FC2ブログ

≫ EDIT

目のつけどころ(2018.12)

「物を運ぶ」ということ

何が好きかって、ビールが好きだ。365日飲む。
いつも大瓶2ケース買って常備している。
底をついたので、酒屋に買いに行ったのだ。

いつもの一番搾りを頼むと、在庫がないと言う。
他のものでもいいかと言うので、黒ラベルとスーパードライを買って帰った。
晩飯を作り、いつものようにビールの栓を抜き、コップに注ぐ。
何かいつもと違うのである。

何が違うのかと考えたら、重いのである。
瓶が、重いのである。
改めて瓶を眺めてみると、厚ぼったい感じがする。
一番搾りはもっとスリムな感じだった。

ネットで調べてみると、どのビール会社も軽量化を図っているのだが、
キリンは最も軽量化が進んでいる。
瓶の肉厚は半分となり、大瓶で130g、約20%も軽量化されている。
これはすごいことだ。1ケース(20本)で2.6kgだ。

何が言いたいかと言うと、
瓶の原料が少なくて済むということより、運搬の負荷が少ないということだ。
それだけ燃料が、即ちCO2の排出量が削減されることになる。
キリンによれば、瓶の軽量化により、
製造・物流工程のCO2排出量が年間約930t削減されるそうだ。
環境負荷低減の切り口は様々なところにある。

日経エコロジーが「エコ&社会貢献商品ランキング」というインターネット調査を行っている。
2013年に行われた第4回調査の1位と2位はどちらも電気自動車で、
それぞれプリウスとリーフであるが、3位に飲料が入っている。
日本コカ・コーラの「い・ろ・は・す」である。

「い・ろ・は・す」は、ご承知のとおり、飲んだ後のボトルをくしゃくしゃと「絞る」ことができる。
これを面白いとかストレス解消とかという人もいるかもしれないが、
ペットボトルを圧縮できるということはすごいことなのだ。

製品の省エネやCO2削減というと、製造や使用の状況にまず気持ちが向くが、
必ず存在する「運搬」という工程にも目を向ける必要がある。
使用後のペットボトルの運搬は、よく「空気を運んでいる」と言われ、
LCA(ライフサイクルアセスメント)上の最大の課題だった。

しかし、容器としてある程度の強度が必要なペットボトルを
消費者が減容(圧縮)するなどということは無理なことで、誰もはなから考えもしなかった。
その常識にとらわれず、技術革新を図り、実現したことは称賛に値する。
ペットボトルを「絞る」ことは、環境負荷の低減につながるのだ。

image001_20181204103005e2e.png
「い・ろ・は・す」は、「LOHAS」を掛けてある。「I(am)LOHAS」…「私はLOHAS」なのだ。(資料:日本コカ・コーラ株式会社)

「洗濯する」ということ

上記調査で毎回上位にあがってくる商品がある。
6位の花王の「アタックNeo」である。
なぜかというと、「アタックNeo」のウリは「すすぎ1回」である。

すすぎを2回から1回にすると、1回の洗濯で使用する水の量は28リットル、
電力は15kWh、CO2はトータルで約22%削減されるそうである(花王資料)。
製品そのものではなく、
洗濯の際に使われる「水」に着目したところがコロンブスの卵であり、秀逸である。

image002_20181204103007c28.jpg
今は「『ウルトラ』アタックNeo」だ。(資料:花王ホームページ)

洗濯といえば、洗濯板が密かなブームであるのをご存知だろうか。
いえいえ、熱心な環境活動家が電力に頼らない生活をしているわけではないのだ。
洗濯機に洗濯物を放り込んで洗濯してもなかなか落ちない汚れ、
即ち、食物や飲料の染みや襟元などの部分的な汚れを
ちょこちょこっと落とすのに使われているそうだ。

従って、昔のようにタライに大きな洗濯板なのではなく、洗面器に小さな洗濯板なのである。
これは便利だ。
しかし、そんな洗濯板あるんかいな。
それがあるのである。

高知の「とさこや」の「土佐龍」サクラの洗濯板である。
サイズはSからXLまであるが、120×260mmのSが秀逸である。
これはいい。
美しいし、気持ちがいい。
LOHASな生活は、身近な小さなできることから始めたい。

