゃあ、「コップ」って何語だ?

調べてみると元々はオランダ語だそうだ。
先の「glass」は「コップ」以前に「ガラス」という意味だが、「ガラス」もオランダ語だそうだ。
英語の「glass」の発音は「グラース」で、「ガラス」ではない。
面白いもんだね。

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「カップ」と「コップ」でいろいろ考えたのだ。

「とって」をとってしまったら

洋と和の違いを探ろうと思って和英辞典で「とって」を引くと、
「handle(柄)、grip(器物の)、knob(ドアの)、pull(引手)、ear(水差の)」などとある。
どうやらカップの取っ手は「ear」のようだ。なるほど耳の形をしている。

そこで今度は器具や道具で日本のものと違った取っ手がついている西洋のものを考えてみた。
まず浮かんだのはノコギリである。
日本のノコギリは柄がついているが、西洋のそれは片手で握るグリップになっている。
同じようなパターンはサーベルだ。
日本刀のように柄を両手で持つのではなく、片手でグリップを握る。

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西洋ノコギリは取っ手(グリップ)を握って使う。

余談だが、研究社の和英辞典で「totte」は「把手」とあり、
同じ研究社の英和辞典で「ear」を引くと「取っ手」とある。
同じ会社の辞典なのにおかしいじゃないか。
「把手」と「取っ手」はどっちが正しいんだ?

新明解国語辞典(三省堂)によれば、
「取っ手」は戦後の表記で、「把手」と書くのが正式なのだそうだ。
考えてみれば、「取手」と書かずに「取っ手」と書くのも変な話だ。

千葉に住んでいた小生とすれば、「取手」は常磐線の「とりで」である。
「とりで」と混同するので「取っ手」と書くのかなと思ったりもしてみた。

元に戻って食器を考えれば、
西洋のものは片手でつまんだり、両手で左右の取っ手を持つものが多い。
例えば、ワイングラスやカクテルグラスだ。
足がついていて、そこを(持つのではなく)つまむようになっている。
日本にこんな食器があるだろうか。

両手で左右の取っ手を持つものは鍋の類に多い。
一般的な両手鍋は元から日本にあったものではない。
左右に取っ手があるものは、一般的な両手鍋のほか、パエリア鍋やキャセロール、グラタン皿などなど。
西洋にはオーブンというものがあるのも一因なのかもしれない。
日本の食器で左右に取っ手があるものは、土鍋ぐらいしか思いつかない。

湯呑みはどうするんだ。
熱いものを飲むのに取っ手がついていないじゃないか。

ところで湯呑みは、ちゃんと言えば「湯呑み茶碗」だ。
これもよく考えてみれば面白いことだ。
お湯というより、お茶を入れる碗だから「茶碗」だ。
しかし、「ちゃわん」はご飯を入れるものだ。
「碗」は食物の入れ物のことだが、「おわん」は味噌汁など汁ものを入れる入れ物だ。

碗の作法

さて、「湯呑み」にせよ「ちゃわん」にせよ「おわん」にせよ、
取っ手のない日本の食器は右手でつかんで持ち上げ、
左手で碗の底と上の縁を挟むようにして持つのが作法だ。

西洋料理のように、皿はテーブルに置いたままではない。
碗は必ず手に持つ。
碗をテーブルに置いたまま食べるのは「犬食い」といって、下品なマナー違反である。
お茶を飲むときのように箸を持たない場合は、左手で碗を支え、右手は碗を包み込むように添える。

ところで、茶道でお茶を飲むとき茶碗を回すが、これは何の意味があるのだろう。
それは、茶碗にはそれぞれ顔があり、顔には正面があるからだ。

亭主は、茶碗の正面を客に向けて出す。
しかし、客は、正面からいただくことは避ける。
それは、出されたものを謙虚にいただくためである。
正面を避けるために茶碗を回す
。いただいた後は、今度は逆に回して正面に戻す。

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湯呑みには両手を添えて。日本のかたち。

「とって」がないのはとってもすごい

手で持つものは、持ちやすいよう取っ手をつけるのは当たり前のことである。
しかし、「湯呑み」はもとより、「ちゃわん」や「おわん」には取っ手はない。
当たり前のことだ。が、これはよく考えるとたいへんなことだ。
当たり前のことではない。

碗を両手で包み込むようにおしいただくかたちには、日本の文化が込められているように思うのだ。
陶器の質感や手触り。
伝わる温もりや冷たさ。
包みこみ、育くみ、大切にし、いとおしむ。

片手でつまんでひょいと持ち上げることでは決して得られないいろいろなことを、
その感覚を、われわれはずっと昔から培ってきたのだ。
しかも、相手がいる場合は、相手の気持ちを感じ、相手に感謝し、
謙虚な気持ちで正面を避けて碗を受ける。

たかが食べ物や飲み物の入れ物。
その入れ物と、それに入ったものを食べたり飲んだりするというありふれた日常のありふれた動作にまで、
これまで積み上げられた精神の文化がある。
それは、とってもすごいことだと思うのである。

振り返れば今年一年は、ゴールデンウィークまでは「令和」で盛り上がったものの、
それ以降は、7月の「京アニ」事件、9月のカープのペナントレースからの脱落、9・10月の台風15号・19号・21号、
極めつけは首里城の炎上と災難の多い一年だった。

来年は、オリンピック・パラリンピックの年でもあり、佐々岡カープも新生し、
とってつけたような良い年でありますように。
みなさまにも良い年でありますように。

| コラム | 10:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ドレスコードについて考えた(2019.11)

ドレスコードと常識

先月は「常識と非常識の間」と題してクール・ビズをとりあげた。
先月のコラムを書いた後、ファッションと常識についていろいろ考えてみた。

「ドレスコード」という言葉がある。
日本語では、「服装規定」と訳される。
狭義には、例えば格式の高いレストランで「当店では上着着用をお願いします」などという
服装に関する決まりのことを言う。
広義には、例えば冠婚葬祭時の礼服が典型的だけど、ビジネスマンのスーツもこれにあたる。

このコラムにも何度か書いたけど、
小生は昔から特にスーツというドレスコードに少なからぬ疑問をいだいている。
昔から、そのことの意味を考え続けている。

ドレスコードの意味は、それはもうTPOだ。
その場にふさわしい服装というものがある。
特にそれが儀礼的な場であればなおさらだ。
お祝いの席で、悲しみの席で、当然かくあるべきという服装があり、
それはもう当たり前の常識というべきものだ。
この常識は、人間が社会生活の中で積上げてきたものであり、何ら異を挟むものではない。

そのTPOだけど、冠婚葬祭のような特殊な場ではなく、日常的な社会の場ではどうだろうか。
外回りや接客中心の仕事では求められる服装というものがあるだろう。
しかし、内業中心の仕事でスーツが必要なのだろうか。
上着やネクタイを取って身も心も自由に動ける状態で仕事をしたいと小生は思うのだけど。

窓口業務でも、接客の典型というべき役所の市民課などの窓口は、
思い思いの私服を着た女性ではないか。
みんなそれで良しとしているではないか。
航空機の客室乗務員や百貨店の販売員、銀行の窓口の女性たちにも#KuTooという運動が広がり、
働く女性のドレスコードの「常識」に異が唱えられるようになった。

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ジョンソン・エンド・ジョンソンは、「#スニ活」キャンペーンを行っている。
社会動向を見極めながら、消費者を味方につけながら、そして、さりげなく自社製品をアピールしながら、ドレスコードに柔らかく切り込んでいる。
(資料:バンドエイド ホームページ)

制服(スーツを含む)というドレスコードは安寧である。
そのとおりにしていれば、その群れから排除されることはない。
なぜそうしなければならないのか、「その場」とは何なのか、いかにあるべきなのか…
という考える力を失ってしまう。
安寧な群れに埋もれ、本質を見る目や確固たる意志も持たず、ただただ異質なものを排除しようとする。

「崩す」ということ

しかし、ドレスコードは必要なのだ。
ドレスコードは正式な形だ。正式な形のないところに崩した形はない。
楷書があるから行書や草書がある。真があるから行・草がある。
「崩す」という概念は、正式な形というものがあって、初めて定義される。
だから、「崩す」ためには正式な形をきちんと理解し、わきまえていることが必要なのだ。

千利休は「真を知り、行・草に至れば、いかほど自由に崩そうと、その本性はたがわぬ」と言ったそうだ。
正式な形を知らずに崩したと言っているのは、崩したことになっていない。
「崩す」ためには、正式な形を表現できる以上の力量が必要なのだ。
だから、「崩す」ことは粋だが結構、いや、かなり難しい。
フォーマルにカジュアルな小物を合わせたり、シャツのボタンをはずしたり…
着崩すことは、珍奇さやだらしなさと紙一重なのである。