そして、常識に縛られず、
「こんなのあったらいいな」から自由に発想できる人間でありたい。

image003_20181204103008253.jpg
水に強いサクラ材の洗濯板の大と小。
生地を傷めず、かつ汚れを落とす溝の独特のカーブが美しい。
(資料:とさこやホームページ)

| コラム | 10:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

「誰ひとり取り残さない」ために(2018.11)

SDGs

国の第五次環境基本計画(案)が今年2月に発表された。
今回の環境基本計画のキーワードは「環境・経済・社会」である。
我が国が抱える環境・経済・社会の課題は相互に連関・複雑化しており、
環境・経済・社会の統合的向上が求められるというコンセプトの基に計画が構築されている。

「環境・経済・社会」といえば、
企業の持続可能な発展のためには、経済面に加え、社会面、環境面にも配慮が必要であるという
「トリプルボトムライン」がまず思い出される。
また、企業を非財務面から評価する尺度の
「ESG」(Environment:環境・Social:社会・Governance:企業統治)も思い出される。

さらに、2015年9月の国連サミットで採択された国際目標
「SDGs」(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)
―持続可能な世界を実現するための17のゴール―は、
当然のごとく今回の計画の重要な背景となっている。

地球上の誰一人として取り残さないことを誓うSDGsでは、環境に係る課題だけでなく、
「貧困の撲滅」や「国内と国家間の不平等の是正」など、経済・社会に係る課題も設定されており、
まさに環境・経済・社会は一体的に考えていかなければならないことを示している。

ここに来てやっとわが国でもSDGsがいろいろなところで話題になり始めた。
外務省はあのピコ太郎を起用して
PPAP(ペン・パイナッポー・アッポー・ペン)の替え歌のPR動画を作成し、
YouTubeにアップしたほか、
昨年の7月には国連本部で行なわれた日本政府主催のレセプションでは、
本人が登場して替え歌を披露した。

image002_20181101090147f28.jpg
SDGs 世界を支えるための17の目標(資料:国際連合広報センター)

SDGsの理念は、「誰ひとり取り残さない」である。
これを最初に見た時は驚いた。
これはとてつもなく崇高かつ困難な理念である。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉を思い出す。
この言葉は、フランスの作家デュマの「三銃士」が出典といわれるが、
僕は宮沢賢治の次の言葉を思い出す。

 「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

コスモポリタン賢治

賢治のこの言葉は、彼の著作「農民芸術概論綱要」の中にある言葉である。
実は、この言葉の3行後に、同様に重要な言葉がある。
次の言葉である。

 「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」

なんとグローバルな、コスモポリタンな、エコロジカルな言葉だろう。
The Earth!
地球全体でひとつに、もっと言えば、ひとつの生態系
…閉ざされた系として考えていこうと言っているのである。
まさに、宇宙船地球号だ。

SDGsに至る道のりをふりかえれば、
それは1972年に発表されたローマクラブの「成長の限界」に始まる。
ここで初めて環境容量の側面から地球環境問題が現実の問題として明らかにされたのだ。
それは1992年の地球サミットにつながり、
ここでSDGsのコア概念である「SD(持続可能な開発)」という言葉が生まれ、
以後、地球温暖化防止を中心に地球環境問題はグローバルな基本課題となった。

人間が地球環境に与えている負荷「エコロジカル・フットプリント」を指標にすれば、
もし、世界中の人が日本人と同じ生活をしたとしたら、地球が2.9個必要になるのだ。
今の生活をする限り、地球は既に定員オーバーなのだ。

賢治が「農民芸術概論綱要」を書いたのは、今を去る90年前の1926年(大正15年)のことである。
地球の環境容量などという概念は、当時には、彼には当然なかっただろうが、
彼の理想郷「イーハトーヴ」に向かう直感として、かけがえのないひとつの系として、
グローバルに、エコロジカルにこの世界…地球をとらえていたのだと思う。

image004_2018110109014871d.png
エコロジカル・フットプリント。
もし、世界中の人が日本人と同じ生活をしたとしたら、地球は2.9個必要になるのだ。
世界の人口は、アジアを中心に今後さらに増加していく。地球はどうなるのだろう・・・
(「日本のエコロジカル・フットプリント2017」(WWFジャパン)より)

「誰ひとり取り残さない」ために

しかし、「誰ひとり取り残さない」という理念はあまりにも気高すぎる、と思うのである。
児童虐待、母子家庭、引きこもり、LGBT、障がい者、高齢者、介護、難病
・・・ありとあらゆる貧困や差別がGDP世界第3位の日本でさえあふれかえっている。
理想は高いが、どうするのだ。
どうすればいいのだ。