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真・行・草はどこにでもある。庭にして然り。
延段(のべだん)の上から真・行・草 (写真:筆者撮影)


日本人は真より草が好きだ。
几帳面に書かれた楷書より、カナかと思われるぐらいに崩された草書に美を感じる。
公式行事での盛大な供花より、一輪挿しに生けられた一本の山野草に心惹かれる。
日本人には持って生まれた普遍的な「崩す」DNAがあるのかもしれない。

時という浄化・変換装置にもまれると、
崩した形や簡略化した形、特化した形が熟成されて新たな正式な形になっていく。

スーツは最初からスーツだったのではない。
スーツはそもそも、19世紀に当時の正装だった膝丈のフロックコートを、
普段着としてくつろげるよう短く崩したものが原型だ。
それが時を経てビジネスマンの正装になったのだ。

トレンチコートはもともと第一次世界大戦のイギリス軍の防寒用の軍服だったものが、
ファッション性が磨かれてコートの定番(バーバリー!)となったものだ。

ドレスコードという常識は、社会の変化を受けて変化していくものであり、
決して固定化された不変のものではないのだ。

新たなドレスコードの誕生

ドレスコードは記号である。
スーツや礼服だけがドレスコードではない。
ドレスコードにより、それをまとった人がその属性や思想を表現・主張し、
同じ属性や思想の人と集まる。
それを見る人は、そのドレスコードによりそれを読み取る。

たとえば、ある分野の特殊なファッションがそうだ。
ルーズソックス、ワンレン・ボディコン、ガングロ・ヤマンバ、ゴスロリの女の子。
特攻服、卒ラン、迷彩服、ニッカボッカのヤンキーや暴走族。
そんな大人が眉をひそめるようなドレスコードもあれば、
TシャツにジャケットとGパンは、ベンチャー企業の経営者のドレスコードだ。
主義・主張は違えど、既存の常識とよばれるドレスコードに異を唱えていることは共通している。

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ガングロ・ヤマンバという言葉は今の若者にはもう通じないだろうなあ。
ドレスコードの盛衰は激しい。


先日、京都に行った。
レンタル着物花盛りで、日本人だけでなく、着物を着た外国人がやたらと多い。
ヒジャブを被ったイスラムの人や黒人の人もいる。
日本人かと思えば、韓国語や中国語が聞こえてくる。
でも彼らの民族衣装は着物と同じ文化圏だ。

違う文化圏の西洋人が目からウロコだ。
足袋に草履や下駄もいるが、靴も結構いる。
今時、地下足袋のような指が割れたパンプスも売っている。
でかい外人の男性が膝丈ぐらいのちんちくりんの着物を着て靴下と靴が丸見え、
というのもたまにいるが、彼らは実に満足そうに見え、屈託がない。

そういう中で、着物を着て、洒落た帽子やブーツでキメている人はカッコイイ。
着物には足袋に草履というドレスコードの罠に僕たち日本人自体が陥っているのかもしれない。

奇妙キテレツな格好の女の子や品の悪いヤンキーの身なりには眉をひそめるが、
スティーブ・ジョブズやザッカーバーグがカジュアルな格好をしていれば、
そういうものかと受け入れてしまう。

ベンチャーの旗手たちは、既存のドレスコードを旧型の発想や仕組みのシンボルとして柔らかく糾弾し、
そんなものに身を包んでいたら新しい発想はできないよ、
自分たちはそういう人間ではないんだよということを発信し、
新しい記号を作っているのだ。
新しいドレスコードが生まれようとしているのだ。

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常識と非常識の間(2019.10)

色と環境

環境の分野では、特定の色がよく持ち出される。
そしてその表現は必ずカタカナ(英語)である。
その一番手は「グリーン」だ。
グリーン購入、グリーンコンシューマー、グリーンインベスター、グリーン電力、グリーンツーリズム、
そして、緑のカーテン、緑の党。

グリーン=「環境に優しい」という良い意味で使われる。
グリーン→植物→自然→環境というロジックの流れだ。
唯一、昨年アカデミー賞をとった映画「グリーンブック」では、
人種差別下の黒人専用のガイドブックだったけど。