賢治に戻ろう。童話「ポラーノの広場」に次のような一節がある。

 「ぼくはきっとできると思う。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから」

 「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。(中略)けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」

SDGsが打ち出されて、17の目標に対し、社会の各方面で
「私たちは〇の目標に対してこうする」「わが社は〇の目標に対してこれに取り組む」
という様々な声があがりつつある。
山は動き出しつつあるのだ。少しずつではあるが。

私たちはきっとできると思う。
なぜなら、「誰ひとり取り残さない」ことを今考えているのだから。
みんなの幸になるということは分かっているのだから。

どうしたらそれができるか、もっと考えてよう。
みんなで考えれば、私たちはきっとできると思う。

| コラム | 09:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

気持ちよくない未来(2018.10)

器具のON・OFF

普段何気なく使っている言葉に、ふと気づいたんだ。
ちょっとおかしいよね。
でも今更どうにもならないよね。
これからどうなるんだろうね。

例えば、「チャンネルを回す」だ。「ダイヤルを回す」も同様だ。
今時、チャンネルを回すテレビやダイヤルを回す電話があるだろうか。
しかし、「チャンネルを押す」とか「ダイヤルを押す」とは言わない。
「チャンネルを変える」か「電話をかける」だ。

しかし、「チンする」は最初から「チンする」で、
「電子レンジにかける」とか「電子レンジをつける」とは言わない。
どうやら家電製品とそれを使う時の動詞には、決まったグループがあるようだ。

「ON」については、複数の言い方にまたがるものもあるが、次のように分類できる。
 【つける】ライト、テレビ、パソコン、炊飯器、ストーブ、電子ポット
 【かける】掃除機、アイロン、ドライヤー、ミキサー、ラジオ、オーディオ
 【いれる】こたつ、冷房・暖房
 【まわす】洗濯機、換気扇

「つける」は光や熱が出るもの、
「かける」は動作を伴うものや音が出るもの、
「まわす」は文字通り回転するものだ。

「OFF」については、「消す」と「切る」のどちらもつかうものが多いが、
どちらかを主に使うものもある。
 【消 す】ライト、テレビ、ストーブ
 【切 る】炊飯器、冷房・暖房、
 【止める】洗濯機、換気扇

新しい独裁者

iPhone XS Maxが発売された。
先日、官房長官が電話料金について「4割程度下げる余地がある」と語ったスマホは?
スマホのON・OFFはなんていうんだろう。
「つける」「いれる」じゃないよね。
「消す」「切る」もなんか違うような気がする。

電話する時は「スマホをかける」
写真を撮る時は「スマホで撮る」
ゲームをするときは「スマホでやる」
ググる時は「スマホで探す」
テレビや動画は「スマホで見る」
ラジオや音楽は「スマホで聴く」だ。
(ちなみに、僕は未だにガラケーだ)

CDが売れなくなったそうだ。
音楽は今やネット配信の時代なのだ。
と考えてみると、改めてスマホの特異性が認識される。
スマホは、電話であり、カメラであり、ゲーム機であり、パソコンであり、
テレビ・ラジオであり、レコーダーであるのだ。

まだまだある。
お財布であり、ナビゲーションであり、家電のコントローラーであり、万歩計であり・・・
ほんの10年前は考えられなかったことだ。
ICTやIoTの情報社会の中で、
スマホはウェアラブル化が進み、ますますその機能を高めていくだろう。

image002_20180928134416b4a.jpg
スマホは、電話であり、カメラであり、ゲーム機であり、パソコンであり、テレビ・ラジオであり、レコーダーであるのだ。

頭文字をとって「GAFA」と呼ばれるアメリカ巨大IT企業、
すなわち、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンは、
独占的に世界市場を支配しているといわれはじめている。

ほんの10年前、
どんな場所でも建物の状況がわかるような写真が見られ、
スマホでのNHKの受信料が問題になり、新聞やテレビより情報を拡散させ、
こんな小物が毎日宅配便で届くような社会を誰が想像しただろうか。

その便利さの裏側で、
僕たちがそれらを使った足跡は知らないうちにビッグデータとして蓄積され、
スマホやパソコンには見知らぬ広告が次々と現れる。

街には監視カメラがあふれ、GPSでどこまでも追跡される。
そしてさらに、AIにより、人間には不可能なスピードと能力で様々なことが決断・実行される。

実態がなく、とらえどころのない大きなものによる、誰も逃れられない恐るべき監視社会である。
それは世界中に網の目のように自己増殖したWebのように、
責任者も、コントロールする人も存在しない。

人間の機械化がもたらすもの

新聞に「機械化する人間」という記事があった。
人間の体の一部が機械になっていくという話だ。
早い話が、平たく言えば、サイボーグだ。

分かりやすい例は、義手や義足だ。
義手や義足のうち、失われた手や足の形を作って装着するものを「装飾義手(足)」というそうだ。
というか、小生はそれが義手(足)だと思っていた。
が、最近は「筋電義手」というものがあるそうである。

これは残された手の筋肉の電気信号を介して装着者が意識的に「動かせる義手」だ。
まさに人間の体の一部が機械になったというか、機械で補助するというものだ。
機械で補助するといえば、
最近では介護や農作業などで重いものを持ち上げるのを補助する
パワースーツのような装着機械がある。

これらは機械の力を借りて、できなかったことができるようになるということである。
しかし、「機械の力を借りて、できなかったことができるようになる」ということは、
そんなに特殊なことじゃない。
手や足の機能や力についてのことだけじゃない。

たとえば、VRで見えないものを見ること、
SNSで瞬時に世界と話すこと、
AIを使って瞬時に答えを出すこと、
これらはみんな「機械の力を借りて、できなかったことができるようになる」ということだ。
「人間の機械化」は、サイボーグ的な見た目のフィジカルな部分より、
具体的に見えない五感の部分から進んでいる。

いや、それは、「浸食」されているという言葉の方が近いのではないか。
僕は、漠然とした、何かいや~な感じがするのである。
それは、キラーマシーン(殺人兵器)をイメージさせる、いや~な感じがするのである。

アナログを生きる

一昨年、実家に引越し、実家と自分の家のものの整理をした。
今の言葉でいえば、いわゆるAV、自分の持ち物でそれなりの量があるのは分かっていたが、
今となってはもうほとんど使うすべがないのだが、捨てられない。
それは、カセットテープ、ビデオ、そしてゲームソフト、テレホンカードだ。

高校生の頃からダビングしてとりためたものや大学のクラブの定期演奏会のカセットテープ。
その一つひとつに思い出が詰まっている。
長男の成長を撮りためたカセットビデオ。
小生の結婚式のビデオはβだ。(と言っても、分からない人が多いんだろうなあ)

ファミコン時代のドラクエ他のゲームのカセットもとても中古屋に売る気にならない。
今はもう子供もいるかつて小さかった息子と妻と親子3人でテレビの前に座り、
主人公の勇者に子供の名前をつけ、
「メラ!」「ギラ!」とやっていたあの頃の思い出が詰まっているから。

残っているテレホンカードはすべて何かの記念品だ。
知り合いの結婚式、自分が設計した公園の竣工式などなど、
唯一無二のものが処分できるだろうか。

引越しの時、一瞬処分しようかと思ったけど、やっぱり手元に残した大量のレコード。
学生の時、お金を貯めては中古屋で買いためたJAZZのレコードだ。
一つひとつのレコードに思い出が詰まっている。
それは自分の青春史であり、自分の音楽史だ。
あのアルバムの、あの曲の、あそこのアルトサックスの入り、あのピアノの出だし・・・
引越しに際し、レコードを処分するどころか、僕は新しいプレーヤーを買ったのだ。

image003_20180928134418462.jpg
キースジャレット「ケルンコンサート」のレコードジャケット。
もう、たまらん。

ユーチューバーやインスタ映えがもてはやされている昨今である。
彼らがスマホで撮りためた膨大な画像はどうなったんだろう。どうするんだろう。
僕は、化石と化したカセットテープやカセットビデオを抱えつつ、アナログのレコードに針を落とし、
美しい気持ちで今を過ごしている。

| コラム | 14:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

夏の思い出(2018.9)

この夏は暑かった

この夏は暑かった。
いやいや、過去形ではない。9月になってもまだまだ十分暑い。
現在進行形だ。

今年初めて聞いた「危険な暑さ」という表現は、
テレビのニュースでもう聞き慣れた。

高校で地学を教えている友人が、
「ラニーニャ現象が起きているので、今年の夏は暑くなるよ」と言ったが、
まさにその通りになった。
ラニーニャ現象とは、太平洋のペルー沖の海面水温が平年より低くなることだ。
そのことにより、逆に太平洋の東南アジア付近の海面水温が平年より高くなり、
太平洋高気圧を強め、日本に暑い夏をもたらすという。