辞書を引いてみると、
国語辞典、英和辞典とも「グリーン」に「環境に優しい」という意味は記載されていない。
比較的最近新しい意味をもたされた言葉であることがうかがえる。
いろいろな環境ラベルにも緑色を使用したものが多い

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そのものズバリ「グリーンマーク」は、原料に古紙を規定の割合以上利用していることを示す環境ラベルだ。
(資料:公益財団法人 古紙再生促進センター)


グリーンの補色のレッドはどうだろうか。
環境の分野で「レッド」といえば、これはもうレッドリスト、レッドデータブック(RDB)だ。

余談だが、昔、社内の人間とRDBの話をしていてどうもかみ合わない。
情報システム担当の彼にとっては、
RDBとは「リレーショナル・データベース」のことだと分かるまでに多少の時間を要した。

環境のシンボルともいえる緑と異なり、
赤は、信号機や標識に象徴されるように、人間にとっては本能的に停止・禁止のサインである。

青は、ブルースカイ、ブルーシー、ブルーアース、ブループラネットなど、
空や海の美しさや深みを象徴する色であり、地球を代表する色である。
従って、「宇宙船地球号」の概念が語られる時は必ずと言っていいぐらい採用される色で、
環境とのかかわりは深い。

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地球(ブルーアース)をだっこした「エコマーク」は、当然、ブルーだ。
(資料:公益財団法人 日本環境協会)


形容詞と環境

特定のカタカナ形容詞も環境の分野で最近よく使われる。
その動きは「クール」から始まった。そう、「クールビズ」である。
「クール」が出れば「ウォーム」が出てくるのは世の常だが、
「クール」が出た時、「ウォーム」はセットではなかった。

「家の作りやうは、夏をむねとすべし」(徒然草)なので、
「クール」がまず出てくるのは当然の理なのだ。
羽田首相が半袖のスーツで登場した「省エネルック」は、今となれば「ちょっとね」と言う感じだが、
あれは勇気がいったことだと思う。

最近では暑い夏に家でクーラーをかけるのではなく、
公共施設や商業施設等に出かけて涼む「クールシェア」という取り組みを環境省が推奨している。

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(資料:ひろしまクールシャア特設サイト(広島県))

「クール」という英語には、「冷静な」「理知的な」という意味もあるが、
これに似た意味で近年よく使われるカタカナ形容詞が「スマート」である。

「スマート」とは、「かっこいい」という意味ではなく、「賢い」という意味である。
典型的なのがスマートフォンで、小さなパソコンでもありカメラでもある「賢い」電話という意味なのだ。
スマートキーは、持っているだけで施錠・開錠できる賢い鍵なのだ。
環境の分野では、主にエネルギーに係るまちづくりに関して使われる。
スマートシティ、スマートコミュニティ、スマートグリッドなどなどである。

クールビズの戦い

クールビズは、2005年に、
そもそも小泉内閣の環境大臣であった小池百合子が首相からアドバイスされて始まったものだ。
余談だが、マータイさんの「もったいない」のアピールなど、
当時の小池さんは頑張っていて新鮮だったよね。
クールビズも進化をとげ、今では「スーパークールビズ」まである。

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環境省におけるクールビズの服装の可否(資料:環境省)
スーパークールビズでは、Tシャツやジーパン、サンダルも「TPOに応じた節度ある着用に限り可」としている。
う~む。「TPO」「節度ある」がミソだなあ。


しかし、クールビズが出た当時は、すんなりいかなかった。
特に政界において賛否両論というより反発が多かった。
亀井静香は「だらしがない」として酷評した。
有権者には礼儀正しく接しなければならないとう彼の気持ちは間違ってないと思う。
彼が閣議で閣僚のクールビズが申し合わされても、
最後までネクタイ・スーツ姿で通したことは、信念を貫きまことにあっぱれである。

一般国民からいえば、機能的で省エネにつながるクールビズは、悪いことは何もないのだが、
表があれば裏があり、右があれば左があるのが世の常で、
クールビズは悪いことと考える人もいるのである。

例えば、ネクタイ業界。
小生の妻の親友が山梨のネクタイ製造会社の跡取り息子に嫁いだのだが、
(それで山梨がわが国のネクタイ製造業の一大集積地だという事を初めて知った)
日本ネクタイ組合連合会がクールビズの廃止を陳情したことはあまり知られていない。

しかし、決定打となったのは、
2011年の東日本大震災の福島第一原子力発電所の事故による電力不足である。
これ以降、クールビズは公務員が率先する形で社会的に認知され、
夏季はノーネクタイ・上着なしが常識になった。

夏でもネクタイ・スーツ姿の人を見ると、
暑がりの小生は、なんでそんな恰好をしてるんだろうと同情するとともに、
逆に暑そうで不快になってしまう。

クールビズから見える「常識」

というわけで、クールビズは社会的に認知されと思う。
ネクタイ業界は別にして、夏をむねとすべき日本で、
わざわざネクタイを締め、スーツを着て難行・苦行を続ける必要は全くない、
と小生は思うのである。
しかも、近年は夏が暑くて長い。
9月はもちろん、10月も30度近い日がある(今日もそうだ)。
一年の半分はクールビズ期間だと思う。

で、思うのである。
ネクタイ・スーツとは何かと。常識とは何かと。

皆が横並びになることが常識ならば、ノーネクタイ・上着なしも常識といえるんじゃないか。
いい例が沖縄だ。
かりゆしはカジュアルだが、沖縄では同時にフォーマルだ。
それが沖縄の常識だ。礼を失することはない。
ノーネクタイ・上着なしの方がネクタイ・スーツよりも気候に合うのなら、
それが常識になっていっていいんじゃないか。

そうせざるを得ない状況になったら今までの常識も変わる。
計画停電で目が覚めた省エネが不可欠のものであるならば、
それに反する今迄の常識は非常識になるんじゃないか。
常識に従い、横並びになっていれば道を誤らないのだろうか。

常識は結構もろいものだ。
クールビズという常識に礼の側面から疑問を挟み、
横並びになることを頑として拒んで信念を貫いた亀井静香は、その点で素晴らしいと思う。

常識に従い、横並びになっていることはとても楽だ。
しかし、それは、考える力を奪ってしまう。
常識を疑い、自分の考えに従って行動することはしんどい。

僕は、それは本当なのか、なぜそうなのかと、いつも考えることができ、
行動できる人間でありたいと、いつも思っている。

今日から10月。
まだ夏日だというのにクールビズは昨日で終了。
30℃なのに、長そでネクタイ。
暑がりの小生の常識や、如何にあらむ。

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みちのく一人旅(その4):盛岡(2019.9)

心に刻まれた風景

最初は特に行くつもりはなかったのだけど、せっかく岩手まで行くのだから、
多分もう行く機会はないだろうから、最後に盛岡まで足をのばしてみようと思ったのだ。
ガイドブックとにらめっこして、駅に近い「啄木新婚の家」から市内巡りをすることにした。

盛岡駅を出て、駅前の「開運橋」という縁起のいい名前の橋を渡っていて、
アッと思わず声が出そうになった。

大きな山が突然目の前に現れた。
5月だというのに雪をかぶった大きな山だ。
岩手山だ。
広島生まれ・広島育ちの僕にとって、こんな風景見たことない。

何という風景だ。
街の真ん中、しかも駅前。
流れる川は北上川だ。
何という風景だ。
これこそまさに「ランドマーク」だ。

こんな風景が日常にある盛岡の人にとって、
この風景が幼少の時から刷り込まれている盛岡の人にとって、
岩手山というものの存在は計り知れないだろう。
これこそがふるさとの風景だと思った。

開運橋の説明板を見ると、この橋は盛岡駅開業とともにできた橋で、由緒あるものである。
ということは、盛岡出身の石川啄木も、盛岡高等農林学校卒業の宮沢賢治も、
日常的にこの橋を渡り、この風景を見たという事だ。
当時はもちろんビルなどはなく、岩手山と北上川は今と変わらず、
今、僕の目の前にあるようにあったはずだ。
と思うと、より一層この風景が、啄木や賢治が通った道を今歩いているということが、心にしみる。

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ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな(啄木)


なんと痛ましい人生だろう

岩手山の衝撃の余韻に浸りながら、「啄木新婚の家」を目指す。
「啄木新婚の家」は市街地の中にぽつんとあった。

「新婚の家」というが、19歳で結婚した啄木は、その年に職を失った父と母、妹と同居し、
この狭い家で一家5人の新婚生活を始めたのだ。
しかし、そんな生活は長くは続かなかない。
たった3週間でこの家を離れ、2年後には北海道に移住し、
以後、東京などを転々とするのだが、生活は窮乏を極め、
この家に住んだわずか7年後に26歳で結核で亡くなる。