それに加え、この太平洋高気圧とチベット高気圧の「ダブル高気圧」が日本付近に居座り、
酷暑をもたらしたようだ。

わが家の庭でも、この夏はいろいろ異変が起きた。
まず、いつもはあれほどうるさいセミが、この夏はほとんど鳴かなかった。
抜け殻は結構みつかるが、鳴く前に力尽きてしまったのだろうか。

わが家の庭を毎日巡回パトロールする野良猫たちも、まったく姿を見せなかった。
しかし、唯一の例外は蚊で、蚊は暑すぎると出ないというが、とんでもない。
わが家の庭にはどこにでもやぶ蚊がいて、庭に出ると瞬時にやられてしまう。

植物はさらに悲惨で、毎日の水やりもまさに「焼け石に水」。
緑のカーテンのゴーヤは、実がまだ小さいのに次々と黄色くなってしなびていき、
まともに収穫できなかった。
この夏は、沖縄より本土の方が日射が強く暑かったのではないかと思う。
アイビーやシロタエギクは日焼けしてずい分葉を落としたし、
クローバーやヒューケラなどの地被類はことごとく枯れてしまった。

image001_20180903100841205.jpg
ゴーヤは、実がまだ小さいのに次々と黄色くなってしなびてしまった。

image002_20180903100842334.jpg
他の植物は元気なのに、日影が好きなヒューケラは枯れてしまった。

ところで、夏が暑いと半年後にとても困ることになるのをご存知か。
今から「やだなー」と気分が滅入ってしまう。
それは、「花粉」である。
夏が暑いと杉の花の成長が良く、大量の花粉が作られるのである。
やだなー。

この夏はひどかった

この夏の大事件と言えば、何といっても豪雨災害である。
7月6日のあの夜、わが家も危うく床下浸水になるところだった。
小生の知り合いにも「あぶなかった」という人が何人かいる。

広島県内では、マスコミには出ないが、
河川の支流のそのまた支流や市町村道、田んぼや畑やため池など、
規模は小さいが、郊外の中山間地域のあちこちで被災している。
普段は水の少ない小さな河川があふれて道路が寸断され、小さな集落が孤立した。
復旧は、大きな被害が出た地区や幹線交通が優先され、
マスコミにも出ない小さな集落にはボランティアも入らない。
そして、中山間の小さな集落は、高齢者ばかりである。

今回の災害に関する報道で気づかされたのが、支援物資についての様々なことである。
避難・復旧の状況に応じて被災者のニーズは刻々と変わるため、
支援物資のミスマッチが起こる。
被災当初はそれこそ飲み物や食べ物、様々な日用品が求められるだろうが、
復旧の段階になると、スコップや手鍬、ブルーシートや土嚢が求められる。
そうなれば、あれほど必要だった様々な日用品は山積みになるだろう。

今回の災害で、今更ながら明らかになったのは、
支援物資の保管スペースと、
何よりそれを仕分けして整理し、被災者のニーズに応じて適宜提供する役割の必要性だ。
それは本来役所が担うべき仕事だろうが、役所からしてみれば、
被災地ではあまりにもやることが多く、手は回らないのは仕方がない。

東日本大震災のあと復興事業で被災地に行く機会があり、
実際に被災地を見、被災者の方に話を聞くことができた。
それによれば、被災後しばらく困ったことはたくさんあったが、
そのひとつはガソリンがなく、車が動かないことだったそうだ。
鉄道が被災している中で、車があっても動かないから何もできない。

東日本大震災は原発事故も含め、街自体が壊滅的な被害に遭ったため、
ガソリンスタンドも被災し、残っていたとしても道路が寸断され、
給油のタンクローリーが入れない。

どんな社会活動をするにしても、ベースとなるのはエネルギーと交通・運輸である。
これがなければ何もできない、何も始まらない。

戦争にしても、兵力以上に兵站、
すなわち戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、
また、後方連絡線の確保にあたる活動機能(ロジスティクス)が重要なのである。
余談だが、ロジスティクス戦略の概念自体がなかった日本には、
最初から太平洋戦争に勝てる見込みはなかった。