翌年、妻の節子も2人の子どもを残して結核で亡くなっている。
その2人の子どもも、それぞれ24歳と18歳で早逝している。
なんと幸薄い一生だろう、なんと痛ましい人生だろう。

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「啄木新婚の家」。 不幸を一家で背負ってったったような啄木の人生。
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る(啄木)


岩手のヘソ

市街地の中に三ツ石神社という神社がある。
そこに「鬼の手形」というものがあるというので見に行くことにした。

なるほど、大きな岩が2つあってしめ縄が張られている。
三ツ石というが、3つ目の石は表からはよく見えない。
それ以上に、鬼の手形なるものがどこにあるのかよく分からない。

説明板によれば、昔、この地に鬼が棲んでおり、悪事の限りを尽くしていた。
困った人々がこの三ツ石に祈願したところ、たちまち鬼はこの巨石に縛りつけられた。
鬼は恐れをなし、二度と現れないと約束し、この巨石に自分の手形を押して立ち去ったそうな。

近くにいた地元の人らしき人が、手形の場所は苔が生えないからわかると他の人に解説しているが、
石はすべて苔で覆われているじゃないか。

岩に押された手形だから、「岩手」。
何と、この石が「岩手」の名の由来なのだそうだ。

盛岡の中心部に「不来方(こずかた)」という面白い地名がある。
この地名は、恐れをなした鬼が二度と来なくなった場所という意味だそうだ。
盛岡を代表する夏祭りに「さんさ踊り」というものがある。
この踊りは、鬼がこの地から去って民衆が喜んで躍ったことが始まりだそうだ。
ということは、ここが岩手の、盛岡の、中心、ヘソではないか。

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三ツ石神社の「鬼の手形」。
しかし、鬼の手形はどこにあるのかさっぱりわからん。


まちなかの名水は大いなる慈だ

盛岡は南部藩(盛岡藩)の城下町である。
その名残を残す町屋が連なる歴史的街並みを「もりおか町屋物語館」を目指して歩いていると、
「大慈清水」というものに出くわした。

大慈清水は、原敬の墓所がある近くの大慈寺を水源とし、
藩政時代から利用されている「盛岡三清水」のひとつで、
「平成の名水百選」にも選ばれている由緒ある名水だ。
今でも地元の人が用水組合を作って管理し、生活用水として多くの人に利用されているそうだ。

大抵の○○清水は、水源もしくは水源から引いたパイプを受けて桝が設けられているが、
大慈清水は、大きさが1畳もあるかと思われる桝が上流から下流に向かって4つも設けられており、
さらに上屋までかかっている。
こんな湧水地は見た事がない。
説明を読むと、上から順に、飲み水、米研ぎ、洗い水、足洗いだそうだ。
具体的な用途の明記は、今も生活の中で使われている証左だ。

流量が少ないのがひとつの要因だろうが、
逆に、それが故に、このように大切に細心の注意で水が使われているのだろう。
4つの区画をのぞき込むと、どの区画も澄んだきれいな水だ。
街の中に、今も人々の生活で普通に使われているこんな清水がある。
こんな清水があたりまえのようにある街。暮らしと自然の水の近さ。
いいな。うらやましいな。

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大慈清水。
上から順に、飲み水、米研ぎ、洗い水、足洗いと区画が区切られている。

二度泣かせる街

翌日、もう1日盛岡市内を見て回り、
夕方、再度むこうにそびえる雪をかぶった岩手山を見ながら、
冒頭ご紹介した開運橋を渡って盛岡駅に向かった。

この開運橋は、別名「二度泣き橋」と呼ばれるそうである。
異動で東京から遠く離れた盛岡に転勤を命じられた人は、初めて盛岡に来て開運橋を渡る時、
「こんな遠い所まで来てしまった」と自分の不遇に泣くそうである。

しかし、転勤期間を終えて盛岡を去ることになり、最後に盛岡駅に向かうこの橋を渡る時、
今度は盛岡を離れるのが辛くて再び泣くそうである。

ほんの2日間の盛岡滞在だったが、泣きはしなかったが、岩手山の風景と共に、いい街だと思った。
盛岡の街を心に刻んだ。

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