サンダーバードよ再び

ふり返って見れば、2010年以降たった8年の間に、
東日本大震災、広島の集中豪雨、御嶽山噴火、熊本地震、九州北部豪雨、
そして今回の西日本豪雨と、毎年のように「大災害」とよべるような災害が起こっている。

これらの災害が不幸中の幸いなのは、
原発事故を誘発した東日本大震災を除いてはみな単発なことである。
しかし、大災害が複合して起こることは十分あり得る。

いつ起こるか分からないが、近い将来必ず起こる東海・東南海地震。
それに誘発される火山活動。
そして毎年のように起こる台風や豪雨による洪水や土砂災害。
それらが同時に起こることだって十分考えられる。
地震で地盤が揺らいだ後に豪雨と土砂災害、
火山灰が積もった後に豪雨と土砂災害・・・想像するだけで想像を絶する。

数十年から数百年おきに噴火を繰り返してきた富士山が、
最後に噴火したのは今から約300年前の年前の1707年の宝永大噴火だ。
そしてその噴火は宝永地震の49日後に発生しているのだ。

毎年のように起こる大災害。
その度に繰り返される役所のオーバーフローとボランティアへの依存。
これでいいのだろうか。

カスタトロフィ(大破局)は、災害国日本ではいつ起こってもおかしくない。
国として、大災害発生時に起こる様々なことに対応する特化した組織があるべきではないのか、
と思うのである。
起こってからでは遅い。余裕のある時に組織を作って訓練を重ね、備えておく必要がある、
と思うのである。

懐かしいあのサンダーバード「国際救助隊」のような組織があってもいいと思うのである。
わが国には自衛隊というシーズもある。
戦争するのではなく、
事故や災害時の救助・救援を担うプロの公的な組織が必要なのではないかと思うのである。

image004_20180903100845d76.jpg
サンダーバード2号。
国際救助隊の全ての救急メカを事故災害現場へ運ぶ輸送用大型航空機。
(海洋堂フィギア)

夏の終わりに

暑い夏、ひどい夏が終わろうとしている。
春がやだなー。
また来年の夏も暑いのかなあ。
「夏痩せ」とは異次元の世界に生きる小生は、暑さを癒すビールがすすみ、
「夏太り」となった腹をさすりながら、この国の事を憂いている。

| コラム | 10:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

たくさんのふしぎ(2018.8)

アインシュタインの言葉

相対性理論をはじめ光や時空について
従来にはない大胆な発想で近代物理学の基礎を築いたあのアインシュタインが、
次のような言葉を残していることを知った。

「現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、ある極めて強力な力がある。
それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、
宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、
しかも私たちによってまだ特定されていない」

物理といえば、以前もこのコラムで書いたけど、
高校生の頃、原子のことが不思議でならなかった。

ご存じのように、原子は原子核の周りを電子が回っていると教えられた。
それはいいのだが、原子核や電子はとても小さいのだ。
いろいろ調べてみると、原子の直径は原子核の10万倍ぐらいあるという。
原子核の大きさを1mmとすると原子の大きさは100mになる。
原子を野球場に例えると、原子核は2塁後方にある砂粒だ。
原子って、スカスカじゃないか。

でも、例えば金属はカチカチで、ものがぎっしり詰まり、隙間なんてないじゃないか。
ということが、不思議で不思議で、
物理や化学の先生になぜそうなのか聞きに行った。
そしたら先生は「アシモフとかガモフとかの科学者がSF小説を書いているから、
まずそれを読んでみなさい」とはぐらかされた。
不思議だなあ。

image001_201807311000192f8.jpg
国際原子力機関(IAEA)のマーク(ラザフォードの原子模型)
原子核の周りを電子がぐるぐる・・・原子の中はスカスカじゃないか

光は波である。
波は、波という物質があるのではなく、ものが伝わっていく状態をいう。
例えば池に石を投げ込むと波紋が広がっていく。
水が波という状態を作っているのであって、波という物質があるのではない。
すなわち、波はそれを伝える媒体―この場合は水―があって、
初めて作られるものである。

ここまではいいのだ。何の問題もない。
問題はこれからだ。

太陽の光が地球に降り注ぐ。
で、太陽と地球の間に何があるのか。
真空じゃないか。なにもないではないか。
伝えるものがないのに、どうして伝わるのか。
おかしいじゃないか。
不思議だなあ。

僕はいったい誰だ

昨日のあなたと今日のあなたは違う。
いえいえ、精神論的な話じゃない。
昨日のあなたの体と今日のあなたの体は違う体なんだ。
バカなことを、と思われるかもしれないが、本当だ。

胃や腸の表面の細胞は1日で置き換わるのはご存じか。
ちなみに、赤血球の寿命は4ヶ月、骨細胞は10年だそうだ。
このように私たちの体の多くの細胞は程度の差こそあれ、絶えず置き換わっている。

ただし、置き換わらない細胞もある。
寿命が人間の一生と同じという細胞、すなわち、脳の神経細胞や心臓の心筋細胞だ。
だから、脳梗塞や心筋梗塞が致命的なのだ。
しかし、iPS細胞などの最近の再生医学では、
こんな二度と細胞分裂をしないといわれていた脳の神経細胞でも
再生する力を持つことが解ってきたそうだ。

日々どんどん入れ替わっていく自分の体。
じゃあ、僕っていったい誰だ。

突然だが、牛は草を食べ、その植物繊維(セルロース)を消化する。
私たち人間をはじめ、多くの動物はセルロースを分解することができない。
牛が4つの胃袋を持つことはご存じだと思うが、
牛がセルロースを分解できるのは、この4つある胃袋と大いに関係がある。

ところで、小生の今までの記述には嘘がある。
改めて言い直すことにする。
牛はセルロースを消化(分解)できない。

何を言っているのか。
じゃあ、今までの記述は何だったのか。

実は、セルロースは牛ではなく、
牛の胃袋にすみついている微生物が分解しているのだ。
牛は、これらの微生物がセルロースを分解して作り出したブドウ糖や、
されにそれから作り出したアミノ酸等を「食べて」いるだけなのだ。
すなわち、セルロースを「食べて」いるのは微生物であって、牛ではないのだ。

生きているのは、まず微生物であって、それにより牛が生かされているのだ。
じゃあ、牛の命って何だろう。
牛が生きているのではなく、
微生物の「乗り物」として生かされているだけではないのか、
という疑問がわいてくる。

image002_20180731100020863.png
牛は牛であって牛でない。牛の胃の中に棲む微生物の乗り物だ。

ここまでくると、「パラサイト・イブ」の話を思い出す。
「パラサイト・イブ」は、ミトコンドリアが細胞の支配を逃れ、
宿主である人間に対し叛乱を起こすというSFホラー作品である。

生物の細胞内には真核とミトコンドリアがある。
両者は地球上に生命が誕生した頃はそれぞれ別の生物だったが、
やがてミトコンドリアは真核を持つ生物に取り込まれ、その一部となった。
しかし、ミトコンドリアは真核とは別のミトコンドリアDNAというDNAを持っており、
分裂、増殖する。

この物語の科学的知見のベースになっているのが利己的遺伝子説といわれるもので、
これは、今までの、種のための個体、個体のための遺伝子という考え方を逆転させ、
遺伝子から生物の進化を解釈するものである。

すなわち、遺伝子は自分のコピーを残すことを目的とし、
その過程で生物体ができあがるという考え方である。
つまり、我々人間を含め、生物個体は遺伝子が自らのコピーを残すために
一時的に作り出した「乗り物」に過ぎず、
ミトコンドリアDNAは、細胞、およびそれでかたちづくられる生物と「共生」しているのではなく、
自己の遺伝子のために生物に「寄生(パラサイト)」していると考えるものである。

image005_20180731100025ab9.jpg
著者の瀬名秀明は当時東北大学薬学部大学院博士課程に在籍
第2回日本ホラー小説大賞受賞

これは、とてもショッキングなことだ。
僕たちは、生きとし生けるものは、さも自分の意志で活動し、生きているように思えるが、
それは全く違うということだ。

生命というものが生まれた時から、
自分のコピーを残すことだけが唯一の目的の遺伝子というものがあり、
それが延々40億年間、脈々と受け継がれてきただけのことだ。

その間に生まれ、死んでいった無数の生物は、その「乗り物」にしか過ぎなかった。
その最初の遺伝子の営みにより、
この世界のすべて、森羅万象が成り立っているのである。
この遺伝子の意思だけが、この世の中で唯一存在するものだとは。

再びアインシュタインの言葉

冒頭に述べたアインシュタインの言葉は、こう締めくくられている。

「この宇宙的な力は「愛」だ」

| コラム | 10:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT